第三頁 出発
一七三二三年六月五日(土)
大米合衆国・アメリカ州・西地区 トアル村
クウヤは目覚まし時計の音で目を覚ました。
いつもより目覚めがかなり良い。
体も起こして窓から外を確認するとよく晴れた空が拝めた。
目覚めの洗顔。いつもより注意深く自分の顔とにらめっこする。いつもと変わらない表情。いや、普段はもう少し寝ぼけた顔をしていたかもしれない。
洗顔を済ませた後は朝食。いつもどおりのシリアル。普段と変わらない朝の風景。クウヤがダイニングに座り、伯母は家事をこなす。唯一違うのは時計の表示。現在時刻は五時十二分。これまでと比べて二時間早い起床だった。
クウヤは家事をする伯母を眺めてみたが、別段変わった様子はない。さらにあたりを見回す。叔父の姿がない。今日が土曜日だからだろうか。あるいは昨日帰りが遅かったからだろうか。まだ起きている様子はない。
朝食を手短に済ませ、朝の支度を済ませるとクウヤは一度自室に戻った。真剣な顔つきで一枚の写真を見る。
写真には三人の人物が写っていた。微笑んでいる成人女性、仏頂面の成人男性、そして女性に抱かれた赤ん坊。女性の顔はクウヤや伯母とよく似ている。
二人の成人は何故か縦並びで、手前に女性、奥に男性が写っている。
写真の画角から推測するにこの女性が自撮りしたものなのだろう。
ここまでの説明ならば平和な家族写真のように思える。しかしこの写真には誰が見ても疑問に思う点が一つあった。写真の右下部、およそ四分の一ほどが欠損している。故意に破られているのだ。男性の胸あたりから下が見えなくなっている。そしてちょうどそのあたりに長そうな髪の毛が見切れている。写真の男性のものではない。もちろん撮り主の女性のものでも抱かれた赤ん坊のものでもない。明らかにもう一人誰かが欠損部に収まっていた形跡があるのだ。髪が靡いているので女性だろうか。
憶測でしか語ることができない。
そんな訳あり写真に向かい、祈るようにしてクウヤは手を合わせた。しばらく祈った。
「父ちゃん、母ちゃん、いってきます」
そう呟くと、前日準備していたリュックを持って玄関へと駆けて行った。
玄関で前日に伯母からもらったランニングシューズを履く。両足にジャストフィットだった。履き心地も申し分ない。想像以上の良い靴に彼は顔が綻んだ。
出立の挨拶をしようと振り返った時、彼は叔父の姿を確認した。
「わっ!びっくりした〜」
思わず声を出して驚いてしまった。
「あぁ、悪い。驚かせるつもりはなかった」
叔父の第一声は謝罪の言葉だった。
「クウヤ、昨日はごめんな。一緒に晩飯食えなくて」
第二声も謝罪だった。
「べつにいいよ。ちょっとさみしかったけど」
「そうか」
「見送ってくんないのかと思ってたよ」
「そんなわけないだろ。十年以上育ててきた甥っ子が旅に出るっていうのに、出発直前に見送らない保護者がどこにいるんだ?」
真剣な顔で答えた。
「おじさん。あの〜、じょーだんだから」
「おっ、そうか」
叔父は伯母と違い冗談が通じない。真面目な人なのだ。叔父は村の長に任ぜられているような人だった。
「クウヤ、これ」
突然叔父が封筒を渡してきた。
「ありがとう。何入ってんの?」
「百万円」
「ふーん。百ま……百万円⁉︎」
「お前のお小遣いだけじゃどう考えても足りないだろう?」
「えっ、たんないの?」
叔父は少しの間沈黙してしまった。どう答えたらいいか分からなかったのだ。
そしてため息をつきながらこう言った。
「はあ、心配だなぁ……とりあえず持っとけ。持ってて損はない。肌身離さず持っとくんだぞ!」
叔父はかなり強く念押した。
クウヤはその言葉に頷き、もう一度感謝の言葉を述べた。
そこに伯母もやって来た。
「二人で何話してたの?」
「ふつうの話だよ」
クウヤが答えた。
「普通の話ね〜」
伯母は若干ニヤついていた。
「クウヤ」
伯母の話を遮るように叔父が呼びかけた。
「気をつけて」
それに伯母も同調した。
「そうね。気をつけて。嫌になったら帰っておいで。いつでも待ってるから」
「わかった。あの、さー……二人ともありがとう。今まで育ててくれて。いつになるかわかんないけど必ず帰ってくる!」
突然のセリフに夫婦は驚いた様子だった。
その後すぐに笑顔になって頷いた。
「あんたもそんなこと言えるようになったのね〜」
伯母が茶化す。
クウヤは苦笑いを浮かべる他なかった。
「それじゃあ、いってきます‼︎」
リュックを持ってから、小学生のように元気よくそう言うと昨日とは打って変わってドアの重さを噛み締めるようにゆっくり開けて外に出て、そのまま歩き出した。
「行ってらっしゃい!」
夫婦のユニゾンがクウヤの耳にも届いた。その直後
「死なないでねー!」
伯母の不吉な一言が聞こえてしまった。
「えんぎでもないこと言うな!」
クウヤは思わず振り返ってツッコんだ。その勢いは踵を返してもおかしくないほどだった。
叔父は目を見開いて伯母を見ている。伯母は爆笑しながら手を頭の上で大きく振っている。クウヤも手を振り返してもう一度「いってきます」を言い、前を向いて歩を進めた。
夫婦は甥っ子の姿が見えなくなるまで玄関から離れなかった。伯母に至っては始終大きく手を振り続けていた。ツッコミを最後にクウヤが振り返ることはなかった。
「本当に行っちゃったな。兄貴ならこんな時なんて言っただろうな?」
叔父のこの言葉には幾許か寂寥感が漂っていた。
「何も言わないんじゃない?あんな不器用な人が別れ際に言葉なんてさ……」
「そうかもな」
甥の姿が見えなくなり叔父は家の中へと戻っていった。
伯母は空を見上げた。
「見てる?あんたの息子はいつの間にかこんなに大きくなったよ。あんたにも見せてやりかった。本当は自分で育てたかったんだろうけど。教育の仕方こんな感じで良かった?アスカ……」
快晴の空に向かって問いかけた伯母の目には涙が浮かんでいた。
問いに対する返答はない。代わりに爽やかな薫風が木々を通して返事をしている。偶然にもクウヤの背中を押す方向へ風は流れていた。
彼の健闘を祈ると言わんばかりに鶏が鳴き始めた。
午前六時。
「気をつけてね」
そう呟くと伯母も家の中へと戻り、玄関の扉をゆっくり閉めた。
家を出たクウヤは村境まで歩いていた。境界を跨ぎ、振り返って、故郷の景色を目に入れる。
懐かしい記憶がゆっくり脳内に流れこむ。家族のこと、友達のこと、楽しかったこと、嬉しかったこと、辛かったこと、怒られたこと、痛かったこと、傷ついたこと、悲しかったこと、衝撃的だったこと……長いようで短かった十七年間の生活。良い記憶よりも悪い記憶の方が鮮明に思い出されるのが少し残念だ。次々溢れてくる思い出をしみじみと噛み締める。
気がつくと思い出に浸り始めてからそこそこ時間がたっていた。これ以上ここにいるとノスタルジアが邪魔をして離れられなくなりそうだったので歩き出そうとした、その時だった。何かが聞こえた気がした。何度か首を横に振る。
誰もいない。
一応後ろも確認してみる。
誰もいない。
クウヤの頭上にはにはてなが浮かんだ。
「気のせい……か?」
村から離れない言い訳を考えているつもりはなかったが、いざとなるとそういう気持ちが無意識に出てしまっていたのかもしれない。
そんな気持ちを振り切ろうと犬のように体を震わせた。
ヨシっと覚悟を決めて歩き出そうとすると何か聞こえた。かなり朧気だったが、少なくとも気のせいではない。
「……って〜〜」
人間の女のものと思われる声。発声源はずいぶん遠くだ。
耳を澄ます。また聞こえてくるかは分からないが音に集中する。
十秒くらい待って再び聞こえた。今度ははっきりと。
「クウヤ〜〜!…………待って〜〜!」
姿は見えない。だがクウヤにはその声の主に心当たりがあった。その人物の名を呼んでみる。
「スカーレッド〜!」
「クウヤ〜!そこで待ってて〜!」
すぐに返事が返ってきた。
「わかった〜!まってる〜!」
言われたとおり待ってみた。
数秒で影が見えてきた。
近づいてくる影を見ている間、どんだけでかい声で叫んでたんだ、と思ってしまった。
彼女が大声を出すイメージがクウヤには湧かない。彼女のイメージ。
「清楚」「華奢」「優秀」
どうしても大声と結びつく単語を連想することができないのだ。
やがて姿をはっきりと目視できるようになった。ものすごい速さで近づいてくる。
気付くと目の前にいた。
「うわっ。おまえ、足めっちゃ速いな。ってか、なんでここってわかったんだ?」
思わず心の声が漏れた。
彼女はすぐには返事をしなかった、というよりできなかった。かなり息を切らしている。
数秒肩で息をした後、息を整えながらながら言った。
「はぁ……はぁ……ウッ…はぁ、そういう、ふぅ…んっ、クウヤの、方が……速いでしょ。はぁ……はぁ……場所、が、分かったのは……はぁ……だいたい、こっち、の方って、聞いたから。はぁ……あとは……勘?かな……こっち、の方に……いそうだと……はぁ……はぁ……思って。はぁ……はぁ……はぁ……っていうか……そんなに、しゃべらせ、ないで。はぁ……キツイ……」
立ったまま膝に手を置き、肩で息をしながらなんとか答えたという感じだった。彼女のこんな姿も見たことがない。
クウヤはリスニングに自信がなかったが聞こえたままの言葉をなんとか噛み砕いて返答した。
「あぁ、それはゴメン。でもおまえのかんすごいな!まぁ、かんでばしょわかっても足早くなきゃおいつかなかったんじゃね?」
スカーレッドは衛星中継のような間ののち、息を切らして答える。
「はぁ、お褒め頂き、誠に、光栄で御座いますぅ。はぁ、はぁ」
不貞腐れた口調だった。
スカーレッドから何も咎められなかった。
どうやらリスニングは成功していたのだと、クウヤは内心ホッとした。
スカーレッドの息も徐々に整ってきた。
「で!はぁ」
スカーレッドが急に大きな声で話し始めた。若干怒っているようだ。
「そんなことはぁ、どうでもよくて。はぁ、ん、なんで、出発時間、教えてくれなかったの?はぁ」
「いや、聞かれなかったから」
「確かに聞いてないけど!朝早いなら、それくらい、言ってくれても、よかったじゃん。いつも、登校時間、遅刻ギリギリだったのに。こんな早く、出発すると思わないじゃん!」
もう息はほとんど切れていない。
「えっ、オレが悪いの?」
「そう言ってんの!」
被せるように言った。スカーレッドは言いたいことを続けた。
「さっきクウヤん家行ったら、おばさんが『クウヤならもう行っちゃったよー』って言うから、はぁっ?て思って。この時間だったら絶対居ると思って行ったのに。朝早くから申し訳ないな〜とか思いながらさ。でもこういう時に限って居ないんだもん。黙って行くとかほんと信じらんない!」
もうスカーレッドの息は切れていない。
あまりの剣幕にクウヤは黙ることしかできなかった。すかさずスカーレッドが要求を出した。
「ごめんなさいは?」
「ごめんなさい」
言われるがまま可及的心を込めて謝罪した。
「いいよー、許す」
彼女はにっこり笑いながら返した。歯並びもとても綺麗だ。彼女に弱点といえるものは存在するのだろうか。
クウヤが文字通りの意味で目を細め、口を「い」の形にしてボソリと言う。
「なんだよ、グチ言いにきたのかよ」
「なんか言った?」
スカーレッドには聞こえていなかったようだ。
(セーフ)
「いや、何も」
そう答えるしかなかった。スカーレッドはふーん、と空返事をした後話題を転換した。
「で、そうそう、渡したいものがあるの。そっちが本題。これ」
クウヤには気になっていることがあった。
スカーレッドの姿を認識すると同時に、彼女が背中に細長い何かを背負っているのに気づいた。渡したいものと言われ、多分それだろうと思った。
結果、その通りであった。
スカーレッドは背負っていたものを降ろし、縦に背負われていたそれを横にして両手で差し出した。
クウヤはそれがなんなのかすぐに分かった。手に取らなくても、よく見なくても分かる。
「剣だよな」
「うん」
返事を聞いてからクウヤは剣を手に取った。
その瞬間、彼は拍子抜けしてしまった。
「うわっ、軽っ!」
普通の人なら餞別が剣だということに驚くだろう。クウヤがそこに疑問を持たなかったのはスカーレッドの父親が鍛冶だと知っていたからである。自ら刀剣を作って、売って生計を立てているそうだ。この時代に誰が剣を買っているのかクウヤはとても気になっていた。それをスカーレッド父に問うと、いつもはぐらかされる。この疑問は現状彼が抱える最大の未解決問題である。
「アルミ製なだけでちゃんとした剣だから。試作品だけど」
スカーレッドは剣の簡単な説明をした。
クウヤは抜剣し、鋒から柄頭まで舐めるように見た。ゆっくりと眼球を横に一往復させる。
終えて一言。
「剣だな!」
「でしょ!」
スカーレッドはにっこり笑ってクウヤの顔を覗き込んだ。
覗き込んだクウヤの顔はどこか不思議そうであった。変なところがあったか彼女が聞くと真剣な顔でこう答えた。
「あるみってなんだ?」
「聞いて損した」
呆れて答える気にもならなかった。
「あるみはよくわかんねぇけど、いい剣だな。持った感じでわかる」
「ホント⁉︎よかった〜。で!も!いい剣だからって無闇に使っちゃダメだよ。あくまで護身用だからね」
「おぅ。なぁ、これおまえが作ったのか?」
「そう、私が打ったの。結構昔のやつなんだけど、その中でも渡しても大丈夫そうなやつ持ってきたんだ。喜んでくれたみたいだからよかった」
「マジか。すげぇな。大切に使うよ」
「人の話聞いてた?あんまり使わないでって。大切にしてくれるのは嬉しいけどさ……。わかった、『護身用』がわからないんでしょ。もう。自分の身を守るため、ね」
スカーレッドは不機嫌な顔をしながらも丁寧に説明する。
「あっ、そうか。はははー」
クウヤは愛想笑いをした。護身用という単語もわからなかったが、本当に話を聞いていなかったとは流石に言えなかった。
「ねえ、クウヤ」
真剣な顔をしてスカーレッドが呼びかけた。そのまま続ける。
「絶対、無事に帰ってきてね。待ってるから」
「おう、何年かかるかわかんねーけど必ずもどるよ」
言い終わった後に歯を剥き出しにして笑った。それを見てスカーレッドも笑った。
「行ってらっしゃい!」
「いってきます!」
クウヤは渡された剣を背負い、回れ右して森の奥へと歩いていつた。
後ろから声が聞こえる。
「本当に気を付けてねぇー!」
クウヤは振り返らず、左手を挙げて答えた。その際、手を二、三度横にチョコンと振った。
少女は遠ざかる同級生の後ろ姿を目で追う。完全に見えなくなってもしばらくは彼が歩いて行った方向を見つめていた。
「クウヤが無事に帰ってきますように」
両目を瞑り、指を組んで祈った。
祈りを終えると、少女はやり切った顔で来た道をゆっくり引き返した。
次回 前途多難