さらば、穏やかなるのっぺりDAYS
ささやかな空気の揺れが頬を撫でる。部屋に入ってきたスーツ姿の新人たちをみて皆が次々に腰をあげ、ぼーっと目の前の画面を見ていた俺も慌てて立ち上がる。
促され、新入りたちが端から緊張気味の自己紹介を重ねていくのがほほえましい。
今日は4月も終わりが近づいた、新人研修を終えた彼らが配属される日。6年くらい前に俺もやったそれを目の前で見るのは、何度経験してもむず痒いもので、耐え切れず、ふと逸らした視線の先に彼はいた。
真っすぐに伸びた背筋と、丁寧に整えられた癖のない少し長めの黒髪。切れ長の瞳はじっと前を見ていて、開かれた口から出た声が真っすぐで揺らぎがない。顔は勿論整っていて、自信にあふれた出来る奴、と言ったところ。壬挑 匡人。耳に届いた名前は、物覚えの悪い俺の頭の中で、何故か延々と巡っていた。
「壬挑 匡人です。チーム4に配属になりました。よろしくお願いします」
「あ、よろしく。えと、俺、真橋 透」
「丹辺 忠則です。よろしくね。まずは朝の定期点検を一緒にまわろうか」
真橋くん、連れてってあげて。その言葉に頷いて、机上に放っていた手順書の端をつまんで、ずるずると引き寄せる。毎朝使っているから、紙ファイルの端がよれて白く捲れあがっているが、交換は面倒なのでそのままだ。
ちょっと視線を泳がせてから、意を決して壬挑くんと目を合わせる。俺がのろのろと準備していた間もこちらを見ていたのか、想像よりも強い視線が絡んだことにぎょっとして、言うべき言葉がトんでしまった。
「あー、えっと。まず、朝はね、全部の機械がちゃんと動いてるか点検にいくんだけども」
ひっくり返りそうな声をぎりぎりで抑えつつ、着いてくるように告げて前を歩く。斜め後ろから突き刺さる視線が気になり過ぎて、機械室の扉を開けるナンバーを打ち間違うこと二度。ついには後ろから落ち着いてください、なんて言われてしまって、格好いい先輩には程遠い失態にため息が出そうになりながら、開いた扉から漏れる冷気で耳のほてりを自覚する。
点検自体は手慣れたものだから、サクサクと説明を進めていく。これはどういう理由でやってるんですか、なんて想定外の質問が来る度に俺が動揺して黙るから、最後あたりは質問すら来なくなって、胸のあたりが重たくなる。
ようやく説明を終え、何か質問あるかな、という形だけの言葉を絞りだせば、何故かちょっと笑って、いいえ、ありがとうございます、なんて返ってくる。ほっとすると同時に笑われたことが気になって、腹いせに、これは可愛くない後輩だと結論付けてから、丹辺さんの待つ部屋へと戻った。
「新人君とは仲良くなれそう?」
「なんか、馬鹿にされてる感じがします……」
絞り出すように不満をこぼす俺を見て、丹辺さんが苦笑する。お疲れ様、と差し出された紙コップのコーヒーの温かさが伝わってきて、じんわりとしたそれがなんとも手放しがたい。そう思っていたら、ようやく飲む頃にはすっかり冷めてしまっていた。
「彼、新人研修でも優秀だったらしいよ。頼もしい後輩だよね」
「うへぇ。俺の苦手なタイプです……」
イケメンな上に仕事も出来るなんて、なんて勝ち組なんだろう。負け惜しみのようなことを考えて余計に落ち込んだ俺の心情を察したのか、丹辺さんが俺の肩をさすってくれる。丹辺さんも格好いいけど、こうやって寄り添ってくれるから全然嫌味に映らないのが彼との違い。
「飲み会で話をしてみたらいい。印象変わるかも……ほら、僕も同席するからさ。ね?」
「……はい」
口の中と同じ、苦々しい後味になる予感を、俺は黙って呑み込んだ。
飲み会の席には40人ほどが集まっていた。最初に課長のどうでもいい話をグラス片手に聞き流し、数分後にようやく乾杯をする。数分で済んだのは、若干皆の手がプルプルし出したのをみて、丹辺さんがさり気なく声をかけてくれたおかげである。
壬挑くんは一つ離れたテーブルについていて、こちらからはたまに顔が見えるくらい。声を掛けに行くか迷っているうちに丹辺さんが彼を連れてやって来て、口の中の刺身を慌てて飲み込んで、グラスを片手に隣に座る彼を見た。
「お疲れ様です」
「お、つかれ。飲み会どうかな。馴染めそう?」
「学生の時と違って、変なノリで絡んでくる人がいないので楽ですね」
なるほどそれは同感かもしれない。俺も一度、いわゆる陽キャと呼ばれる人らの飲み会に参加したことがあったが、あれは苦行としか言いようがなかったもんな。意外な共通点に、飲み込んだ刺身の違和感も消えて、酒も手伝って少しずつつ話せるようになっていく。
出身はどこだとか、そういうどうでもいい情報も得つつ、何故うちの会社を選んだのかという定番ネタをふってみた時だった。コトリ、とグラスを静かに置く音がして、壬挑くんの目がじっと俺を捉える。相変わらずまっすぐて強い視線にまごつきつつ言葉を待つ俺に、瞬き一つした彼がこう告げた。
「俺は、皆が使うシステムを、安定して支える側の人間になりたくてここを選びました」
「支える人間に、なりたい……?」
「はい。目立たない仕事ですが、俺もこれまでそうやって支えてもらった側だから、今度は俺の番だと思って」
全くブレない視線からして、きっと本気なのだろうと思う。丹辺先輩が、かっこいいね、なんて言うのを聞きながら、俺は彼の言葉をかわいいな、と思っていた。
壬挑くんのそれは、ヒーローになりたいだとか、正義の警察官になりたいだとか、そういうお綺麗な夢の世界の話だ。そして偶然にもそれは、かつての俺が抱いていた理想とおんなじだった。
「いいね、俺も昔はそうだったなぁ。じゃあ、バリバリ仕事したい派なんだ?」
彼も俺とおんなじだ。そう思えたことで、自然と声も弾んでいた俺を見て、再びお酒に手を伸ばした彼が不思議そうに口を開いた。
「昔は……。……なんで、今は違うんですか?」
「へ……?」
静かに一口飲みほして、またグラスとぶつかった机がことりと鳴る。
「なりたいと思うなら、なればいいじゃないですか」
つい、と、彼が一つ先のテーブルに視線を投げる。大きな声をあげて笑いながら、いかに仕事で楽をしたかを語る先輩がいて、俺は途端に尻の下の座布団が冷えている気がした。サボっていると言われたわけでも、馬鹿にされたわけでもない。ただ、なればいい、という言葉が頭の中に居座って、どくどくと心臓にまで注ぎ込まれる。
笑って、そうだね、なんて告げてから、俺はたまらず席を立ってトイレを目指す。手を洗って、顔も洗ってもまだ、頭の中がぐるぐるとしていたから、少し外へ出てぼんやりしていたら、丹辺先輩が出てきて隣に立った。
「疲れた?」
「……ちょっとだけ」
だよねえ、騒がしいからね、と言うその声音がとても柔らかくて、混沌としていた頭がちょっとだけほぐれる。新入りでもない、そこそこベテランになるべき年になった俺を、3歳だけ年上の丹辺さんが気遣ってくれるこの光景が、大人のくせに情けない。でも、実際丹辺さんは今、外はひんやりしているよね、ってことくらいしか言わないだろうから、この人には一生勝てないよなあ、と思う。
「戻ろうか」
「はい」
俺が今まで職場に居られたのは、最低9割くらいは丹辺さんのお陰。転勤の季節になる度本人に言っては、じゃあお礼においしいモノ食べにいこう、なんて意味の分からないことを言われ、そして結局転勤は起きないのが毎年のことだった。
一緒に仕事をして2週間ほど。もう、この短期間で俺が教えられることが無くなったと言っても過言ではない。朝のメンテナンスのやり方も、アラームが鳴った時の対応も、1を教えれば10を学ぶ、それが壬挑 匡人という後輩だった。
丹波さんも壬挑くんに仕事をふることにためらいが無くなってきていて、俺にはほんの少ししか渡さないような仕事を、壬挑くんにはそのまま渡している。それを見てしまったら、喉の奥から言いようのない嫌な声が漏れそうになった。
でも、全部飲み込んでから口を開いた。
「すごいな、壬挑くん。もう俺が教えられることないくらいだ」
自分の口から、ちゃんと褒める言葉が出たことに安堵する。パソコンの画面を見つめたままの彼が礼を述べ、かたかた、と何かを打ち終わった音のあと、ようやく視線が絡んで声がした。
「後輩の俺にもう教えることがないと思うなら、先輩はもっと頑張った方がいいと思います」
てきぱきと荷物を片付けて、お先に失礼します、と去っていくその背が消えて、ちょっと離れた机からうわぁ、なんて声が聞こえてくる。飲み会のとき、いかに楽に仕事をするかを自慢して笑っていたあの先輩が、固まる俺の手に小さなチョコを転がして、気にするなよなんて笑って去っていく。
広げた包み紙の中のチョコは、少し溶けて歪だった。無視して口に放り込み、甘ったるい味に浸ってみても、壬挑くんの言葉はずっと頭の中で反響し続けている。――おれだって頑張ってるんだ。俺だってやれば出来る、俺だって、俺は本当は……なんて、ずっと何度も反響を打ち消そうとするけれど、どの言葉もたちうち出来ず消えていく。
壬挑の言葉に怒れない自分が、とても嫌いだと思った。
「スゥ―――。仕事いきたくないなぁ」
壬挑に精神的にぼっこぼこにされてしばらく。6月に入った昼過ぎの空は、むらのある灰色に染まっていた。俺の心も曇り空、あるいは豪雨と言って差し支えないくらいにどんよりとしている。丹辺さんがいなかったらとてもじゃないけど仕事に行けない。
俺をけちょんけちょんにした壬挑だったけど、悔しいことに仕事上はきちんとしている。俺を馬鹿にしてくる言動があるわけでもないし、寧ろ俺が手間取っている時は手をかしてくれるタイプだ。チームで仕事をしているから、その方が早く進められると判断してのことだと思う。
そう言うところがまた人間的にも負けている気がして、落ち込んでいた俺は……段々腹が立ってきた。
なんなのだ。ただでさえイケメンな上に、仕事もでき、志に似合う実力を持っているなんて、ずるいとしか言いようがない。勝てはしないまでも、どうにかして一泡吹かせてやりたい。じゃあどうすればあの目が丸くなるだろうと思いながら、家の鍵をかけ、じめっとした空気に嫌気がさしつつバス停に向かえば、いつもの夜勤通勤メンバーが傘を手に並んでいるのが見えて、じっとりする車内を連想してまた気分が下がった。
バスの運転手が絶妙に聞き取れないアナウンスを垂れ流すのを聞きながら、ぎりぎり座れた座席に体を沈める。――思えば、この運転手も大した人だよな。毎日のように同じようなアナウンスをこなし、事故も無く客を送り届け、褒められるでもないのに客に礼を述べている。当たり前の仕事をこなしている、それがどんなにすごいことかと、俺はひそかに尊敬の念を抱いて、読み取り損ねたスマホをもう一度かざした。
身近な運転手に尊敬の念を抱く。そんな俺に出来ることは地道なものしかない。そう、淡々と、次回の点検作業の準備をすることである。地味に面倒だし、誰も感謝はしないけど、あのバスの運転手みたいに愚直にこなすことに価値がある……と、思いたい。
予定表を何度か確認し、時間前に丹辺先輩に声をかける。壬挑くんも含めた3人で車に乗り込んで、少し離れた目的地に到着した時だった。
いつものように鍵を開けようとして、そして、不自然に軽い鍵束に気付く。――ない。
なんで、と思った俺の脳裏によぎったのは、事前の持ち物チェックをしたときの机。震える声のままに告げれば、丹辺先輩が笑って俺の肩に手を置く。壬挑くん、一回戻るから車まわしてくれる? というその声が優しげなのが、逆に痛かった。
頭がぐちゃぐちゃになりながらも、何とか1時間遅れで作業を終えて、深夜の会社に戻る。優しい丹辺先輩が、今日は疲れただろうから、なんて言って寝ずの番を変わろうとしてくれたけど、とてもじゃないけど頷けなくて首を振る。いつでも代わるからねと言って夜食がわりにくれたクッキーが、なんだかずしんと重たかった。
壬挑くんと二人になった後、俺は必死に目の前のパソコンに向き合って、点検後の報告書を作りこむ。何度も日付を確認し、とうとうやることが無くなって、ついに沈黙を誤魔化せなくなって、ちらりと横に座る壬挑くんに視線を向ければ、じっとこちらを見る視線とかち合って、ひぇっ、なんて情けない声が出た。
「何ですかその反応」
「いや、ごめん、見られてると思わなくて」
「それは……すみません。終わらないなら手伝おうかと思って見てただけです」
「……ありがとう、終わったから大丈夫」
心臓に悪いなあ、と思って、思ったより普通に会話出来たことに少し驚く。俺のせいで仕事時間が増えて、運転までさせられて面倒な思いをしたのに、手伝おうかと思った、なんて言う彼が意外だった。だから。
「あの、ごめん。俺が鍵忘れたせいで面倒かけて」
自然と、謝りたいなと思った。見栄からではなく、ちゃんと謝れる大人だと示したいからでもなく、ただ、俺を気遣ってくれた後輩に対してあまりに失礼で、申し訳なかった。
「ん?あぁ、いえ。今回持っていくものも多かったですし、前の点検したのも1年前とかでしょう? 必要な鍵一個漏れるくらいは仕方ないです」
「え」
「え?」
「……怒ってないんだ?」
「なんで俺が。先輩ちゃんと準備してくれてたじゃないですか。俺が他の仕事してたから代わりにしてくれてたんですよね。ありがとうございます」
「え?」
「え?」
ジジ、と、空調が小さく音をたてるのが、やけに耳につく。目の前の後輩が、俺が見たかった通りの丸い目をしているのが、なんだか、とてもおかしい。それに気づいてしまったら、もう駄目だった。
「……は」
じんわりと鼻の奥がひりついてくる。こらえようとすればするほど目の前がぼやけてきて、ズッ、と鳴らした鼻の横を冷たい何かが通り過ぎていく。ただでさえ丸くなっていた彼の目が更に見開かれて、ちょっと間抜けにも聞こえる声が漏れたのを耳にして、それがまた俺の何かを決壊させた。
中途半端に立ち上がった壬挑くんが、しばらく手をさ迷わせたあとで、少し離れたティッシュ箱を掴んで引き寄せる。無言で差し出されるそれを笑って受け取れば、緊張気味だった肩が下がったのが見えた。
半分くらいだったティッシュの箱の中身がすっかり空になるころには、俺の前には暖かかったコーヒー入りの紙コップやら、次の真新しいティッシュやらが並んでいて、それがとてもおかしい。
この後輩は、存外優しい奴なのだと思うには、十分すぎるラインナップだった。
「あの、すみませんでした」
「え?なにが?」
「その、俺、言い方がキツイってよく言われてて。泣かせたから、またやったかな、と」
ぐっと拳を膝の上で握る壬挑くんが、珍しく目を逸らしてそう呟く。何度も手を緩めては力を込めてを繰り返す様は、いたたまれない気持ちそのままに見えて、俺の反応を気にしていることが丸わかりなのが可愛かった。
自分に自信がある人でも、そう言うの気にするんだな、なんて思ったら、遠くにあった彼の背中が、後ろ髪のちょっとした跳ねが見えるくらいまで近づいた気がした。
「ふ、確かに結構ズバッと言うところあるよね」
「友達からも注意されるんですけど、中々直せなくて」
「俺は、そのままでいて欲しい気もするなぁ」
「え」
ぐっと握った手が緩んで、目もまん丸になる。幼さの滲むその顔が面白くて、自然とほおが緩んだ。
「まあ、実際それで人間関係ぎくしゃくすることもあるだろうから、俺の願望であって、強制するつもりはないんだけどさ」
壬挑くんのそれで、俺が傷ついたのは確かだ。丹辺さんがいなかったら職場に来るのも無理になってたかもしれない。
でも、彼が俺を見て、俺がもがいてたことを知って、報告書が終わってないなら手伝おうと思って気にしてくれてたことが分かったから。彼が彼なりに俺を見てくれていたと思えたから、そう言うところがとても。
「真っ直ぐな君が好きだと思うから、俺には今後も変な気を使わないで欲しいと思うんだ」
へへ、と照れ臭く笑う俺は、なんだか過去一上機嫌かも知れなかった。
いつもより明るい夜が明けて、家に帰って仮眠をとって、眩しい昼の太陽を見て、あぁ、俺のどんよりのっぺりした日々が、ちょっと変わったのかも、なんて思ったのは。久々に、ちゃんと太陽を見たからに違いなかった。