極寒の温室育ち
緩やかに沈んでいく月と対照に、俺は上を目指す。
三階へと向かうエレベーターの動きはぎこちなく、氷が割れるような音が反響する。
肩幅ほどまで開かない扉は、まるで外へ出るのを引き止めているかのよう。
熱気に包まれた現代では触れることのない冷気は、地獄を想起させる。
「ここ、めっちゃ寒いんだけど。どうする、引き返すか?」
すでに俺の手は閉じるボタンに伸びていた。
「リザ、お前間違って冷凍庫行ったんじゃねぇの?」
「どこの豪邸が三階丸ごと冷凍庫にすんだよ」
そう話しながらも、何度も危機に瀕した心体は疲弊してきていた。
貴金属を詰め込んだパーカーが俺を地面に縛り付けている。
「もう二階までは粗方漁ったんだし、帰ってもいいんじゃないか」
俺はニックに助けを求めるかのように聞いた。
「何言ってんだ。留守なんだから徹底的に盗もうぜ。
それにまだ火星行きのロケットの登録証カードが見つかってねぇ。
それ奪わなきゃ盗みとしても復讐としても中途半端だぜ。リザ」
ニックの言葉に感化され、俺は扉をこじ開けるように地獄へと踏み入った。
しかし、そんな俺の妄想とは裏腹に目の前に広がる景色は天国だった。
壁一面が青空を模した壁紙で彩られ、廊下には純白の絨毯が敷き詰められていた。
相変わらず照明は付いていなかったが、視界は勝手に明るく映る。
「すげーでっかい液晶。これもう全部のゲームあるんじゃね」
棚に綺麗に並べられたゲーム、長い卓上に飾られたお菓子。
空虚な子供時代を過ごした俺にとって、そこは御伽話の世界のようだった。
「そういや俺も一つだけゲーム持ってたっけな」
その時思い出したのは十年前、六歳の頃のクリスマスだった。
古びたアパート。いつも薄い壁の向こうで誰かが怒鳴っていた。
母さんはダンボールでツリーを手作りして、紙で飾りを作って、テーブルにはちっちゃなケーキを置いてくれた。
そのどれもが、この豪邸と比べれば安っぽい物だったけど、多分値打ち以外の何かがそこにはあったと思う。
「はい、メリークリスマース!」
渡されたのは、俺が前からねだっていたゲーム機だった。
型落ちで、箱も少し潰れてたけど、そんなのどうでもよかった。
目が覚めるような嬉しさで、俺は母さんに飛びついた。
「お母さんありがと!これずっと欲しかったやつ!」
母さんは笑ってた。疲れてたけど、ちゃんと笑ってた。
その笑顔がなぜか、ずっと胸に残ってる。ずっと忘れてたはずなのに。
でも、それから、学校が始まって変わった。
俺の鱗を見て、気持ち悪いって言ったクラスメイト。
トカゲ野郎、化け物、って。
先生も、なんとなく避けるようになって。俺の椅子がなくなってたり、給食に虫が混ざってたり。
全部が冷たかった。俺自身が化け物だからって無理やり納得しながら生きてた。
そんなある日、俺はとうとう言っちまったんだ。
母さんが、何か話しかけようとしてくれたとき。たしか、学校のことだったと思う。
「…もう、放っといてよ。どうせ何もできないくせに」
俺は背後からも母さんの顔が歪むのを感じたが、口を止めることはできなかった。
「母さんは人間だ、俺とは違う」
口にしてすぐに後悔した。母さんが静かに遠ざかる足音を聞いて、やっと焦って振り向いた。
でも、俺の視界に映ったのは鼻を啜りながら項垂れて歩く後ろ姿だった。
思えばあの時、すぐ謝っておけば良かった。
実際、謝ろうという選択肢はあった。
でも怖かった。
母さんがでは無く自分が。
心まで化け物になってしまった自分が怖かった。
俺が母さんを避けるようになったその日から、母さんは俺に話しかけなくなった。
一緒にご飯を食べても、目が合わなくなった。
差別なんか、してなかったのに。
優しかったのに。
たぶん、あれは罪悪感だった。何もしてやれなかったって母さんはずっと、自分を責めてたんだ。
でも、そんなこと当時の俺が分かるわけない。
だから、俺はずっと一人でいた。
ずっと忘れてた。忘れるべきだと思っていたから。
思い出した理由は明確にはわからない。
でも、この冷たい屋敷の中で、棚に並んだ誰にも遊ばれてないゲームたちを見て、
あの時の、暖かい冬を思い出したんだと思う。
俺が本当は、ちゃんと愛されてたことを、今さらになって。
もう、戻れない。
母さんが愛していた俺は死んだ。
今の俺は犯罪者集団の一人、リザだ。
もう、戻る気もない。
俺を無線の振動が現実へと引き戻した。
「おい、リザわかってるよな」
ニックが呆れるように話すので俺は感情を殺しながら返した。
「わかってるって、カード探せってんだろ」
「ああ、マリオシリーズあるだけ」
「ゲームカードかよ」
その時、視界の端にかすかな灯りが見えた。
廊下の奥、一室だけがほのかに光を溢していた。
俺は気づけば、そちらへ足を向けていた。
その部屋の扉は、他のやたらと重厚な鉄扉とは違って、軽そうな木製で横開きの造りになっていた。
床とドアの隙間から、薄い紙が滑り出しているのに気づいた。
拾い上げると、それは手紙のようだった。
裏返すと、びっしりと文字が並んでいた。けれど、整った字ではない。
震えたペンの跡、途中で掠れた行、行き場を失って塗り潰された文字。
お父さんとお母さんへ
火星移住の手配をしてくれてありがとう。
私は準備万端です。
体調も前よりは回復しました。
火星に行ったらやりたいことリストも作ってみました。
やりたいこと、いっぱいあるけど
やっぱり一番はお父さんとお母さんと一緒に遊びたいです。
エリー
それは日記の切れ端だった。
最後の方は、まだ涙のような跡が残っていた。
近くの棚には、酸素濃度や気温の記録装置。
ドア脇には処置時間予定表、備え付けのホワイトボードには消えかけのマーカーで自室安静と書かれていた。予定表の下、白いマグネットで留められた小さなメモに、俺の指が止まる。
今週の面会:キャンセル
理由:発熱のため隔離継続
エリーが、ここに閉じ込められている。
部屋を飾られ、モノは与えられ、それでも外に出る自由だけがない。
それを「贅沢だ」と言えるやつは、たぶんいない。
綺麗に並べられていたゲーム、一切手をつけられていないお菓子。
整いすぎているすべてが、急に息苦しく感じた。
誰かの息遣いすら感じられない空間で、ふと、自分の息が白くなっているのに気づいた。
こんな低温の中に、人間が何日も閉じ込められてるなんて、普通じゃない。
けど、それが普通として成立しているのが、この家なのだ。
「リザ、どうした。応答しろ」
無線からノイズ混じりのニックの声が飛ぶ。
「なんでもない、大丈夫だ」
この扉の向こうに、誰がいるのかは知らない。知らない方がいい。
盗みに同情はタブーなんて、この生き方をすれば嫌でも学ぶことだ。
復讐だ。金持ちだから、コイツらが。
そう自分に言い聞かせないと頭が破裂しそうだった。
妙な感覚が、胸の奥で引っかかっていた。
奪いに来たはずの空間で、何か自分の中の何かを奪われたような気がした。
俺は無意識のうちにその部屋から遠ざかった。
カードを見つけたのは、その部屋の向かいだった。
子ども部屋のような部屋だが、ベッドは使われた形跡がなく、壁の一部に鍵付きの金庫が埋め込まれていた。
ニックが仕入れてきた図面と、俺がここまで目にしたものを重ね合わせていく。
金庫の横に、何気なく挿し込まれていた本。中をめくると、カバーの裏にカードがテープで貼りつけられていた。
火星渡航申請ID登録証
表面には、冷えた目をした少女の顔写真。年齢、十六。俺と同じ。
「…マジかよ」
震える指でカードをつまむ。写真越しに見える彼女の目が、どこまでも遠い場所を見ている気がした。
「リザ、回収できたか!」
無線越しにニックの声。
俺はすぐに応じた。
「……見つけた。すぐ戻る」
「よっしゃ! さっさと出よう。早くしないと夜が明けちゃうぜ」
俺はカードを懐に滑り込ませ、もう一度だけあの扉を振り返った。
光はまだ漏れていた。エリーが、今もそこにいる証のように。
でも、踏み込む理由も権利も、俺にはないはずだった。
こいつは俺の仲間じゃない。
ただの盗人が、心配する筋合いなんてない。
けど、扉の隙間から落ちていたあの紙切れが、まだ指先に残っていた。
お父さんとお母さんと一緒に遊びたいです。
字はか細く、よれよれなのに、自分で書いた文字のように見えた。
ひとまず俺は足を動かした。すばやく、音を立てないように。
「脱出ルート入った、すぐ合流地点に行く」
「OK、門のとこで待ってる。やったなリザ!お前はヒーローだよ」
「うるせぇよ…」
苦笑しながらも、頭の中にあるのはあの光の漏れた部屋のことだった。
門の外、人気のない塀の裏で、ニックがフードを深くかぶって立っていた。
俺はそのまま、何も言わずに彼にカードを差し出す。
「おぉ…!マジで本物じゃん、これ持ち逃げしちゃえば俺ら一生遊んで暮らせるぜ」
「絶対バレるし、バレたら殺されるぞ」
「冗談、冗談だって。マジで!」
俺はタバコを取り出し、吸いかけてやめる。
喉の奥が、煙よりも苦くてむせそうだった。
「なあ、ニック」
俺はぼそりと問う。
「このカードの持ち主、どんな奴だったんだろうな」
「ん?まあ敵だな。下々の民には目もくれず、我先にと火星へ…ってな」
わかってるよ、そんなこと。
紙切れ一枚で、あの寒さの中で生きてるエリーが、俺の脳に刻まれてしまった。
声も知らない誰かが暗闇の中で泣いているのが、その日に見た夢だった。