飲んだくれと食傷
俺とニックが仕事から戻った時、すでに溜まり場にはボス含め何十人もの仲間が集まっていた。
どうやらニックが先んじて連絡をしていたらしい、「成功した」と。
テーブル代わりのドラム缶には缶詰やウイスキーが雑然と並んでいた。
そして大勢が小さな焚き火を囲んで飲み、食い、笑っていた。
もうすでに酔った仲間たちの赤い目は、俺を向いたと思えば横に潰れた。
「おい、来たぞ!英雄の帰還だ!」
「よっ、ヒーロー!まだ酒残ってるぜー」
「俺はお前ならやれるって信じてた」
「いやいや俺の方が…」
肩を叩かれ、安酒を勧められ、笑い声に包まれる。
俺は無言で頷きながら酒を受け取った。だけどなぜか飲む気は起きなかった。
ニックも遠巻きで仲間に絡まれ、気味の悪い笑顔を浮かべていた。
「あんな豪邸から盗みなんて、とんだ化け物だぜ」
誰かの言葉が、この喧騒の中で耳に飛び込んできた。
この手の言葉が嫌いだった、自分を否定されているような気がしていたからだ。
でも、今は違う。これは賞賛。この力が今の俺を支えているのだと、誇らしく思えた。
「おいリザ〜、お前やんじゃねぇか〜」
聞き覚えのある重低音、ボスが肩を強く叩きながらそう言ってきた。
普段、直視できないほど恐ろしいボスからの賞賛は全ての悩みを取っ払うほどに嬉しかった。
思えば、ここに来るまでこうやって誰かに歓迎されることなんてなかった。それも何十人になんて。
「お前にゃ褒美をあげないとな〜、欲しいもんあれば言えよ〜」
俺は満たされていた。世間的に見れば俺は貧困層だが、盗めばなんでも手に入る。
食うものにも困らず、寝床もあり、何より仲間たちが。
自分を認めてくれる存在がいる。
強いていうならば何だろうか。
富、名声、力、よく言われがちな願いを思い浮かべていく。
…自由、そこで思考が止まった。微かな光を放つ、あの病室のような部屋が脳裏に浮かんだ。
それ以上考えるのが辛く、俺は適当に誤魔化した。
「…まあ、今んとこは無いっすかね」
俺は出来る限り口角を上げながらボスにそう伝えた。
ボスは珍しく小さく笑ってうなずいた。「欲しいもんができたら言え」とだけ言い残し、グラスを傾けた。
そう言ったところでニックが人の波をかき分けながら来た。
「リザぁー、成功祝いにゲームしようぜ」
その両手には盗んだゲームと空っぽになった大きなジョッキがあった。
正直眠気も限界で、泥酔したニックの相手は流石にできない。
そう思い俺は「疲れたからもう寝るわ」と言い残してゴミ捨て場へと向かった。
戻っているうちに後ろから何やらニックの大声と、少し遅れて仲間たちの笑い声が聞こえてきた。
それにつられて俺も少し息を漏らしながら、周りを見渡した。
見渡す限りがゴミの山だけれど、それらが太陽に照らされて星のように輝いていた。
何度ここで夜を過ごしたか、かつては苦しかった機械の腐敗臭にも慣れて、もはや心地が良かった。
ここには誰も来ない。理由は単純こんな寝心地の悪いところで眠りにくるやつなんてほとんどいない。
だからこそ、ここは俺にとって一人になれる大切な居場所だった。
だが、今日は違った。俺が数ヶ月かけて組み立てた鉄板の裏に人影があった。
「誰かいるのか?」
俺は身を低くし、気配を殺して近づいた。
新入りか、或いは別のスラムの輩か、いずれにせよ油断はできないと固唾を飲んだ。
しかし、その顔を見た瞬間、時間が止まった。
金色の髪。痩せた手足。くたびれたワンピース。そして、脳裏に焼き付いている冷めた碧い眼。
「…エリー?」
ついに飲み過ぎで幻覚が見えたのかと思った。けれど、彼女の呼吸は浅く、肩がかすかに震えていた。頬に汗が浮かび、口元は青ざめていた。
そうか、追ってきたんだ。俺のことを。何で俺が犯人かわかったかは、この際どうでもいい。
背筋を冷たいものが走った。逃げなきゃ、ここから。
そう考えが行き着くまでには一秒も掛からなかった。
なのに俺の体は数秒の間、止まったままだった。
彼女の指が、かすかに動いた。誰かに助けを求めるように。見えない何かに縋るように。
ニックの言葉が頭の中で響いた。「楽しんで生きてりゃ…逃げは最善手…」
俺は勝手に復唱した。
今、ここで逃げたら。この光景を一生忘れられなくなる。
そして、俺は一生笑えない、そう確信できた。
「…くそ」
俺は膝をつき、エリーをそっと抱え上げた。体が熱い。高熱だ。エリーはうわごとのように「お父さん、お母さん」と助けを求めていた。
「大丈夫、大丈夫だから…」
俺は自分の手の中で、今にも燃え尽きそうな生命に堪えきれず涙目になりながら走った。
廃材の間に作った、自分の寝床に彼女を寝かせ、リザは毛布をかけた。置き場の隅に転がっていた水筒の中身を確認する。まだ残っていた。唇にそっと水を垂らすと、エリーはかすかに眉をひそめたが、それだけだった。
俺のせいだ、また。
エリーに俺の母さんを重ねた。俺の身勝手な行動が人を苦しめる。真っ当に生きている人を。
どこまで行っても、例え自分が楽しく生きようと、俺は誰かにとっては化け物でしかない。
俺は何かしていないと気が狂いそうで、エリーの手から零れ落ちた日記を開いた。
その中身に、俺は息を飲んだ。
震える指でページをめくる。めくる手が止まらなかった。きっと止めてしまうとその重みに耐えられないから。
そこに綴られていたのは、あまりに静かで、あまりに痛い、叫びだった。
復讐の旨はもはや頭に入らなかった。
「なんで…なんで、こんなことに、俺はそんなつもりじゃ…」
復讐だ何だと息巻いていた自分をぶん殴ってやりたかった。
やがて、エリーがゆっくりと目を開けた。瞳がこちらを捉える。
「…ここ、どこ…」
俺は謝ろうとした。「俺が犯人だ。登録証を盗んだのは俺だ」と言おうとした。でも、言葉が喉の奥でつっかえる。それは、自白が彼女の本当の救いにはならないだとか、そんな高尚な理由ではない。
ただただ臆した。目の前の弱いのに強い、そんな人間に。
「…近くで倒れていたから、俺の寝床に匿った。体調は…大丈夫そうか、エリー」
「…なんで、私の名前を?」
俺はそこで自分の口が滑ったことに気づき焦っているとエリーがまた小さな口を開いた。
「あ、私の日記か」
「ごめん、勝手に読んだ。どこの誰かもわからなかったもんで」
そういうと彼女は優しく微笑んだ。
「いいですよ、助けてくれたんですね。ありがとう」
俺は何も言えなかった、エリーの笑顔に向ける顔もなく、すぐに下を向いた。
すると、留めていた涙が地球に引っ張られてしまった。
「…生きていて良かった」
不意に溢れた。でも、これは、これだけは本音だった。
この時、エリーはどんな顔をしていたのだろうか。
ゴミで形作ったベッドの下を這い回る蟻が、俺の涙に溺れる光景だけがずっと残っている。