第4話 ラーメン屋 『逆流亭』
ここは不思議な商店街――「幸坂ストリート」。
そこで出会う人々は皆、
“何かを失ったまま”この坂を歩いてくる。
そして店を出るとき、
その手のひらにはほんの少しだけ、あたたかい何かが残る。
奇妙で、やさしくて、少し切ない。
現実の方が少し“夢のよう”に見えてくる。
扉の向こうにあるのは、不思議――
それとも、あなたの心の中かもしれない。
夜の坂を上る途中、ふと香ばしい匂いがした。
どこかで誰かが、スープを煮込んでいる。
その香りに誘われるように、小さな暖簾をくぐった。
「いらっしゃい。ようこそ逆流亭へ」
店内は一席だけ。
客は自分ひとり。
カウンターの奥で、白髪の店主が麺を一本一本、指で伸ばしていた。
まるで糸を紡ぐように。
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「すぐできるからね」
「……ラーメンって、そんな手間かけるもんでしたっけ」
「ここの麺は特注なんだ。一本一本、“人の思い出”でできてる」
「思い出?」
「そう。長いやつほど重くて、すぐ沈む。
短いやつほど軽くて、すぐ浮く」
湯気の奥で、店主の顔がゆらめいた。
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ほどなくして、丼が置かれた。
透き通ったスープに、麺がふわりと漂っている。
箸を入れた瞬間、懐かしい声がした。
――「おかえり」
「……いま、何か……?」
「麺の一本一本が思い出だからね。
食べると、あなたの記憶が少しだけ戻るんだよ」
青年は戸惑いながらも口に運んだ。
ひとくち目は、小学校の運動会の味。
二口目は、初恋の放課後。
三口目は、泣きながら帰った夜のにおい。
涙がこぼれた。
それはしょっぱくて、どこか温かかった。
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「スープは、なんですか」
「周りの人の想いさ。
自分では気にしなかった“誰かの想い”を、全部ここに煮出してる」
「……じゃあ、これも俺の人生?」
「人生の味見みたいなもんだよ。
しょっぱくても、飲み干したくなるのがラーメンだろ」
店主は静かに笑った。
湯気の向こうで、鍋の音がゆっくり響いていた。
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気づくと、丼は空っぽだった。
店主が湯気の中から声をかける。
「味、どうだった?」
「……なんか、思い出しすぎて胸いっぱいです」
「そりゃ上出来だ。元々あんたが受け入れてた味だからな、
しっかり馴染むはずさ。
ちょっとしたきっかけ」
勘定を払おうとすると、店主が首を振った。
「いらないよ。
お会計は“思い出した涙”で支払い済みさ」
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外に出ると、夜風がやけに優しかった。
ふと見上げると、湯気が空に昇って雲に混じっていく。
その形は、まるで一杯のラーメンのようだった。
翌朝、目を覚ますと、夢のように記憶が薄れていた。
ただひとつ、両手に残る香りだけが確かだった。
それは――しょうゆと涙のあいだの匂い。
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逆流亭のラーメンは、時間をさかのぼる味がする。
麺は思い出、スープは他人の想い。
完食した者は、みんな少しだけ前を向くという。
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