第十二話
風は止み、音は消え、全ての生き物の中の時が静止した空間。
絶対魔力領域。
膨大な魔力を備えている天使だからこそ成せる、自身から数百メートルの半径を支配下に置く唯一無二の対界結界である。この結界によって それまで活気づいていた学園内は、ある一人の人ならざる者によって時の流れから隔離されていた。
そしてこの領域内は魔力を持たぬ者の時を止め、術者の支配下に置く。
すなわち精気を吸い尽くし、死んでいった人間に関する記憶を持つ者の記憶を抹消できる――ようは証拠隠滅ができるのである。故に地上界に現界する天使は必ず多大な魔力を消費してでもこの結界を展開する。
しかし今回この地に現界した天使――この結界の術者である少女は、あからさまに不満げな顔をしていた。
薄手の羽衣に、鮮やかで繊細な銀髪に華奢な体躯。容姿の割には似つかぬ真紅の双眸は彼女の不満の度合いが高いことを物語っている。
いかなる男も一度見れば虜になってしまうほど端麗な顔立ちの彼女はしかし、苛立ちに顔を歪めていた。
「だいたいたかが人間一人のためになんでこんなに魔力を浪費しなくちゃいけないのよ」
この結界を展開するのに必要な魔力の量は人間三人の精気を吸い尽くして得られる魔力の量と同等。
今回彼女が現界してきた目的は、魔力の補給ではなく、とある一人の人間を始末しにきたわけだが、これでは結界の消費量と割に合わない。
だからといって結界を解いてしまっては目的すら果たせない。
仕方がないとはいえ魔力を浪費していると考えると行き場のない怒りが生まれ、結果こうして不満を露わに文句をたらしていた。
しかしこのまま愚痴っていてはそれこそ魔力の浪費。少女はやるせない気持ちでため息を一つ吐き、目的の場所へと行くためその背から見事な両翼を羽ばたかせる。
そのとき、彼女の全身に突如殴られたかのような衝撃が震動した。
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「おい。本当に“天使”がきてるのかよ?」
「本当よ。嘘言ったってしょうがないでしょ」
まぁ確かにそれはそうなのだが。腑に落ちない顔で守は眉をひそめた。
見上げれば空は紅く、雲は静止し、周りの木々は小枝一つ動いていない。風は止み、音は無く、まるで異界にでもいるかのようである。
先ほど一瞬視界が落ちた後、目を開けたらこの現状になっていた。思うにここは既に、今しがた唯香が言っていた『絶対魔力領域』とやらの領内なのだろう。
二人は今、唯香を先頭に部室棟を出、とある“座標”へと駆けている。
唯香いわく、座標は魔方陣に唯一点滅していた光――すなわち天使が現れた場所。
なぜそんな場所に、天使に会いに行くのか。
そんな愚問を今更彼女に発するのはさすがの守も躊躇われた。なぜなら仮に問うたところで、一般人の守には到底理解できないファンタジーな答えが返ってくるのだと、この二日間で学んだからである。
それにその答えを知ったところで今この現状を変えることは困難だ。というか不可能だ。
なぜなら悪魔である彼女らは立場上、現界した天使が人に為す“とある行為”を看過することは許されないから――と、昨日の説明で言っていた。
どちらにせよ、守に対して『キモ虫』と評価をつけている相手に意見を出すのは明らかな愚行だと思われ、故に守は今、右も左も分からぬままに目の前の少女の背中を追いかけるしかなかった。
数十秒間走り続け、そろそろ息も限界になってきたころ、木陰に隠れるようにして唯香はその足を止めた。
首筋には走ったからか、はたまたこれからの起こりうる事への緊張からか、汗が数滴流れていた。
「……いたわ。見て分かると思うけど、あれが天使よ」
小声で唯香が示す方、何か建てるつもりだったのか、木々が切り取られた荒れ地のような場所へと視線を向ける。
そこには巫女服に似た純白の羽衣に、雪のように綺麗な銀髪をなびかせ、自分の体と同じくらいの大きな翼を伸ばしている同い年くらいの少女がいた。
「あれが天使? そんな――っ?」
まさか、と続けようとしたとき、ふとその少女の格好に既視感を覚えた。要所しか覆っていないひらひらの羽衣と大きな羽。
いつだったか、あれを目の前で見たような気がするのだ。
顔をしかめながら記憶の奥底を探る守に、唯香は一瞥だけし、気を引き締めるように深呼吸を一回する。
「――さて、それじゃ行くわよ」
「……え?」
何のことかさっぱり分からない守には目もくれず、唯香は無造作に髪飾りのリボンを解く。
敵意を露わにした瞳で目標を睨みながら、“悪魔”として役目を果たそうとする少女は澄んだ声で静かに、しかし響く声音で誓約の一文を口にする。
「主を封じる鎖を解きて我、誓約の下に希求する。いかなる万物をも凍てる絶対零度の力よ、片時の間、我が統制の配下で猛威を振るいたまえ」
リボンという枷から解放された柔らかな菫色の髪は唯香の背に垂れた後、まるでそよ風にそよがれているかの如く、主の体を包み込むようにやさしくその身を揺らす。
それは風ではなく、唯香を中心とした魔力の流れによって意思を持っているかのように動く。
目の前にへと差し出された右手の先には、誓約の呼び声に呼応した魔力たちが淡い光となって集っている。
やがて唯香の華奢な体全体から淡い光がこぼれ出るように溢れ、その全てが誓約者である彼女の意思によって彼女の指先へと集り、具現化される。
淡い光たちは氷となり、氷塊へとその姿を拡大し、ついにはいつぞやの守が見た氷柱のような矛の先のように鋭利な氷塊へと変貌する。しかしその大きさ、魔力の密度はあの時の比ではない。
今のところ天使がこちらに気づいた様子はない。高鳴る鼓動を抑えながら唯香は確認すると、最後に一言、命を下した。
「――駆け抜けよ、氷雷迅ッ!!」
刹那、誓約者の命を受けた氷塊は轟音を響かせながら、まさに闇夜に煌めく閃光のように、疾風迅雷の如く目標へと疾駆する。
加速し、音速を超えた氷塊は、今まさに飛び立とうとしていた天使の少女の大きな両翼を瞬く間に貫いた。
まさに度肝をつかれた少女は、ごっそりと削がれた翼を見つめながら驚愕の表情でその場に膝を突く。
「よし。これでやつの飛行能力を無くしたわ――」
間違いなく『氷雷迅』が命中したと見える光景に思わず唯香が笑顔で振り返ったのもつかの間、守は“ありえない光景”を目の当たりにした。
「双葉さんッ! 後ろッッッ!!」
悲鳴にも似た守の叫びに、呆然とした顔で振り向いた唯香は言葉を失う。
『氷雷迅』の直撃を受けて翼を失ったはずの少女が、嗜虐的な笑みを浮かべ、唯香を見下ろしていた。
それも無傷の状態で。
「――あ」
忘れていた。
こいつは普通の“天使”ではないのだ。
普通の天使の何十倍もの魔力と一撃で都市一つを壊滅させられる威力の魔法を持った、天使の一つ上の階級。
その“大天使”を目の前にし、恐怖で震える喉からなんとか搾り出した声は、愉快そうに笑う少女の声によってかき消された。
「さぁ、始めましょう、戦争を。あなたもそのためにきたのでしょう? ――せめて私が飽きるまで死なないことね」
まるで遊び相手が見つかったかのように嬉々として喋る少女の手には、いつのまにか厳つい戦斧が握られていた。
そして刃先が唯香の脳天を定めたまま、戦斧はなんの迷いも無く振り下ろされる――。
こうしてたった一人の悪魔と天使による、超常の戦いの火蓋が切って落とされた。




