第六頁 生死
一七三二三年六月六日(日)
大米合衆国・アメリカ州・西地区 森の中
深い森の中。夜は真っ暗で、日中も薄暗い。
前日、戦闘さえ繰り広げ、全速力で相当な距離を走り、さらには水分不足にまで陥ったクウヤであったが、意外にも疲労感はなくスッキリと起きることができた。体を伸ばしながら言う。
「うーーーん、いがいとだいじょうぶだな」
順調に旅が続けられそうだと感じた。
部屋を出て、ダイニング——と言えるかはさておき——へと移動すると、好々爺は朝食の準備をしていた。
彼はクウヤに気づいて話しかけた。
「おはよう、少年。昨晩はよく眠れたかな?」
「おはようございます。ぐっすりでした」
「それは良かった。もうすぐ朝食の準備が終わる。座って待っていてくれ」
言われた通り席に着く。
その後、すぐに好々爺が朝食のサンドイッチを持って来て席に着いた。
薄暗い部屋にランプの灯が点されている。
昨夜もこの灯りで夕飯を食べた。
食事は好々爺が昨日下げていたレジ袋の中の食材を使用し作った。作ると言うよりも盛り付けると言った方が適切かもしれない。
食品を加工しないのには理由があった。しないのではなくできないのである。技術的な意味ではなく環境的な問題だ。
この家には生活に必要なインフラが全く通っていない。それだけでなくちょっとした収納スペースとダイニングテーブル、椅子以外の家具・家電がない。好々爺曰く、作業用に購入した土地・物件で居住目的はないのだそう。
したがって食事は用意した物をそのまま、あるいは何種類かを組み合わせたり混ぜたりした物を食べるしかない。
トイレに関しては携帯トイレを使う。
浴槽がないため入浴もできない。
そもそも水道が通っていないのだ。
作業用の家屋とは言っても水道ぐらい通すべきではと言う意見は真っ当な気もする。
しかしそんなことを言っても仕方がない。
とにかくここで過ごすためにはどこかで水を調達しなければならない。
つまり昨日の両手いっぱいのレジ袋はそういうことだったのである。
周到な用意が必要な使い勝手の悪い場所だが、一日くらいの我慢なら余裕だ。
クウヤは昨晩よりも気持ち明るいダイニングで朝食をとった。
食べ終わって少し休憩した後クウヤは出発することにした。
「きのうときょう、ありがとうございました。オレ、そろそろ行きます」
「気をつけていくんだぞ。少年。また水がなくなると大変だからな」
「あはは……」
好々爺の言葉にクウヤは苦笑いする事しかできなかった。
「リュックに入る分だけ持っていくといい」
好々爺は水の入ったペットボトルを複数本差し出した。
クウヤはリュックの口を開けた。
そのリュックの中を見て好々爺が心配した。
「ずいぶんスカスカだな。大丈夫か?」
「あんまりもってくと重いし、とちゅうで買おうかなって」
「旅を軽く見ない方がいいぞ」
「はい。めっちゃかんじてます。って、おじさん旅したことあるんですか?」
「旅というよりは流浪だな」
「ルロウ?」
「行く当てもなくぶらぶらすることだ」
「ふ〜ん?」
「そんな事はいいからしっかり準備しなさい」
「あぁ、はい!」
昨日、今日の出来事だけで十分に反省できる。
結局五〇〇ミリリットルの水入りペットボトル八本と二リットルの水入りペットボトル、さらにクウヤが持参した水筒にも水を入れてもらった。さらにさらに本日の昼食としておにぎり二つまで恵んでもらった。五〇〇は全てリュックに、二リットルを左手に、おにぎりの入った袋を右手に持ち、クウヤは玄関のドアを開けた。
その瞬間、あることを思い出した。
「そういえば、オレ、おじさんの名前知らないや。なんていうんですか?」
「名乗るほどのものではない。これから旅立っていく人間がそんな細かいことを気にするんじゃない。ただのしがない老人だよ」
「でも、めっちゃ助けてもらったし……」
「未来ある少年少女に救いの手を差し伸べるのが年寄りの役目だ。感謝されるだけで十分嬉しいさ。これが最後の人助けかもしれないからな。ハッハッハ……」
「いや、おじさん、それ笑えないやつ」
「いつ死んでもおかしくない歳だ。気を遣わず、笑ってくれていいんだよ」
そんなことを言われても笑えるわけがない。
「おじさん、まだまだ元気だし、そんなにすぐには死なないと思うけどな」
「少年、君も歳をとれば分かる。人生というのは何が起こってもおかしくない。不意に不幸が訪れたり、急に物事がうまくいかなくなったり、反対に突然歯車が噛み合うこともある」
クウヤは絶句してしまった。唐突に深い話が始まって脳の処理が追いつかなかった。反応を見て好々爺は話題を転換した。
「それはそうと、外国に行く予定はあるのか?」
「はい、外国には行けるなら行ってみたいです」
「そうか。実は私の本当の家はこの国にはなくてだな。もしかしたら外国でバッタリ会うこともあるかもしれない。再び会うことがあれば、運命の導きだと思って名乗ることにしよう」
「えぇ〜!じゃあ、おじさんが言わないならオレが、クウヤ・インディュラです!オレの名前」
一瞬、好々爺の眉がピクリと動いた。
「ほおぅ。珍しい名前だな。インディュラ……覚えておくとしよう」
神妙な面持ちでこう言った後、表情を崩して笑いながら続けた。
「まぁ、忘れようと思ってもあんなに必死に助けてくれと言ってきた人間の顔を忘れるわけがないな。名前もわかっていたら尚更だ」
「めっちゃイジるじゃないですか」
クウヤは顔を顰めて言った。
「ハハハ、それは君がとても面白い人物だからだ。私を楽しませてくれる」
「ほめてます?それ?」
「褒めているとも、誇りに思っていい」
「えぇっ!そ、そうっすか⁉︎」
「ハハハハハハハ……そうだ、それでいい」
「わかりました!オレもおじさんのことわすれません!ぜったい、もう一回見つけて名まえ聞き出します!」
「目標があることはいいことだが、私と会うことを目標にしない方がいい。私はいつ死んでもおかしくないからな!」
「だからやめてくださいって。ぜんぜん笑えないから!」
「ハハハハハ」
好々爺はご機嫌だ。
「じゃあ、オレ行きます!」
「うむ、健闘を祈る」
クウヤは頷き、そして歩き出した。歩みながら振り返って最後の言葉をかけた。
「おじさんも気をつけて!長生きしてくださいね!」
「心配してもらってすまないな。私も帰る際には十分に注意を払うことにしよう。さらばだ、少年」
好々爺は手を振って見送ってくれた。
クウヤを見送った後、好々爺は家の中に入ろうとした。その直前、人が近づいてくる気配を感じた。
先ほどまで一緒に過ごしていた少年が戻ってきたわけではない。
振り返って顔を見る。そしてこう言った。
「グッドタイミングというかバッドタイミングというか。あと数秒早かったらもう少しおもしろかったんだが……まぁ、それはいい。入りたまえ」
好々爺は客人を招き入れた。
旅の二日目、大きな事件・事故はなく、少しばかりひもじい思いをしながらも、その日は眠りについた。
もちろん、野宿である。
一度野宿を経験すると天井、床、壁。普段は気にもしなかったもの一つ一つが恋しくなってくる。寝る場所というのは思った以上に大切なのだと感じた。
三日目以降もクウヤは薄暗い森を歩き続けた。
歩く中で旅の過酷さを思い知らされた。
旅の初日、屋根のある場所で飲み食いができ、寝泊まりできたあの日が天国のように思えた。
森の中での主な食料はその辺に生えている草やきのこあるいは木の実である。明らかに食べたらまずそうなものは避けて食べたため、体調不良に悩まされることはなかった。
ときどき野生動物を見かけたこともあった。
一番最初に見たのは野生のウサギだった。飢えていたクウヤはそのウサギを簡単に生け捕りにした。狩猟本能が疼いたからだろうか。初体験とは思えない手つきだった。
生きるとは、生物の本来の営みとは、こういうことなのだと実感した。
しかし命を頂戴して、眼前のそれを喰ってしまうことを想像するとどうしても躊躇してしまった。
目の前に立派な食料がある。手に届くところに、いや、既に自分の手の中にあるのに、何かが邪魔をする。物理的なものではなかった。
自分と目の前の動物、互いの生死を天秤にかけてしまう。
自分が生きるためにウサギに犠牲になって頂くか、小動物の尊い命を守り自らを死の淵へと追い込んでいくか。
生きるためにはもちろん前者を選択するより他はない。そんなことは悩む必要もないほどに明々白々である。
今ここでウサギを殺せば彼はほぼ確実に生きることができる。
しかしウサギを見逃したとしてもそのウサギが平穏無事にその兎生を終えることは確約されない。最悪、自分自身の命をも危険に晒すことになる。
普段本気を出さない脳みそがみるみる回転数を上げていく。
何度も命を奪おうとした。肉を食べたかった。
欲望を満たすことを考えると萎えてくる。
考え方を変えた。
殺すのは自分が生きるためなのだ。何の問題もない。普通のことだ。野生動物はみんなやっているじゃないか。
自分の行いを正当化する。よし、やろう。
——そう思って手をかけようとしては、手が止まる。命という言葉が脳内を埋め尽くす。言葉の圧力に心が押しつぶされそうになる。
一回考え始まると止まらない。ギンギンに頭が冴えてしまう。ウサギ、自分、生、死、肉、空腹、自然、理。彼の知覚から得られる全ての情報が脳を活性化させる。
この頭の回転を日常に活かせたらどれほど素晴らしかっただろうか。ブレーキが効かないのでその場に関係ないことを考えて一旦心を落ち着かせる。
しかしウサギが暴れ出すと再び野生の本能が顔を出す。欲求を満たすために再び命を奪おうとする。
——しかしできない。
これが延々と繰り返される。
神経系の指令と運動器官との間の齟齬に悩まされる。深く重たいジレンマを抱え、本能と理性の狭間で葛藤し続ける。
食べたい。その気持ちは紛れもない真実である。
でも……。
やれなきゃ自分が死ぬ。そんなことは分かっている。
でも……。
結局、捕ったウサギはそのまま逃してしまった。彼は非情になりきれなかった。
元気に走っていくウサギの後ろ姿を見てホッとし、しかしそれと同時に強い後悔も湧いた。
それ以降野生動物と遭遇した際、どうしてもあのウサギの姿を思い出してしまう。
必死に生きようと踠いていた。短い手足をバタバタさせ、必死に抵抗していた。つぶらな可愛らしい瞳の中に生きる意志を力強く感じた。死んでたまるか。そんな声が聞こえてくる気さえした。
あのウサギの姿が鮮明に蘇る。
動物を見る度に狩猟本能と摂食中枢が刺激される。 しかしすぐに思いとどまってしまう。
最終的に旅が終わるその時まで彼が自分で動物を狩ることは一度もなかった。
森の中で初日に泊まった建物以外の他の建物を発見することはできなかった。
夜が来るたびに寝やすい場所を探して体を横たえた。
夜はクウヤの想定以上に冷えた。タオルを持ってきていたため、ある程度寒さを防ぐことはできたが、寝袋を持っていればよかったと何度も悔いた。
もらった水は節約しながらも、着実に消費していた。リュックが軽くなっていくごとに初日のトラウマがより強く思い出されるようになった。
自信と希望に満ちてスタートした旅は日を増すごとに不安と恐怖に支配されていった。
腹が減ったら安全そうな植物を探す。真暗になったら安全そうな場所で眠る。明るくなったら起きて歩き出す。そんなルーティーンの日々。
日を追うごとに体に疲労が蓄積されていくのを感じた。休みたい。だがそれよりもここから早く抜け出したかった。
この森もいつかは途切れる。
そう信じて旅人は歩き続けた。
次回 躁鬱