第16話 香水ショップ 『天誘』
ここは不思議な商店街――「幸坂ストリート」。
そこで出会う人々は皆、
“何かを失ったまま”この坂を歩いてくる。
そして店を出るとき、
その手のひらにはほんの少しだけ、あたたかい何かが残る。
奇妙で、やさしくて、少し切ない。
現実の方が少し“夢のよう”に見えてくる。
扉の向こうにあるのは、不思議――
それとも、あなたの心の中かもしれない。
坂のいちばん上。
霧のような光が漂う場所に、
小さな香水店がある。
看板には、淡く滲む文字でこう書かれていた。
『香水ショップ 天誘』
〈最後に纏いたい香り、調合いたします〉
通りすがりの青年は、ふと立ち止まった。
香りは甘くもなく、花でもない。
どこか懐かしい――雨上がりの記憶のような匂いだった。
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中に入ると、店内は白一色。
棚には無数の瓶が並び、どれも透明で名前がない。
カウンターの奥で、白衣の店主が微笑んだ。
「いらっしゃいませ。
どんな“終わり方”をご希望ですか?」
「……終わり方?」
「ええ。“香り”は、記憶の入口で出口です。
人が立ち去るとき、最後に残るのは言葉ではなく匂いなんですよ」
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青年は戸惑いながら答えた。
「じゃあ……少し前向きな香りを」
「了解しました。“受容”系ですね」
店主は、いくつかの瓶を手に取り、
淡い液体をブレンドしていく。
ひとつは“懐かしさ”、もうひとつは“未練”、
そして最後に“少しの希望”。
その調合は、まるで祈りのようだった。
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「完成しました」
差し出された瓶のラベルには、
文字のような影が浮かんでいる。
『また、会えるかもしれない香』
青年は思わず笑った。
「なんだか、宗教的ですね」
「そうですね。天国より現実的ですけど」
店主は静かに言葉を続けた。
「“天への誘い”とは、死後の話ではありません。
生きながらにして、少しずつ遠ざかるための香りです」
「遠ざかる……?」
「はい。人や思い出や後悔から。
でも完全に忘れないように、香りを一滴だけ残しておく」
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青年は瓶の蓋を開けた。
ふわりと広がる香り。
胸の奥が温かくなり、
目の奥がじんわり滲む。
「……これ、どこかで嗅いだことある」
「それは当然です。
“あなた自身”の香りですから」
青年は目を上げた。
そこにいたはずの店主の姿が、
いつの間にか霧に溶けていた。
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外に出ると、坂の上から風が吹いた。
どこか遠くで鐘の音がする。
ふと足元を見ると、
瓶から一滴だけ香料がこぼれていた。
地面に落ちると、それは光に変わり、
ゆっくりと空へ昇っていった。
青年は目を細めた。
「……そろそろ、行けそうだな」
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《天誘》では、
香りを通して“別れ”を受け入れるための調香を行っている。
人は死ぬ前に匂いを選ぶ。
――そしてこの街では、香りこそが“帰る道しるべ”だ。
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