第10話 時間貸し喫茶『秒針堂』
ここは不思議な商店街――「幸坂ストリート」。
そこで出会う人々は皆、
“何かを失ったまま”この坂を歩いてくる。
そして店を出るとき、
その手のひらにはほんの少しだけ、あたたかい何かが残る。
奇妙で、やさしくて、少し切ない。
現実の方が少し“夢のよう”に見えてくる。
扉の向こうにあるのは、不思議――
それとも、あなたの心の中かもしれない。
坂の途中、古い時計店の隣に、小さな喫茶店がある。
看板には、こう書かれていた。
『時間貸し喫茶 秒針堂』
〈一杯のコーヒーの間、時間が止まります〉
店のドアを開けると、カランと鈴の音。
中は静かで、ゆっくりとした時計の音だけが響いていた。
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「いらっしゃいませ」
白髪まじりのマスターが、穏やかに笑う。
「お好きな席へどうぞ。時間は止まっておりますので」
「……もう止まってるんですか?」
「止まってるのは“世界”であって、店内は動いております」
「なるほど、わかったような、わからないような」
青年は窓際の席に座った。
外の景色は静止している。
歩行者も風も、まるで写真のようだった。
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「ブレンドでよろしいですか?」
「はい。……ところで、どのくらい止まるんです?」
「お客様がコーヒーを飲み終えるまでです」
「それ、結構すぐ終わるやつでは?」
「ええ、だから皆さん“もったいなくて”なかなか飲みません」
マスターは笑いながら、
湯を細く注いでいった。
香ばしい香りがゆっくりと広がる。
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青年はカップを見つめた。
温かい。
香りが濃い。
口に含めば、たぶん絶品だろう。
けれど、飲めば時間が動き出す。
「……これ、飲んだら仕事に戻るんですよね」
「ええ。世界が再生します」
「じゃあ、ゆっくり飲みます」
「そうおっしゃる方ほど、すぐ飲みきります」
マスターはカウンター越しに微笑んだ。
「おいしいものは、つい“今”で味わってしまうんですよ」
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青年は一口だけ飲んでみた。
その瞬間、舌の上で世界がほどけるようだった。
香り、記憶、静寂。
時間が止まっているのに、胸の奥で何かが動いた気がした。
「……うまい」
「ありがとうございます。止まってる時間ほど、味が濃くなるんです」
「反則ですね」
「人生も同じですよ。止まってるようで、ちゃんと減っていきます」
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結局、青年は半分まで我慢して、
最後は一気に飲み干してしまった。
「ごちそうさまです」
「はい、時間が進みますよ」
マスターが指を鳴らした。
外の風景が、ふっと動き出す。
歩行者が再び歩き、風が木の葉を揺らす。
青年は少し笑った。
「……やっぱり、もったいなかったな」
「でも、いい顔です」
「え?」
「止まっている間に、少し“余裕”が伸びました」
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店を出ようとすると、マスターが声をかけた。
「またお待ちしております」
「でも、また来たら時間が止まるんですよね?」
「ええ。ただし、退屈も止まります」
「……なるほど、それは助かる」
青年は外に出て、空を見上げた。
少しだけ風が遅れて頬を撫でた気がした。
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『秒針』のコーヒーは、一杯ごとに世界を止める。
けれど、誰もじっとしていられない。
うますぎて、飲みきらずにはいられないのだ。
結局、味わい深いものほどすぐに終わる。
だからこそ――
それ以外の時間を、どう楽しむかが問われる。
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