11.握りしめたメモ
11.握りしめたメモ
孝太が通っていた高校へは、自転車で20分ほどだが、今日は1時間近く掛けてゆっくり歩いた。
帰ってこようと思えば、いつでも帰って来られるのだが、生まれ育った土地の風景を心に焼き付けながらゆっくり歩いた。途中で何人かの同級生達が自転車で追い越しながら、声を掛けていった。
高校3年間、勉強とアルバイトに明け暮れた孝太には、親友と呼べる友達はほとんどいなかった。それでも、幼なじみの中西明弘だけは何かにつけて孝太のことを気に掛けていてくれた。
明弘は、成績がいい方ではなかったので、高校を卒業したら家業の自転車屋を継ぐことにしていた。孝太が高校時代に使っていた自転車は、壊れた中古を明弘が修理して譲ってくれたものだった。
学校に着くと、校庭のあちこちで、はしゃぎまわる同級生達の姿があった。
孝太はまっすぐ教室に向かい、自分の席に着いた。教室の黒板には、在校生により、卒業を祝うメッセージが書かれている。
孝太の机には、相合傘に“孝太”と“知美”の名前が記された落書きが彫り込まれている。これも明弘の仕業だ。
“知美”とは孝太が中学の頃、思いを寄せていた子で、明弘と一緒に同じこの高校に進学した。3人は3年間ずっと同じクラスだった。
高校に入ってからも、付き合うなどということはなかったが、これを刻まれてからクラスで噂になった。
知美はちっとも気にしていないようだったが、孝太にはそのことがかえって心苦しかった。
そんなことを思い出しながら落書きを指でなぞっていると、誰かが孝太の肩をポンと叩いた。振り返ると明弘だった。
「ちょっと来いよ。」
そう言って、明弘は孝太を手招きすると教室を出ていった。孝太は、席を立ち明弘を追いかけた。体育館の脇まで行くと、明弘は更にその先をあごで指し示した。その方向に目を移すと、そこには藤村知美がいた。
「じゃあな。がんばれよ!」
孝太の背中を押して明弘は去っていった。
藤村知美は、上品でスタイルも良く肩まで伸びた髪がとてもしなやかで綺麗だった。そして、広瀬涼子と瓜二つでもあった。
「呼び出したりしてごめんなさいね。迷惑だったかしら?」
孝太は驚いた。「とんでもない!藤村に呼び出されるなんて…」そう言おうとしたが、声にならなかった。
知美は手提げ袋の中からサイン帳を取り出し、孝太に渡した。
「これ…お願いしてもいいかしら。」
孝太はサイン帳を受け取り、パラパラとめくってみた。空いているページはどこにもないように見受けられた。しかし、知美は最後のページを示して、何色かのカラーペンを出した。孝太は黒のサインペンで一言だけ書いた。
『3年間いっしょで本当に良かった。ありがとう。』
さっと、サイン帳を閉じ、知美に返した。
「ありがとう、広瀬君。」
知美は深々と頭を下げて礼を言うと、右手を差し出して握手を求めた。
「どういたしまして。」
そう言って、右手を学生服で拭いてから知美の手を握った。
「!」
握った知美の手の中に、何か入っている。
知美はすぐにもう一方の手を添えて、両手で孝太の手を握りしめた。そして、それが落ちないように孝太の手を閉じさせてから、走ってその場を去っていった。
孝太は、しばらくその場に立ちすくんでいたが、チャイムの音に我に返って、右手の中のものを握ったまま、その手をポケットに突っ込んで、大急ぎで教室に戻った。
卒業式は、つつがなく終了した。
孝太は、一度、家に戻ってから学生服を脱いでタンスにしまおうとした。しかし、その時ハッとしてポケットの中をまさぐった。
知美に渡されたメモ用紙が入っていた。それには東京での知美の下宿先の住所と電話番号が書き記されていた。
孝太はメモ用紙を財布にしまい直し、学生服をタンスにもどした。雄太が中学に上がったら、これを着ることになるのだ。
孝太がアパートへ戻る時間になると、雄太は駅まで見送ると言った。
二人で昼飯を食べられるように、母親が雄太にお金を渡してあったらしい。二人は駅前の大衆食堂に入り、孝太は野菜炒め定食、雄太はオムライスを注文した。
食事が済んだら、二人は手を振って別れた。そして、孝太は駅の改札に向かった。




