32.思い出のサイン帳
32.思い出のサイン帳
店内には、コーヒーのいい香が漂い、店の奥にある電話台の脇には、太った雑種のネコが時折、大きな口を開けてあくびをしながら、横たわっている。
カウンターの中ではこの店のアルバイトで、美大生のアイドル、江藤智子が洗い物をしている。
薫は、カウンターの一番手前の席から、そんな智子をずっと眺めては、ため息を付いていた。智子は、この春、武蔵野台美術大学を卒業し、この喫茶店“HIRO”でアルバイトをしている。秋には、イタリアの工房へ行くことが決まっていて、つかの間の骨休めと、旅費をためる目的で、叔母の博子が経営するこの店で働いているのだ。
薫もそのことは知っていた。薫にとって、智子は大学に入って以来、ずっと憧れの人だった。
「先輩、本当に行っちゃうんですよねぇ」
智子は、洗い物の手を止めて、薫の方にやって来た。長い髪をバンダナで束ね、店のロゴが入ったエプロンをしている。眉毛が隠れるかどうかというところまで前髪を垂らしている。少し切れ長の目は知的で、小さな輪郭の顔の中にバランスよく収まっている。
薫の前で、カウンターに両肘を付いて頬杖をし、薫の顔をじっと見る。薫は不意に目をそらす。
「何のために、むさ美(武蔵野台美術大学)を卒業したと思っているの?小田切君だって知っているでしょう?」
薫がむさ美に入学した時、智子は既に4年だった。彼女が手がけるブロンズの彫刻は、国内のコンクールでは常に入賞するほど、見事なものだった。
薫は、智子が卒業するまでの1年間だけ、彼女のチームでブロンズ像の制作に携わっていた。そんな、智子をイタリアの有名工房のデザイナー、レオナルドがスカウトしたのだ。
「だけど、さびしいっすよ。俺、もう先輩に会えなくなると思うと…」
「バカねぇ!大袈裟よ。そんなこと考える暇があるなら、小田切君も頑張って、レオナルドに認められるような作品を出すことね」
「レオナルドに認められるなんて俺には不可能っすよ」
「何言っているの?1年間手伝って貰ったけど、なかなかのものよ。小田切君のおかげで、今の私があるようなものなのよ」
「そうっすか?なら、俺も、頑張ってみようかな。何か元気でてきたっすよ」
「そう、そう、落ち込んでる小田切君は、らしくないわよ」
そうだ、そうだとでも言うかのように、奥に横たわっていたネコが薫のそばに寄ってきて、ニャア~と鳴いた。
カキーン!勢い良く飛んでいく打球を、左翼手が必死に追いかけて行く。
「おーい!藤村、何やってる。バックホーム来るぞ。カバーに行かないか!」
右中間、ややレフト寄り、左翼手が見事にランニングキャッチ。同時に三塁ランナーがタッチアップでホームに突っ込んでくる。外野手はすぐに、ホームへ返球する。返球は大きくそれて、カバーに走った投手の元へ転がった。それを見て二塁ランナーもホームへ突っ込んでくる。投手は素早くボールを掴んで、捕手へ送球する。間一髪、主審の右手が上がる。
「アウッ!スリーアウト!ゲームセット!」
高校野球春季大会県予選の準決勝。大樹の高校は5-4で何とか、逃げ切り、決勝進出を果たした。これで、関東大会への切符を手にした。
ベンチに戻ってきた藤村大樹を、コーチの中西明弘が迎えた。スタンドで見ていた知美は、大樹と明弘に手を振った。
「頑張ったね!おめでとう。お母さんが家でごちそうを作って待ってるから早く帰って来てね」
「気が早いよ。負けたらどうするつもりだったの?」
「その時はその時よ。明弘君もお疲れ様」
「どういたしまして」
一足先に帰宅した知美が母親の優子とごちそうを用意していると、大樹が帰って来た。明弘も一緒だった。
「おじゃまします」
明弘は、テーブルに並べられた料理を見て唾をごくりと飲み込んだ。大樹は、唐揚げを一つ摘んで口に放り込み知美の方を向いた。
「まさか、姉貴が見に来るなんて思わなかったなあ。」
知美は、つまみ喰いをした大樹の手を叩いて、睨み付けた。
「まだ手を洗ってないでしょ!」
そう言って、あごで洗面所の方を指した。
「ちょっと、忘れ物を取りに家に戻っただけよ。試合を見に行ったのはついでよ」
「そんなことだと思ったよよ」
大樹は洗面所で顔を洗いながら言い、洗い終わると水道の蛇口をひねって水を止めた。
「久しぶりだな。元気だったか?」
明弘は、テーブルの端に腰掛け、ペットボトルの水を飲んだ。
「まあね」
知美は、そう言って冷蔵庫からビールを取りだし、グラスに注いだ。ちょうど、父親の幹生が風呂から上がってきた。
「中西君、今日はよくやったね。おめでとう」
「大樹が、踏ん張ってくれたからですよ」
「明日も頼むよ」
「ええ、任せて下さい」
食事の支度ができたので、知美は、母親の優子に言われて、祖母のユメを呼びに行った。ユメは車いすを押してもらって、テーブルの手前の席、いわゆる、お誕生日席にあたる場所についた。
「大樹、今日は勝ったのかい?」
大樹は、ユメに向かって、Vサインを出して「イエーイ!」と答えた。
ユメは満足そうな笑みを浮かべ、ビールのグラスを差し出した。
食事が終わると明弘は「それじゃあ。」と席を立った。知美は玄関の外まで明弘を見送った。
「広瀬君に会ったわ。」
明弘は振り向かずに、「そうか」とだけ言って、立ち去った。 部屋に戻ると知美は、机の引き出しからサイン帳を取りだした。一番、最後のページを開く。孝太に書いて貰ったページだ。懐かしい文字が書かれてある。
『3年間いっしょで本当によかった。ありがとう。』
知美は、しばらく、その文字を見つめていたが、やがて、サイン帳を閉じ、バッグにしまった。




