第五話
人が住む地上界とは別のもう一つの世界“天界”に、地上界で言う空気のように当たり前に存在する物質、それが魔力である。
魔力は詠唱者の詠唱によって魔術へと展開し、その形、性質を詠唱者の思うがままに変えることができる万能の物質。
その魔力を糧に生命を保っているのが天界の住人、天使だ。
体内に魔力を蓄え、肉体の再生や老化の抑止が可能な術式が使える彼らはその身に在る魔力がなくならない限り、老衰することも死ぬことはないという。端的に言えば、事実上の不老不死。
しかし不老不死がために民の数は増え続ける一方であり、それ故にほぼ無限に在った魔力の残量も長い年月で見ると危うくなってきた。
そこで天使たちが出した結論は前々から調べてあった地上界に在る『魔力の代替』――人間という生物がもつ“精気”を吸収することだった。
実際この試みは成功し、天使たちは自身の体内の魔力が不足してくるたびに補給のため地上界へと舞い降りた。
しかしこれに異を唱える者たちが現れた。
それは天使ではなく、古来より地上界の安泰を保つ監視者――悪魔だった。
人でありながら人ならざる者である悪魔は、いわば人間の派生系である。
彼らは地上界で唯一魔力の存在を認識し扱える者であり、その肉体は不老不死とまではいかなくとも寿命と絶大な魔術攻撃を受けること以外では死なない、ほぼ不死の体であった。
そんな彼らは天使が精気を人間から奪うたびに奪われた人間は死に、そのせいで世界のバランスが崩れようとしていることに気づき、天使たちにすぐさま止めるよう勧告した。
しかし無論天使たちもそう易々と引き下がるはずもなく、両者の溝は少しずつ深まっていった。
やがて対立した両者は、天使が地上界に現界するたびに、追い返そうとする悪魔と対抗する天使で魔力による膨大な威力を持つ魔術での激戦を繰り広げるようになった。
――奇跡的に意識を取り戻し、額に赤いたんこぶをつくりながら連れられた部室で唯香から守が聞かされた説明は、要約するとこのようなものだった。
「……ようはそんなファンタジーな話を信じろと?」
そしてこれが話を聞いた守の感想だった。
「まぁ今すぐ信じろとは言わないわ。でもあなたは信じるしかない」
非現実的な、突拍子もないことを説明し終えた唯香は分かりきったような口調でうなずく。
こんな胡散臭い話、信じるというほうが無理なのだ。そんなことは彼女にも分かっていた。
しかしだからといって守は唯香のした話を一蹴することはできなかった。
それはこんな信憑性のない話でも一つだけ、信じざるを得ないことを先ほど目の前で見てしまったからだ。
「なぁ双葉さん。さっき俺が受けた氷の塊……あれは幻想や夢なんかじゃないんだよな?」
そう、先ほど目の前で起きた光景――彼女の指先から淡い光とともに何もない空間から氷塊が現れた事実こそが唯一この話に現実味を持たせているのだった。
そしてこれが唯一このファンタスティックな内容の話を守に信じざるをえなくさせている要因なのだ。
自然と口から零れたその質問に、唯香は待ってましたとばかりに口角を吊り上げる
「えぇ、あれは夢なんかじゃないわ。紛れもない現実よ」
凛とした瞳を輝かせ、守の狼狽っぷりをみて面白がっている唯香は今朝とは全く違う、一言で言えばサディスティックなオーラを全身に漂わせている。
先ほど知ったのだが、どうやらこちらの唯香が“素”なのだそうだ。いやはや全く、超優等生にしか見えない彼女が本当はドSの悪魔だと言われて誰が信じられようか。
(しかし双葉さんの話したこと本当だとしたら……)
そう、そうすると一つの矛盾が発するのだ。
なぜなら唯香の話を信じるとすると、簡単に見ると人間に害を及ぼすのは天使であり、その天使から人間を守ってくれるのが悪魔ということになる。
しかし普通、人がもつ悪魔と天使の立場――噛み砕いて言うならば“イメージ”は悪魔が人間を不幸に落としいれ、天使が救ってくれるというものだ。
ここだ、ここなのだと守は一つの大きな疑問を提示する。
「なぁ双葉さん。もしこの話が真実だとするならばが俺たちが知っている悪魔と天使の立場が逆転することになるんだが……」
そう。強いて言えば世界の宗教や聖書に書かれている天使などは全て『神の使い』であり、神と人間の間の仲立ちを務めつつ、人々を悪へと導く悪魔を退治してくれる存在なのだ。
その天使が生きるためとはいえ人を殺し、それを悪魔が撃退するなど、先述したことと真逆になってしまう。
しかし当の悪魔である彼女は「なんだそんなことか」と澄ました表情で答えた。
「それなら話は簡単、あなたたち人間が持つ天使や悪魔に関する知識は全て天使が魔術によって流した嘘よ。自分たちに都合のいいように、そして悪魔にとって不利な環境を作るためのね」
「嘘って……この世の人間全てに思い込ませることができるほど天使はすごいのかよ」
半信半疑でつぶやいた守に、唯香は重々しくうなずく。
「そうよ。天使の魔術は神の領域に立ち入るほどと言われているわ。そんな天使にとってしてみればこんな芸当、朝飯前なんでしょうね」
「そう……なのか」
あまり納得の言ってない様子の守に、唯香はため息を吐きながら目を伏せる。
「まぁあなたの反応も無理はないわ。どちらにせよ、いずれ天使と出会えば嫌でも分かるだろうけど……」
と、そこでいきなり黙り込んだ唯香は思案顔になった後、ハッとした様子で面を上げた。
「そういえばあなたの名前を聞いてなかった」
「あー、そういえば言ってなかったなぁ……って今更聞くか!?」
普通なら最初に聞くべき質問をされ、思わず声が裏返る。
ここまで普通の人からしてみれば――いや守からしてみても――意味不明な話をしておいて、その相手の名前を知らないってどういうことだよ。
しかし彼女はどこがおかしいのか分からないようで、きょとんとした顔で首を傾げていた。
(……ひょっとして悪魔って案外てんねんなのか?)
途方もない今更感を感じつつも、守は気を取り直して名乗った。
「俺は門脇守。ちなみに“かど”は“門”のほうね」
聞いた唯香は、ふぅんと興味なさそうに呟きながらなにやら紙に書いていた。
そして書き終えた紙を守の目の前に突きつけた。
「それじゃキモ虫。不本意ではあるけどあなたを副部長に任命します」
「……ちょっと待った。いろいろと聞きたいことはあるけど、とりあえずなんでキモ虫?」
「理由なんて聞くの? さっき私のスカートの中を必死で見ようとしていたくせに?」
「…………さいですか」
一体名乗った意味はどこにと思った守だったが、これを言われては反論の余地もない。
ひとまず呼び名に関しては置いておいて、一番重要なこと――目の前の紙について尋ねた。
「それでこの紙のことなんだが……」
「? 見てのとおり入部申請書だけど」
いや、それはわかってるよ。紙の上のところにでかでかと『今年度用 入部申請書』と書いてあるから誰でもわかる。
問題はその内容だ。
守は突然の状況下に頭を混乱させながらも、その問題である部分を抜粋して読み上げた。
「私は『アニメ・萌え同好会』に入部を希望します。門脇守――俺こんなの書いた覚えがないんだが」
「そりゃそうよ。今私が書いたんだもの」
当然とばかりに言った唯香に、思わず守はずっこけそうになった。
「ってかそもそもこんな部活聞いたこともないんだけど」
「あぁ、それも当たり前よ。私が今日設立した部活だから」
いつの間に、と思って回想すると、一つ思い当たる場面があった。
「まさか昼休みのときの“準備”って……」
「そうね。あなたの想像でだいたい合ってるわ」
なんて用意周到なんだ、と守は頭を抱えた。
唯香はそんな守を眺めながら真剣な貌をする。
「私はこの部室を対天使迎撃の拠点として利用する。だからこの部に入れるのは私が天使と戦う際に役に立つと思った者だけよ。光栄に思いなさい」
どうやら彼女は『アニメ・萌え同好会』という“偽りの部活”で天使に対抗するための人員を集めるらしい。
しかしそれならなおさら守に入部させようとしているのかが分からない。
「そもそも入部してもいいなんて一言も言ってないぞ」
そうやって守が不快そうに反論すると、唯香はまるでGを見るような軽蔑の視線を送ってきた。
「転校初日の女の子のスカートの中を全力で見ようとするキモ虫に断る道理があるわけないでしょ? それでも断るって言うのならいいわ、私は明日教室のみんなにあなたがスカートの中を覗こうとしてきたって言うから。
もっとも、紙がなくなったトイレットペーパーの芯くらい存在意義がない男であるあなたが弁明したところで信じる人はほとんどいないでしょうけど」
「あ、ぐっ……」
片手で髪をかきあげながら怒涛の早口で罵倒してくる唯香に、守は力尽きたように膝を屈した。
そしてついに心が折れた守は降参を示すように頭を垂らした。
その様子に唯香は満足げに笑った後、勝ち誇ったようにうな垂れている守に顔を寄せた。
「それじゃ、これからよろしくね。門脇守さん」
わざとフルネームで呼ぶことで勝者の余裕を見せつけた唯香の笑顔は、皮肉にも思わず見惚れてしまうほど愛くるしかった。