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笑顔の奥が臭うから ~完璧な婚約者が仕掛けた領地解体計画を、異能の嗅覚で粉砕して砂にすり替えるまで~

作者: Soh.Su-K
掲載日:2026/01/17

いつも応援ありがとうございます。 本作は、本編『王国玄冬記』のスピンオフ短編ですが、このお話単体でも最後までお楽しみいただける構成となっております。


ぜひ、最後までお付き合いいただければ幸いです。

 西の果て、ジウ家が治めるビュロー領の冬は、空の色から始まる。

 王政歴八九四年、晩秋。北部の要衝を揺るがした「ある名門貴族の反乱」が鎮圧されてから、一ヶ月。

 王国に表向きの平穏が戻ったと喧伝される一方で、辺境に垂れ込める鉛色の雲は、さらなる動乱の予感を孕んで重く沈んでいた。鋭い風が石造りの城壁を叩く。この地に住まう人々にとって、それは「耐える季節」の幕開けを告げる合図であった。


 だが、その日のビュロー城の空気は、寒さとは別の緊張に震えていた。

 城門へと続く急峻な坂道を、整然たる隊列が登ってくる。寒風に翻るのは、一点の汚れもない純白の旗。その生地の色は、王国において「子爵」の位を示すものだ。しかし、同じ白を掲げるジウ家の騎士たちの目には、それが自分たちの旗よりもずっと眩しく、そして重々しいものに映っていた。


「子爵家同士とはいえ……、格が違うと言いたいのか」


 城壁の狭間からその様子を窺っていたジョンが、誰にともなく溢した。彼は先代からジウ家に仕える老従者であり、主家の変遷をその眼に焼き付けてきた男だ。

 彼の視線の先、純白の生地に刺繍されているのは、王家バーテルバーグの傍系であることを示す意匠。本来、王家のみが使用を許される「紫紺」の旗ではない。だが、その白旗の縁取りには、王家への繋がりを誇示するように、紫紺の飾りタッセルが冷たく揺れていた。


「紫紺の飾り房など……。王家バーテルバーグの遠縁であると、我ら辺境の土に塗れた白とは訳が違うと、そこまでして見せつけたいか」


 ジョンの脳裏に、かつてのジウ家の栄光が過ぎる。魔王軍との戦において、最前線で数々の武功を上げたジウ家は、かつては王国最強の「盾」であり「斧」であった。

 ジウ家が武家として第一線を担い続けてこれたのは、ひとえに代々の当主が保持する特殊能力『雄叫び(ウォークライ)』があればこそだ。その雄叫び一つで、兵たちは恐怖を忘れ、狂戦士のごとき勇猛さで敵を粉砕した。


 しかし、前王ガーランドの時代に導入された革新的な前線維持ドクトリンが、その在り方を根底から覆した。堅牢な防衛線を組織的に維持し、犠牲を最小限に抑えながら「作業」として敵を撃退する戦術。それは、英雄的な突撃も、兵を奮い立たせる『雄叫び』も必要としない、冷徹で効率的な戦いだった。

 時代は英雄を必要としなくなり、さらに追い打ちをかけるようにジウ家の血もまた、代を重ねるごとにその効果を弱めていった。

 政治的な根回しや中央での駆け引きを「わずらわしい」と断じ、戦場こそが居場所だと笑っていたジウ家の歴代当主たち。現当主ウェルロッドもその最たる存在で、中央からこの辺境に遠ざけられた際も、「煩わしい連中の顔を見なくて済む」と喜んでいたほどだ。

 その清々しすぎるほどの政治的無関心が、今やジウ家を「時代遅れの没落貴族」という袋小路に追い込んでいた。

 対して、東方からやってきたウェッソン家の白は、まるであの忌々しい雪のように白々しく、完璧だった。


「お嬢様、瞬きを忘れておいでです」


 城のバルコニー。冷たい手すりに指をかけていたウェリン・ジウは、背後からの静かな声に肩を揺らした。

 侍女のレニだ。三ヶ月前、祖父であるウェルロッド・ジウ子爵がどこからか連れてきた彼女は、いつも感情を削ぎ落としたような無機質な所作で、ウェリンの傍らに控えている。


「……分かっているわ。ただ、少し驚いただけ」


 ウェリンは強がって見せたが、その瞳は馬車列の先頭を行く一人の騎馬武者に釘付けになっていた。

 白馬に跨り、白銀の甲冑を纏った青年。ベアード・ウェッソン。十四歳のウェリンに定められた、婚約者という名の「政治的贈答品」だ。


「あの方、レニにはどう見える?」


 ウェリンは、自らの足元に座り込んで絵を描いている少年の頭を撫でながら尋ねた。少年の名はヘンドリック。言葉を失った孤児であり、今はレニがその世話を一身に引き受けている。

 レニはヘンドリックが描いている、真っ黒に塗り潰された不気味な渦巻きを一瞥し、それからウェリンを見上げた。


「ここからではよく見えません。お嬢様には、別のものが見えているのですか?」


「……分からない。でも、あの人の周りだけ、世界の『色』が死んでいる気がするの」


 ウェリンは自分の腕を抱き、小さく震えた。

 彼女の特異な嗅覚――『鼻』は、視覚が捉える情報の裏側にある「本質」を、逃れようのない臭いとして脳に直接送り込んでくる。

 本来、距離を超えて届くはずのない感覚。だが、彼女の異能は、数町先を歩む軍勢のただ中にいる一人の男を、まるで目の前で解体するかのように詳細に嗅ぎ分けていた。


 王都の高級な香油の、鼻を突くような清潔さ。

 しかし、その内側に隠されているのは、どれだけ火を焚いても温まらない、凍りついた泥の臭いだ。

 堆肥と、鉄錆と、そして「死」が混じり合ったような、ドロドロとした不透明な不浄。

 それが、ベアードという完璧な貴公子の皮を被った怪物の正体だと、彼女の鼻腔は絶叫していた。


 これほどまで生理的な嫌悪を催す臭いは、これまでの人生で嗅いだことがなかった。

 魔王軍の残党が放つ腐臭ですら、これに比べれば「分かりやすい生存の欲求」に満ちていた。だが、階下を歩むベアードから漂うのは、生物としての営みすら拒絶するような、凍てついた無機質な悪意だ。


 ウェリンには見えている。

 彼が微笑みを浮かべるたび、その周囲の空気が急速に温度を失い、不気味な「灰色の泥」へと変質して城壁を侵食していく様が。


 周囲の者たちは、その眩いばかりの白旗と貴公子の風貌に目を焼かれ、足元から忍び寄る「腐った泥」に気づくことすらできない。父も、祖父も、そしてジウ家を支える騎士たちも。


「……お嬢様?」


 レニの声が、ウェリンを現実へと引き戻した。

 ウェリンは無意識のうちに自分の喉元を押さえていた。

 込み上げてくる吐き気を必死で飲み込み、彼女は、眩いばかりの純白の旗が城内へと侵入してくるのを、ただ一人、逃れられぬ悪夢を予見する預言者のような眼差しで見つめ続けていた。


 笑顔の奥から漂うのは、凍りついた泥の臭い。

 そして、肉を突き回してその価値を決める、冷酷な「査定者」の強欲だ。


 十四歳の少女ウェリンは、その熱狂の渦の中でただ一人、嘔吐感を催すほどの不快な臭いに耐えながら、その「泥」の正体を暴く覚悟を決めていた。



 謁見の間。

 暖炉には太い薪がくべられ、煌々と火が爆ぜている。だが、部屋を支配する空気は、冬の夜の底のように張り詰めていた。

 上座に座るは、ジウ家先代当主、ウェルロッド・ジウ。その表情は岩のように動かず、百戦錬磨の老将らしい威厳を放っている。だが、その手元にある酒杯を握る指先は、政治的な疲弊ゆえか、僅かに強張っていた。


 重厚な扉が開かれ、ベアード・ウェッソンが入室した。一歩。その足音が響くたび、居並ぶ騎士たちの背筋が伸びる。ベアードは中央で立ち止まると、完璧な所作で一礼した。


「ビュロー城主、ウェルロッド・ジウ殿。今日、この地に足を踏み入れ、私は自らの未熟さを恥じるばかりです」


 開口一番、彼が発したのは、自らの地位を笠に着た傲慢さではなく、意外なほどの「謙虚」と「敬意」であった。


「政府では、この地を『不毛の荒野』と呼ぶ不届きな者もおります。しかし、私は見ました。厳しい気候の中でも毅然と前を見据える騎士たちの眼光を。そして、痩せた大地を耕し、懸命に生きる民の力強さを。私は遠縁とは言え、バーテルバーグの血を引く者。王都の流行も、貴殿らが背負う『重み』の前では些細なことに過ぎない。……私は学びたいのです。国を守り抜く皆様の、その高潔なる精神を」


 ジョンの喉が、小さく鳴った。自分たちをこれほどまでに真っ向から称え、敬意を払った王都の貴族がかつていただろうか。部屋を埋める家臣たちの間に、じわりと温かい高揚感が広がっていく。彼らは、王都から捨て置かれた自尊心を、この若き貴公子によって拾い上げられたような心地になっていた。


「ベアード殿。……言葉が過ぎるぞ。我らはただ、己の義務を果たしておるに過ぎん」


 ウェルロッドは厳しく答えたが、その声からは僅かに険が取れていた。彼のような豪胆な武人にとって、中央の腹黒い政治家より、こうした直情的で爽やかな「理解者」は遥かに扱いやすく、好ましく思えたのだ。


「その『義務』こそが、王国の宝なのです。……ああ、そして。この方が、私の生涯を支えてくださるというウェリン嬢ですね」


 ベアードが歩み寄る。ウェリンは息を呑み、足がすくみそうになるのを必死で耐えた。目前に迫ったベアードは、王都の光をそのまま形にしたような美しさだった。


「初めまして、ウェリン。君の瞳に宿る北の星のような輝き、一生忘れることはないだろう」


 彼はウェリンの右手を取り、恭しく指先に唇を寄せた。その瞬間。


(……ひっ)


 ウェリンの喉から、悲鳴が漏れそうになった。暖かい唇が触れたはずの指先から、汚泥が血管を通って全身に染み渡っていくような生理的嫌悪感。

 この男は、今、ウェリンを「値踏み」した。人間として接しているのではない。家畜の肥具合を見るように、あるいは倉庫の備蓄品を台帳に書き留めるように、冷酷な事務処理として査定した。

 笑顔の奥から漂ってくるのは、どれだけ火を焚いても温まらない、凍りついた泥の臭いだ。



 その夜から、ビュロー城は「熱」に浮かされた。ベアードは、自らの身分に不相応なほどの「個人財産」を、湯水のように使い始めた。

 農民たちは、冬を前にして現れた「若き救世主」に狂喜乱舞した。だが、ウェリンは見た。広場に並べられた最新の農具を、興味深げに検分するベアードの横顔を。

 彼は農民に背を向けた瞬間、その「農機具」を、まるで剣の重心を確かめるような鋭い手つきで振り回した。その瞳に宿っていたのは慈愛ではなく、武器の仕上がりを確かめる職人のような、研ぎ澄まされた冷徹さだった。


「お父様、お願い。聞いて」


 深夜、ウェリンは父・カラビナーの執務室に駆け込んだ。カラビナーは山積みの書類を前に、深く椅子に体を預けていた。その顔には、ここ数年見られなかったような安堵の表情が浮かんでいる。


「……ウェリンか。ベアード殿の話か? 彼は本当に素晴らしい。農具の件も、物流の効率化も、王都の最先端の知識がこれほどまでに実務に役立つとは。面倒な中央への報告や調整も、彼が全て肩代わりしてくれると仰っている。ジウ家は、彼という最大の援軍を得たのだ」


「違うの、お父様! あの農具、変よ! あれは土を掘るためのものじゃない。鉄の配合が異常だわ。それに、重心が完全に『殺すため』の設計なの!」


「ウェリン!」


 カラビナーの声が響いた。その瞳には、娘への愛情と、それ以上の「切迫感」が宿っていた。


「お前の直感は、時に真実を射抜く。だが、今はその『鼻』を閉じておけ。ジウ家は疲弊している。ドクトリンの変更によって我らの役割は失われ、『雄叫び』すらもはや過去の遺物だ。中央の根回しすらできぬ我らに、王家直系の援助を拒む権利などない。ベアード殿は、我が家の救世主なのだ。……お前は、彼の妻としての振る舞いだけを考えていればよい」


 ウェリンは唇を噛み、拳を握りしめた。お父様の言うことは、冷酷なまでに合理的、しかしどこか自分に言い聞かせるような、力ない響き。

 けれど、ウェリンの『鼻』は叫んでいる。彼が笑顔で差し出したその「救いの手」こそが、私たちの首を絞めるための縄なのだと。


 部屋を出た廊下で、ウェリンは闇の中に立つ影を見つけた。レニだ。


「……レニ。あなたには、あの人の『泥』が見える?」


「お嬢様。……私は、物言わぬ者の声を聞くのが仕事です。あの男が農民に与えた『農具』。あれは、握りの位置を少し変えるだけで、槍に変わる代物です。……彼は、農民を救おうとしているのではありません。王国の混乱に乗じ、このビュローを、生きたまま解体しようとしている可能性があります」


「レニ……。あなたは、一体」


「今は、ただの侍女でございます。お嬢様。お嬢様のその『寒気』。どうか、忘れないでください。王家の白旗の下で、毒が静かに、城を蝕んでおります」



 翌朝。

 ベアード・ウェッソンは、広場に集まった農民たちを前に、一人の老いた小作農の肩を抱いていた。その光景は、絵画のように美しく、慈悲に満ちていた。


「冬の間、私の領地で新しい仕事を用意しよう。暖かい宿舎と、腹一杯の食事を。君たちの家族の未来は、私が守る」


 湧き上がる歓声。熱烈な感謝の言葉。だが、ベアードの背負う純白の旗――子爵ウェッソン家の紋章旗は、朝日を浴びて翻りながら、冷たく周囲を睥睨していた。


 十四歳の少女ウェリンは、その熱狂の渦の中でただ一人、嘔吐感を催すほどの「死」の臭いに耐えながら、その「泥」の正体を暴く覚悟を決めていた。これが、王国全土を揺るがすこととなる動乱の、静かなる、あまりに静かなる幕開けであった。


 ビュローの冬が本性を現すのは、十二月に入ってからだ。一度降り始めた雪は止むことを知らず、城壁を、街道を、そして人々の思考を白く塗り潰していく。例年であれば、乏しい備蓄を睨みながら耐乏の三ヶ月を過ごすのが常であった。

 しかし、今年のビュロー城は、異様な「活気」に満ちていた。


「これを見ろ。王都の最高級の油だ。これだけあれば、兵舎の明かりを絶やさずに済む」


「ベアード様のおかげだな。ジウ家が中央から忘れ去られても、あの方だけは我らを見捨てなかった」


 兵舎の片隅で、騎士たちが新調された厚手の外套に身を包み、語り合っている。城内の至る所にある「施し」が、彼らの忠誠心をじわじわと塗り替えていた。城下の村々でも、ベアードが提唱した「冬季特別雇用」が熱狂的に受け入れられていた。


「冬の間、震えているより稼げる」


「温かいスープが出るそうだ」


 ビュローから東へ。働き盛りの男たちを乗せた馬車が、ベアードの手配した護衛と共に去っていく。表向きは救済、実態は「略奪」に近い人口の流出。それは没落しかけたジウ家を救う、甘い毒を孕んだ移民政策であった。


 城の書庫。日の当たらない冷え切った部屋で、ウェリンは独り、埃を被った古い帳簿と格闘していた。

 ベアードが来てから三ヶ月。城の物流と会計は、なし崩し的に彼が連れてきた「能吏」たちが握るようになっていた。父は、煩わしい計算を肩代わりしてくれる彼らを重宝し、軍事教本の整理や新しい陣形の研究に没頭していた。


「……やっぱり、おかしいわ」


 ウェリンは、自作のメモと公式記録を照らし合わせ、ペンを置いた。支援物資の総量に対し、運送にかかった馬車の数と、それを護衛する兵士の食糧消費量が、あまりに不自然なのだ。


「お嬢様。根を詰めすぎると、その優れた『鼻』まで詰まってしまいますよ」


 影の中から現れるように、レニが蜂蜜酒を持って近づいてきた。ウェリンは声を潜めた。


「レニ、聞いて。ベアード様が運んできた『農機具』。三日前、倉庫に忍び込んで重さを量ってみたの。鉄の含有量が異常よ。耕作に使うには重すぎるし、重心が完全に狂っている」


 レニは表情を変えず、羊皮紙の断片を差し出した。ベアードの私室の暖炉に残っていた燃えカスだ。


「雇用された農民たちの行き先です。ウェッソン領ではなく、東方の山間部にある『廃坑』でした。枯れた鉱山、外部から隔絶された不毛の地でございます」


 ウェリンの心臓が、早鐘を打った。あの日、彼の手から感じた**「冷たくて不透明な泥」**の感覚が蘇る。


「二千人の農民を、廃坑へ? そこで何をさせているの?」


「労働でないことは確かかと。……おそらくは『調練』です。あの不自然な農具を、槍として振るうための」


 レニの言葉は、氷の刃のようにウェリンの胸に突き刺さった。いくら王家の遠縁とはいえ、一介の子爵が王政府に無断でそれほどの兵を養えば反逆罪だ。


「奴は王家の威を借りていますが、裏で糸を引いているのはまた別の貴族かと……」


 窓の外で翻る純白の旗。三ヶ月前には眩しいほどに潔白に見えたそれが、今は血を吸う直前の不気味な繭のように見えた。



 ある夜、ベアードが夕食の席で、カラビナーに対し極めて「自然」な提案を口にした。


「カラビナー殿。地下倉庫の古い蹄鉄や旧式の甲冑、場所を取っているとか。よろしければ、私が王都の商人に掛け合って、最新の武具や食糧に交換させましょうか。再び使えるように磨き上げるにも、時間が掛かりますからな」


 父はスープを飲み干しながら、深く考えもせずに頷いた。


「それは助かる。補修に出すにも先立つものが要るからな。……君は本当に、実務がよく分かる」


「光栄です、義父上。……私はただ、ウェリンと、この素晴らしいビュローの平和を守りたいだけなのですから」


 ベアードはウェリンに向かって、蕩けるような甘い微笑みを向けた。瞳は一点の曇りもない青空のように澄んでいる。

 しかし、ウェリンの鼻は、その笑顔の奥から漂う「機械油と腐った泥」が混じり合った強烈な不浄を捉えていた。


「……ベアード様。その物資の交換、私も立ち会ってもよろしいでしょうか。お勉強のために」


 ウェリンが明るく言うと、ベアードの瞳が一瞬だけ、細く、鋭く光った。獲物の動きを察知した蛇のそれであった。


「おやおや。だがねウェリン、ご令嬢を油と埃まみれの倉庫へ連れて行く訳にはいかないよ。君はただ、私の用意した温かい部屋で、春の準備をしていればいい」


 その言葉は優しく、しかし有無を言わせぬ「拒絶」であった。


 深夜。ウェリンは古びた革の胸当てを身につけ、レニと共に西倉庫へと向かった。見張りはベアードの兵たちが交代しており、近づくことすら難しい。しかし、レニは驚くべき手際で視線の死角を突き、ウェリンを誘導した。


「レニ……、あなた、本当にただのメイドなの?」


「……今のところは、そう申し上げておきましょう」


 倉庫の裏扉。レニが隠し持っていた針金で鍵を回すと、音もなく扉が開いた。中は深い闇と、強烈な「鉄の臭い」に満ちていた。ウェリンは震える手でカンドルを灯した。

 光の中に浮かび上がったのは、交換したはずの食糧の袋……ではなかった。


「……っ」


 ウェリンは絶句した。木箱の蓋をこじ開けると、そこには最新の研磨が施された槍の穂先が、整然と並べられていた。そして、刻まれているのは王家の紋章ではない。


「……紋章が削られている!?」


「所属がバレないようにする為に削り取っているのでしょう。これは完全に謀反の予兆です」


「謀反……。ついこの間、北部の名門・マンリヒャー家が取り潰されたばかりなのに」


「ウェッソン家が主導して動いている様子ではありませんね。これには黒幕がいるかと」


 レニは手早く木箱の蓋を閉じた。


「お嬢様、もう行きましょう。……ここにあるのは物資ではありません。王国を内側から爆発させるための『火種』です。ベアードは、ジウ家を救うのではなく、謀反の為に自らの私兵団の『兵站基地』として接収しようとしているのです」


 ウェリンの膝が、がたがたと震え始めた。父も、ジョンも、騎士たちも。みんな、ベアードの「救世主」としての光に目を焼かれ、足元で毒蛇がとぐろを巻いていることに気づいていない。


「……どうすればいいの。証拠と言っても、私一人で……」


「お嬢様」


 レニがウェリンの両肩を強く掴んだ。手の温度は驚くほど低く、しかし確かな力を持っていた。


「一通の報告書を、王都へ送らねばなりません。ジウ家ではなく、私の本当の主人の元へ。それこそが、この泥沼を乾かす唯一の方法です」


「レニ……。あなたは、本当に何者なの?」


 ウェリンの問いに、レニは答えなかった。ただ、暗闇の中で瞳だけが爬虫類のような鋭さを帯びていた。


「今は、お嬢様の味方でございます。……さあ、急ぎましょう。夜明けと共に、また一隊、農民たちが拉致されてしまいます」



 数日後。ビュロー城では、新年の祝宴の準備が始まっていた。ベアードは上機嫌でウェルロッドやカラビナーと酒を酌み交わし、完璧な夢物語を語っている。


「……もうすぐ、全てが整います。ジウ家は、王国の歴史において、再び輝かしい役割を担うことになるでしょう」


 その笑顔を、ウェリンは食堂の隅から、冷え切った心で見つめていた。

 彼女の鼻は、もはや香油の匂いなど嗅いでいなかった。

 城全体を包み込む、逃げ場のない「凍りついた泥」の臭い。

 そして、その泥の中から、こちらをじっと伺っている不気味な蛇の眼光。


 十四歳の少女は、震える手で暗号文を握りしめた。あるのは、ただ、誰にも信じてもらえない「不吉な予感」だけだ。


「……負けない。絶対に、この笑顔を剥いでやる」


 窓の外では、吹雪がさらに激しさを増していた。

 王国を揺るがす動乱の火種が、純白の雪の下で、今まさに赤々と燃え上がろうとしていた。


 王政歴八九五年、元旦。

 ビュロー城の広間は、かつてない熱気に包まれていた。

 外は視界を奪うほどの猛吹雪だが、城内ではベアードが王都から取り寄せた最高級の薪が赤々と爆ぜ、芳醇な葡萄酒の香りが漂っている。


「皆様、新年を祝おう! そして、ジウ家の新たな門出を!」


 ベアード・ウェッソンが杯を掲げると、広間を埋める騎士や家臣たちが一斉に応じた。彼らの纏う外套も、腰に佩いた剣も、その多くがベアードの「慈悲」によって新調されたものだ。彼らにとってベアードは、冷酷な中央政府から差し伸べられた、唯一の救いの手であった。


 上座のウェルロッド・ジウは、静かに杯を傾けていた。豪胆な老将も、この三ヶ月で領地が劇的に「改善」された事実は認めざるを得ない。政治の煩わしさをベアードに預けたことで、ビュローは目に見えて潤った。それが毒饅頭である可能性を心の隅で感じつつも、目の前の「平穏」という果実の甘さに、老いた英雄は目を細めていた。


 だが。

 その宴の主役の傍らに立つウェリンだけは、凍りつくような「泥の臭い」の中にいた。

 ベアードが笑うたびに、ウェリンの鼻腔の奥では粘つく泥が爆ぜるような、不快な音が響いている。


(……来るわ)


 ウェリンは、隣で満面の笑みを浮かべるベアードの横顔を見た。その瞳は、一点の曇りもない青空のように澄んでいる。しかし、ウェリンの鼻は、彼が纏う香水の奥から、城全体を包囲した「死」の臭いを嗅ぎ取っていた。


「ウェルロッド殿。そして、カラビナー殿」


 ベアードが唐突に声を落とした。祝宴の喧騒が、潮が引くように静まっていく。


「新年のこの佳き日に、心苦しい発表をせねばならない。……ウェリン嬢。君との婚約は、本日を以て破棄させてもらう」


 広間が静まり返った。

 カラビナーが、持っていたフォークを落とした。ジョンが、信じられないものを見る目でベアードを凝視した。


「な……。ベアード殿、それは一体どういう……」


「言葉の通りです、カラビナー殿。私は三ヶ月、この地を観察してきた。だが、ウェリン嬢は王太子妃教育を投げ出し、あまつさえ私の実務に疑いを持ち、夜な夜な倉庫を嗅ぎ回るような不作法を繰り返した。王家の血を引く我がウェッソン家にとって、このような思慮の浅い小娘を迎え入れることは、バーテルバーグの威光に泥を塗るに等しい」


 ベアードの声には、先ほどまでの慈愛など微塵もなかった。


「鼻の利くだのと、異能者ぶる小娘に一体何ができると思っていたのかね?」


 彼はウェリンを冷笑し、剥き出しの選別者の響きで言葉を継いだ。


「よって、婚約は解消する。……だが、これまで私がジウ家に投じた膨大な私財、そして移送した二千人の農民の管理権、これらはすべて『慰謝料』として正式にウェッソン家が接収させてもらう。……異論はあるまい? 既に帳簿上の手続きは、私の能吏たちが完了させている」


 ベアードは勝ち誇ったように笑った。

 ジウ家から働き手を奪い、物資の首根っこを掴み、最後はウェリンという「お荷物」を切り捨てることで、ビュローを名実ともに自分の『兵站基地』へと変える。完璧な、あまりに完璧な詰め将棋。


 絶望が広間を支配しようとした、その時。


「あはは! あー、スッキリしたわ!」


 場違いなほど明るい笑い声が、冷え切った空気を切り裂いた。

 笑っていたのは、ウェリンだった。


「……何を笑っている、小娘」


 ベアードの瞳が、爬虫類のような鋭さを帯びた。ウェリンは涙を拭いながら、彼を真っ向から見据えた。


「だってベアード。やっとその薄汚い仮面を脱いでくれたんですもの。三ヶ月、その『凍った泥の臭い』に耐えるのがどれだけ大変だったか、あなたには分からないでしょうね」


「負け惜しみか。既に農民たちは移動し、物資は私の管理下にあるのだぞ。このビュローは、今この瞬間から、我らウェッソン家の――」


「いいえ。あなたのものになったのは、今朝運び込まれた『ただの砂』だけよ」


 ウェリンの合図で、レニが一歩前に出る。その手には、ベアードが信頼していた「能吏」たちが作成したはずの、真実の帳簿があった。


「ベアード。あなたがウェッソン領へ送ったはずの農民たちは、既にジウ家の砦で保護されています。あなたが昨日見送った馬車に乗っていたのは、農民に変装した我が家の兵たち。……そして、あなたが『最新の食糧』と交換して運び込んだ木箱の中身も、既に中身を詰め替えさせていただきました」


「……砂? 砂だと!? 馬鹿な、あれは最新の……っ、は、はは、冗談だろう? ウェリン、君の悪戯か!?」


 ベアードの声が裏返る。震える手で、近くにあった木箱をこじ開け、中身を掬い上げる。それがただの路傍の石混じりの砂だと確信した瞬間、彼の「完璧な貴公子」の仮面がひび割れ、鼻水と涙でぐちゃぐちゃに歪んだ。


「小者の目を欺くのは、そう難しいことではありません。……ベアード、あなたが王家バーテルバーグの威を借り、東方の廃坑で私兵を調練しようとしていた計画。それらは全て、既に記録させていただきました。……あなたの計算は、あまりに雑でしたわね」


 ウェリンは、腰を抜かしかけたベアードを冷たく見下ろした。


「泥棒さん。……あなたは、ビュローを舐めすぎたのよ」


「……っ、おのれ! 出会え! 者共、この無礼な小娘と老いぼれを捕らえよ!」


 ベアードが叫ぶ。だが、広間の扉を蹴破って入ってきたのは、彼の配下ではなく、抜剣したジウ家の騎士たちだった。会場の騎士たちも立ち上がり、一斉にベアードを包囲する。

 ベアードの連れてきた兵たちは、既に城の各所で制圧されていた。


「ベアード殿」


 上座で沈黙を守っていたウェルロッドが、ゆっくりと立ち上がった。その巨躯から放たれる威圧感に、ベアードは膝を震わせた。


「貴殿の罪、本来ならばここで首を撥ね、王都へ送り届けるべきところだが……。中央も浮足立っておる現状、いたずらに陛下や猊下のお手を煩わせるわけにもいかん」


 ウェルロッドは、かつての猛将の片鱗を見せる鋭い眼光でベアードを射抜いた。


「ベアード・ウェッソン。……貴様の兵も、奪ったつもりの物資も、そして領地から持ってきた私財も、すべて置いていけ。今この瞬間だけ城門を開けてやる。……生きて帰りたければ、この猛吹雪の中を、自らの足で這ってでも帰るがいい」


「な……ッ! この吹雪の中を歩けというのか!? 死ねと言っているのか!」


「嫌なら、今ここで不敬罪として処刑してやっても良いのだぞ?」


 ウェルロッドの傍らで、父カラビナーが冷徹に告げた。その声は、もはや力なさを脱ぎ捨て、かつての武門の鋭さを取り戻していた。

 ベアードは周囲を見渡したが、既に彼の味方は一人もいなかった。信じていた部下も、金で釣ったはずの農民も、すべてウェリンの「直感」とレニの「暗躍」によって奪い取られていた。


「……覚えていろ。ジウ家の者共。この屈辱、必ずや倍にして返してやる!」


 ベアードは無様に喚き散らしながら、数人の側近と共に、逃げるように広間を後にした。

 彼らが城門を出た瞬間、激しい吹雪がその背中を飲み込んでいく。馬も、食糧も、財産も失い、ただの「敗残兵」として雪原へ放り出されたベアード・ウェッソン。その惨めな後ろ姿を、ウェリンはバルコニーから静かに見送った。



 数日後。捌神正教本部内、大僧正の執務室。

 壁一面を埋め尽くす書架と、絶え間なく届けられる報告書の山。その中心で、大僧正カルカノがペンを止めた。


「……ビュロー卿が、ベアード・ウェッソンを放逐しましたか」


 カルカノは、ビュローから届けられたばかりの報告書を暖炉の火に翳した。パチリ、と薪が爆ぜる音と共に、ウェリン・ジウの名が記された紙片が赤く染まっていく。

 そこには、辺境の小さな城で起きた「婚約破棄騒動」の裏側が、驚くほど詳細に、かつ冷徹な筆致で記されていた。


「無断で私兵調練。農具を槍に転用する兵站工作。ジウ家令嬢の勘が冴え渡った訳ですね、アナ」


 カルカノの正面に立つ少女、アナ。報告書を持ってきた彼女は、窓から差し込む冬の光を背に、楽しげに笑った。

 華奢で愛らしいその見た目に反して、彼女はカルカノが最も信頼を寄せる諜報部隊の頭目であり、王国の闇を差配している。


「猊下が信じたウェルロッド殿。その十四歳の孫娘に、ベアードの巧妙な侵食を防がれたなんてね。中央の能吏たちが束になっても気づかなかった『臭い』を、彼女は理屈より先に嗅ぎ取ってしまったみたいよ」


「血は健在ということでしょう。かつて戦場を狂乱させたジウ家の『雄叫び』。その血が、形を変えて生き残っていたか。まさか、ボアを送った矢先にこれほどの結果を出すとは。……プフの一件以来、地方の腐敗は想像以上に進んでいるようです」


 カルカノが椅子に深く体を預け、暖炉で燃える報告書の灰を眺める。


「『ジウ家次期当主の令嬢であるウェリンには、真実を見抜く野生の勘がある』……と。ヘンリー様以外で、あのボアがここまで他人に肩入れするのは珍しいですね。報告書の行間から、彼女の困惑と感心が伝わってくるようです」


「ボアから連絡が来たときは、私も耳を疑ったけどね。マンリヒャーの残党との関係性もあるかな……。あの子、ウェリンを『春まで咲き続けるべき花』だと評価していたわ。冷たい泥の中でも枯れずに、気高く香る花。……ボアなりに、自分にはない眩しさを感じたのかも」


「なるほど、さもありなんですね。……して、ベアード・ウェッソンは生かして逃がしたと?」


「泳がせたってことかな。ウェッソン家がこれほど大掛かりに動いているなら、他にも私兵を肥えさせている奴らが必ずいるはず。ここまであからさまな謀反の準備、ウェッソン家一子爵の独断とは考えにくい」


「同感です。ウェッソン家を起点に、つながりのある諸侯を虱潰しに洗い出しましょう。王国を蝕む白蟻どもを、この冬のうちに炙り出さねば」


「ボアはこのままビュロー卿の元に?」


「ええ、その方がいいでしょう。ベアードという男、小者ゆえに逆恨みの執念は強い。何かを仕掛けてくる可能性もゼロではありません。引き続き、ヘンリー様の護衛、及びジウ家の警護を継続させてください。……ジウ家には、まだ倒れてもらっては困ります」


 カルカノは再びペンを取り、新たな指令書に署名を加えた。


 西の辺境、吹雪の城で芽吹いた小さな抵抗の火。

 それはまだ誰も知らないところで、王国の運命を分かつ巨大な戦火――あるいは、春を呼ぶための静かな胎動へと、確実に繋がり始めていた。

最後までお読みいただきありがとうございます!


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皆様のポイント一つで、ウェリンの戦いがさらに報われます。

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