46.動き出した気持ち
46.動き出した気持ち
涼子の家は武蔵野台美術大学の最寄駅でもある“武蔵野の森”駅から聖都へ向かって一つ先の“武蔵野の丘”駅が最寄りの駅になる。
家族は両親と兄、妹の5人家族だ。
両親は二人とも弁護士で、同じ弁護士事務所で働いていた。結婚を機に母親の敬子は事務所を辞め、主婦に専念することにした。事務所を辞めても、父親である公彦の良き理解者であり、的確なアドバイスを与えてくれるパートナーでもある。
長男の雅彦は涼子の兄で、聖都と双璧の関西の名門、平城大学の法学部に入った。
妹の敦子は、涼子と同じ高校で、演劇部に入っている。
涼子は幼い頃か、両親の影響もあり、弁護士という職業に憧れていた。高校に入った頃には、はっきりと将来は弁護士になると決めていた。
兄の雅彦も両親の影響を受けて、弁護士になるつもりでいたが今は検事を目指して勉強している。
敦子だけは映画女優になるといって、日夜演技の勉強に励んでいる。家にいるときでさえ、日常の会話や仕草も演技を意識して過ごしている。これには涼子も両親もあきれていたけれど、今はもう、諦めている。
父親の公彦は仕事がうまくいって機嫌がいいときなどは、敦子に会わせて大袈裟なゼスチャーや言い回しで、敦子との会話を楽しんでいる。
高校に入ると、3年間温子と同じくラスだった。涼子の席の前は、3年間、ずっと温子だった。
涼子はクラスでも学校でも一、二を争うほどの美人だったので、他校の何人もの男子生徒から告白された。しかし、学校は女子高だったために、涼子とは逆に女の子から告白されることでは一、二を争う温子とずっと一緒にいたので、ボーイフレンドをつくることにさほど興味を抱かなかった。
高校3年になったときには、涼子と温子はお似合いのカップルだと、下級生達から、羨望のまなざしで見られていた。
温子はそのことに対して、特に何とも思っていないようだったけれど、涼子にとってはとても心地の良いものだった。
聖都に入って、温子が孝太と付き合っているのを知ったときには、すごくショックだった。けれど、温子の嬉しそうな表情を見るたびに、なんだか自分も同じように恋をしているような気分になっていった。そして、いちばん身近にいた孝太のことをいつしか意識するようになっていた。けれど、孝太は温子の恋人である。
「だめ!いけない!」
そう思えば思うほど、孝太に対する思いは大きくなっていった。
涼子は机の上に置かれた、キーホルダーを見つめている。孝太がこれをパッと目に付くようなところに付けてくれるはずはない。そう思いながらも自分がそれを身につけていたら、もし、それを温子に見られたとき、孝太が同じものを持っていることに気が付けば、二人の仲を疑うかもしれない。涼子は、キーホルダーを、机の引き出しにしまい込んだ。
CIPの部室には温子と涼子、それに良介と望がいた。それから、もう一人涼子たちと同じ法学部の学生がテーブルの真ん中の折り畳み椅子に座っていた。何人かの友達と、ある女の子の誕生日を祝ってやりたいというのだ。
良介は、温子をプロジェクトリーダーに任命した。望は反対した。
「まだ早い!」
と言うのが理由だった。けれど、良介は押し切った。
「な~に、彼女なら大丈夫だよ。何事も経験さ」
温子は例によって、突然の大任を喜んで一生懸命彼の話を聞いている。
孝太が部室に入ってくると、温子は偉そうに、指図した。
「孝ちゃん、お客さんにお茶でも買ってきてちょうだい」
ポケットの小銭を取り出すと、それを孝太に渡した。けれど、十円玉が六枚と、一円玉が3枚しか入っていなかった。それを見た孝太は、あ然とした。
「いいよ」
笑って温子を見てから部室を出た。すると、孝太の後を追う様に涼子も席を立った。
「私も、何か買ってくる」
「じゃあ、俺にも何か頼む。そうだな、コーラにしよう」
良介がそう言うと、望も、レモンティーを頼んだ。
「はい。分かりました」
涼子が、テラスから階段を下りようとしたとき、孝太が、ポケットの小銭を、床にばらまいているのが見えた。
「まあ、たいへん!」
そう思った涼子は急いで階段を駆け下りると、孝太がばらまいた小銭を拾うのを手伝った。
「サンキュー!」
見あたる範囲の小銭は全て拾ったはずなのに、孝太はまだ何かを探しているようだった。
「あれ~、どこに行っちゃったんだろう!」
そう呟きながら、自動販売機の下を覗き込んでいる。
「あった、あった!」
自動販売機の下に手を突っ込んで、どうにか拾い出したのは涼子があげたキーホルダーだった。
「孝太君、それ…」
「ああ、涼ちゃんに貰ったヤツだ。なんか、俺に似ているようで、いつも、ポケットに入れてあるんだ。それより、どうしてここへ?」
「うん、部長と副部長に頼まれて」
「そうか、何を買えばいいんだ?」
涼子は望にレモンティーと、良介にはコーラを頼まれたと言った。
孝太は、次々に、小銭を入れては、言われたもののボタンを押していく。
「涼ちゃんは何がいい?」
「えっ?いいよ!私は自分で買うから」
「いいって。ほら、この前“HIRO”でごちそうになったろう。しかも、あの時涼ちゃんお釣り忘れただろう?」
「あっ!」
「ねっ、だから、何がいい?」
「じゃあ、アップルティーを」
「涼ちゃんって、アップルティーが好きなんだねぇ」
「えっ?そうかしら」
「そうさ!いつもアップルティーを飲んでる」
涼子は孝太が、キーホルダーを持っていてくれていることも嬉しかった。そして、涼子がいつもアップルティーを飲んでいると言ってくれたのは、もっと嬉しかった。そういうところを孝太はちゃんと見てくれていた。
孝太が両手に6本の缶ジュースを抱えてテラスの階段を上っていく。涼子はその少し後を歩いてついて行く。ただ、それだけのことが涼子はとても嬉しかった。
部室に戻ると、温子からの第一声が聞こえてきた。
「孝ちゃん、遅い!」
「悪い、悪い!下で、小銭ばらまいちゃって」
「も~!何やってるのよォ!」
温子は客に詫びて缶コーヒーを差し出した。
孝太は、望と良介に、それぞれ、レモンティーとコーラを渡してソファーに腰を下ろし、
ため息をついた。そんな孝太を見て、良介が小声で呟いた。
「倦怠期か?」
その声は望に聞こえたらしく、望の蔑んだ視線を感じた良介はふと身をかがめた。案の定、良介の頭の上をボールペンのキャップが飛んでいった。




