最終話 茶屋 『輪廻庵』
ここは不思議な商店街――「幸坂ストリート」。
そこで出会う人々は皆、
“何かを失ったまま”この坂を歩いてくる。
そして店を出るとき、
その手のひらにはほんの少しだけ、あたたかい何かが残る。
奇妙で、やさしくて、少し切ない。
現実の方が少し“夢のよう”に見えてくる。
扉の向こうにあるのは、不思議――
それとも、あなたの心の中かもしれない。
坂の最果て。
霧が途切れた先に、一軒の庵が見えた。
木の札には、墨でこう記されている。
『茶屋 輪廻庵』
〈坂を登りきった者、ここで一息〉
香水《天誘》の香りを纏った青年は、
吸い寄せられるように扉を開けた。
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中には、古びた畳と湯気の立つ茶碗がひとつ。
白髪の老人が座っていた。
その顔は、どこかで見たような――
いや、これまで出会った誰かたちの顔が重なって見えた。
「ようこそ」
「……ここが最後の店、ですか」
「そう言う人もいますね。
でも、ここを出てまた戻ってくる人もいる」
老人は湯を注ぎ、静かに続けた。
「ここは、“心”が輪を閉じる場所。
四十九日間、あなたは自分の感情を洗い、
繋ぎ直し、手放してきた。
――もう、何も残っていませんか?」
青年はうつむいた。
「まだ少し、あります。
あの街で出会った人たちの顔が、どうしても浮かんで」
「それでいいんですよ」
老人は微笑んだ。
「誰も完全には悟れません。
香りのように、少し残るからこそ“人”なんです」
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青年は茶を口にした。
不思議な味だった。
苦くもなく、甘くもない。
ただ、“何も混じっていない”味がした。
「このお茶、なんですか」
「あなたの時間ですよ。
もう冷めきった部分と、まだ熱い部分を合わせてあります」
青年は笑った。
「ずいぶん変な茶ですね」
「変じゃない。
生きることは、冷めた時間を味わうことです」
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ふと、外から鐘の音が聞こえた。
それは寺の鐘ではなく、
商店街の全ての店のドアベルが同時に鳴る音だった。
「時間ですね」
老人が立ち上がる。
「これからどうします?」
「どう……とは?」
「“還る”か、“巡る”か」
青年は少し考えた。
「還ったら、もう誰にも会えない?」
「会えません。
でも、忘れたまま静かでいられます」
「巡ったら?」
「また、誰かの夢の中で生まれます。
記憶は持たないけれど、優しさだけは残ります」
青年は微笑んだ。
「なら……巡ります」
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老人は頷き、香の壺を開けた。
そこから立ちのぼる香りは、
《天誘》で調合した“また会えるかもしれない香”だった。
香りが庵いっぱいに広がり、
青年の姿は、ゆっくりと薄れていく。
「ありがとう」
「こちらこそ」
その声が重なり、消えた。
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外では、風が坂を下って吹いていた。
遠くの街に、新しい店がひとつ建つ。
看板には、まだ何も書かれていない。
だけど、誰かが通りかかれば、
きっとこう読めるだろう。
『不思議な商店街』
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《輪廻庵》では、心の旅を終えた者がひと息つく。
悟りとは、終わりを受け入れることではなく、
もう一度“はじめの香り”を選ぶことだ。
――この街に迷うすべての魂へ。
あなたの49日が、どうかやさしい香りでありますように。
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ここは――不思議な商店街、
「行釈迦ストリート」。
かつて“幸坂”と呼ばれたこの道の名は、
人が悟りへ向かう“行の坂”から始まった。
ここを訪れる人々は皆、
何かを失い、何かを探し、
そして店を出るとき、
その手のひらにほんの少しだけ“あたたかさ”を残してゆく。
奇妙で、やさしくて、少し切ない。
それでも誰もがこの坂を上る――
まるで、心がまた歩き出すように。
現実の方が少し“夢のよう”に見えてくる。
扉の向こうにあるのは、不思議――
それとも、悟りへ続く、
「あなた自身の行」
なのかもしれない。
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この作品はこれで終わりとなります。
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