第9話 写真館『忘却寫眞館』
ここは不思議な商店街――「幸坂ストリート」。
そこで出会う人々は皆、
“何かを失ったまま”この坂を歩いてくる。
そして店を出るとき、
その手のひらにはほんの少しだけ、あたたかい何かが残る。
奇妙で、やさしくて、少し切ない。
現実の方が少し“夢のよう”に見えてくる。
扉の向こうにあるのは、不思議――
それとも、あなたの心の中かもしれない。
坂の中ほどに、古いレンガ造りの建物がある。
ドアの上の木札にはこう書かれていた。
『写真館 忘却寫眞館』
〈撮影後、十秒で記憶から消えます〉
カメラを趣味にしている青年は、
その看板に立ち止まり、思わず笑った。
「……そんな商売、成り立つのか?」
けれど気づけば、ドアを開けていた。
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中には古いフィルムカメラと現像液の匂い。
そして、黒いベレー帽の女店主がいた。
「いらっしゃい。撮影ですか、それとも消去ですか?」
「……どっちも怖いですね」
「そう言う人ほど、撮りに来るんです。記憶に残したくないほど大事なものがある」
青年は苦笑した。
「どういう理屈なんです?」
「撮影した瞬間に、脳の“思い出フォルダ”を上書きするんですよ。
だから、あなたも撮られたことをすぐに忘れる」
「じゃあ、誰が覚えてるんです?」
「写真が、です」
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店主はカメラを構えた。
「では、撮りますね。何か忘れたいことは?」
青年は少し考えた。
「……別れ際に、変なこと言っちゃった人がいて」
「どんな言葉を?」
「『またね』って。もう二度と会えないのに」
「いい言葉ですよ。でも、たしかに残ると重い」
カシャ。
シャッターの音が鳴る。
その瞬間、
胸の奥で何かがふっと軽くなった。
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「……今、何を撮ったんですか?」
青年が尋ねると、
店主は微笑んで言った。
「“忘れたほうが幸せな瞬間”です」
「それって、誰が決めるんです?」
「あなたが来た時点で、もう決まってますよ」
「……怖い店ですね」
「怖いのは、“忘れない”ことです」
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現像室の奥では、写真が一枚だけ乾いていた。
白黒の中に、誰かが笑っている。
けれど、それが誰なのかは思い出せない。
「これ、持って帰ってもいいですか?」
「もちろん。ただし、十秒後には“誰”を撮ったか忘れます」
青年は写真を受け取り、
店の外へ出た。
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風が吹く。
街の音、人の声、陽のぬくもり――
すべてが少しだけ遠のく気がした。
手の中の写真には、
笑っている誰かが写っていた。
どこか懐かしくて、
だけど、名前が思い出せない。
彼は微笑んでつぶやいた。
「……なんか、いい顔だな」
そして、ふと気づく。
自分の頬も、
同じ笑い方をしていた。
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『忘却寫眞館』では、残らない写真だけを撮っている。
忘れることは、消すことではなく、
「重ねる」ことなのだという。
だからこの街の写真は、
いつか誰かの“今”に写り込む。
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