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第1話 猫カフェ『シュレディンガー』

ここは不思議な商店街――「幸坂ストリート」。

そこで出会う人々は皆、

“何かを失ったまま”この坂を歩いてくる。

そして店を出るとき、

その手のひらにはほんの少しだけ、あたたかい何かが残る。


奇妙で、やさしくて、少し切ない。

現実の方が少し“夢のよう”に見えてくる。


扉の向こうにあるのは、不思議――

それとも、あなたの心の中かもしれない。



坂の途中に、古びた猫カフェがある。

看板はいつも裏返しのままで、入るまで

「開店中」なのか「閉店中」なのか、誰にもわからない。


だがその日、男がふと立ち止まった瞬間、

風が吹いて、看板がゆっくりとひっくり返った。

白い文字が浮かぶ。

「いらっしゃいませ」。


---


中はしんと静まり返っていた。

外の音がまるで遠い世界の出来事のようだ。


店主は白衣姿の女性だった。

「猫カフェ、シュレディンガーへようこそ。

 本日も開店中であり閉店中でもあります」


「……ややこしいですね」

「ええ。物理学的に、というやつです」


冗談かと思ったが、

その声には不思議な落ち着きがあった。


---


店内には十数匹の猫。

ただし、どの猫も少しだけ透けていた。

光が体の中を通り抜けるように、輪郭が揺らいでいる。


男が席につくと、

一匹の黒猫が膝に乗ってきた。

重さは確かにあるのに、影はない。

スマホで撮っても写らなかった。


「この子は……?」

「あなたが“もう一度、撫でたい”と思った猫です」

店主は柔らかく微笑む。


---


男は息を呑んだ。

子どもの頃、拾って三日で死んだ子猫がいた。

黒くて、少し尻尾が曲がっていた。

目の前の猫が、そのままだった。


「この子、生きてるんですか?」

「ええ、“あなたの記憶の中”では」

「つまり……?」

「つまり、観測が続いているんです。

 あなたが“いる”と思う限り、この子は“いる”。」

「……都合いい話ですね」

「猫という生き物は、だいたいそういうものです」


男は思わず笑った。

その笑い声に、黒猫の尻尾が小さく揺れた。


---


時間がゆっくりと過ぎていく。

猫が膝から降りる。

扉の向こうに消える瞬間、

店主がぽつりと言った。


「この子、あなたの名前を覚えてましたよ」

「えっ」

「“ハル”。そう呼んでました」

「……それ、僕が猫につけた名前です」

「そうでしょうね。猫は覚えています。

 人が思うよりずっと、やさしい生き物ですから。」


---


外に出ると、空はもう夕方。

風が少し冷たい。

振り返ると、店は跡形もなく消えていた。

ただ、道端に一枚のチラシが落ちていた。


---


『猫カフェ:シュレディンガー 新メニュー』

“本日の気まぐれスープ:思い出とミルクのブレンド”

“退店時のお願い:どうか忘れすぎませんように”


---


男は吹き出して笑った。

たしかに、猫にしては上出来な注意書きだ。


---


その夜、眠る前に膝のあたりを撫でてみると、

ふわりと、ほんの少しだけ温かかった。


夢の中で猫なで声が囁いた気がした。


「よい夜を。

 人間は寝るけど、猫は夢を見に行くのだ。」


---


坂の途中には、

「開いているか閉まっているか、誰にもわからない店」が多い。

ただひとつ言えるのは、

“帰るころには、少しだけ笑ってしまう”ということだ。



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