悪巧みの善い話
俺がこの裏通りに入り浸ってから一年が経とうとしている頃だった。
パーカーに染みついた煙草の匂い、砂嵐に乗って届くスクラップの刺激臭も、もはや日常の一部となっていた。
この日は、やけに朝早くに目が覚めた。特に昨夜よく寝たわけでも、悪夢に魘されたとかでもない。
今となってはこういう、どうでもいいことだけ覚えている。
「よう、リザ今日は早いな」
ニックが目つきの悪い目で話しかけてきた。
「今日もオールかよ、たまにはちゃんと寝たらどうなんだ」
「お前、未だにお坊っちゃん出るよなw」
ニックはいつものように嫌な笑い方をしながら言った。
「るっせ…どうでもいいだろ」
俺は何故か恥ずかしくなって目線を逸らした。
「おいおい、怒らせんなよ〜、今日は大事な仕事があんだからさぁ〜」
この人は此処ら周辺の統治をしている人で、俺らも本名は知らない。
皆がボスって呼んでいるから、俺もそう呼んでる。
ゆったりとした話し方なのに、言葉の圧がニックとは段違いだ。場の空気を揺らすような低音には、ボスの想像もできない経験が感じられた。
「あ、サーセン」
流石のニックもボスの前では薄気味悪い笑顔を無くす。
だが、悪い人ではない。少なくとも俺らにとっては。
社会から外れた俺らにとっての仕事なんてまともなもんじゃない。
人間なのに人間扱いされない肉体労働から、犯罪まで多岐に渡る。
でも此処に住むには、生きるには。なんとかして働かなきゃいけない。そういう立場だ。
「ニック、今日はなんの仕事だ?すぐ終わらせて飲もーぜ」
俺はボスの手前、ちょっと格好つけてそう言った。
「重大案件だぜ、少なくともこれまでの万引き程度じゃ日にならねぇ」
ニックの欠けた歯がキラリと光り、笑っていない目にも光が差したように見えた。
「大金持ちから金を盗むんだ、ボスによるとなぁ火星に行く予定らしいぜ」
俺も、朝っぱらから腹の底のなにかが、ぐつぐつと煮えたぎるのを感じた。
「その話、もっと詳しく聞かせろ」
それまでウザったく感じていた暑さも全く気に留めず、俺はフードの紐を締めた。
「乗ってきたなリザ。相手はあのエデリカ州の中でも一際でっかい豪邸の奴らだ。先日、ジェイスとリンが偵察に行った時に、火星移住の手配のために家を開けるって小耳に挟んだらしい」
「ちょっと待て、そんな大役に俺が?それこそジェイスとかリンの方が優秀だろうが」
俺は想定以上のスケールのデカさに食い気味にそう言った。
「日和んないで最後まで聞いとけよ。とにかくな、その豪邸から盗めれば大儲けだ。火星移住、おそらく家族分。上手くいけば此処らの連中で一ヶ月かかる量を一日で稼げる、そうなりゃお前はヒーローだぜ」
ニックがここまで興奮している様は初めて見たかもしれない。
「いやいや、質問に答えてくれ。なんで俺が選ばれたんだよ。そのヒーロー候補にさ」
俺は引き気味にそう尋ねたら、ニックを見兼ねてボスが教えてくれた。
「ま、それほどの豪邸ってのはな〜、防犯設備もしっかりしてるもんなんだわ〜。そこで色々とイレギュラーなお前が抜擢されたってことだ。優れた防犯機能だってトカゲ人間用になんて作られちゃいね〜。
とにかく、この作戦にお前を選んだのは、そこのニヤけ金髪じゃなくて俺だからな。失望させんなよ〜」
ボスは持ち前の低音で俺に念を押して、そのまま他の奴のとこへ去って行った。
「いやー圧やべぇな、何度聞いても慣れねぇあの声」
ニックが嫌な笑顔を取り戻してそう言った。
「ま、やるしかないよな」
俺は覚悟を決めた。というか決めさせられた。
正直言って、ボスの話は8割嘘だと感じた。ボスからしたら俺は鉄砲玉。ジェイスとかリンなら、なんならニックでも。こんな無理ゲー臭満載の案件で無駄遣いしないと、この一年弱で確信できた。
兎じゃないし、角もないけど、俺には「逃げ」しかない。俺は一層、フードをキツく絞めた。