第十八頁 混沌
運命のレースがまもなく始まろうとしている。
協力者は既に確保済みである。数多のギャンブラーの中から最も信用できそうな人間を選り抜いた。
二人は一日中オッズの変動を監視していた。朝から一頭だけ変わらずずばぬけて高い馬がいた。
十番、テイヘンオウ。その倍率二百二倍。
コイツだ、と二人は思った。単勝万馬券。賭けない手はない。
馬券購入の時、迷わず十番、単勝、一千四百八十一万を選択しようとした。
しかし障害は突然現れる。
「えっ⁈君達、テイヘンオウに賭けるの?勝つ気ないんじゃ俺は買わないよ!」
協力者だ。
「勝つ気がない訳ないじゃないですか!俺たちは本気ですよ!」
「ぜったいあたるじしんがあります!」
クウヤもビゼーも本気をアピールする。
しかし協力者は靡かない。
「君達は初心者だから知らないだろうけどね。アレは雑魚馬だよ!とにかくひどい。何回も騎手が落馬してるし、現役三年間で一度も優勝してない。それどころか三着以内に入ったことすらない。アレに予想するってことは競馬を侮辱するのと同じだよ!」
話を聞く限りではテイヘンオウという馬はとんでもないじゃじゃ馬らしい。
常識のある競馬人であればまず選択しない馬なのだ。
しかし彼らにも事情がある。そんなことで予想を変える気などない。
「俺たちはこの馬を本気で信じてるんです!」
ビゼーも折れない。
クウヤも首を大きく縦に振って同調した。
「勘弁してくれよ!分かった!配当が高い馬を狙ってるんだろ。だったらまだこっちの方が勝つ可能性はあるよ」
そう言って薦めたのは九番人気——下から二番人気——の九番、ブービーダービーという馬だった。
「ま、こっちもカスだけどね」
「あんたさ、さっきから馬にむかってザコとかカスとか、なにさまなんだよ!」
ビゼーは仰天した。
クウヤが本気で怒っている。
朝、ビゼーに対して怒ったのとはまるで別物の怒りだ。憤怒、憎悪、軽蔑。怒り系統の感情が綯い交ぜになって、滾ってしまっている。
その挙措にビゼーは気圧されてしまった。
協力者も何かを感じたのかヒッ、と情けない叫びをあげた。続けて喋る。その声は酷く震え、動揺していた。
「お、おおおおい。お、俺が、い、今から、せっかく、か、買ってやろうと、してるのに、なんて言い草だ!そんな言い方するんじゃもう買わないからな!」
(それはマズい!)
ビゼーは思った。
脳をフル回転させ交渉を始めようとした。
「あぁ……」
その前にクウヤが何か言おうとしている。
ビゼーは咄嗟にクウヤの口を塞いで、非礼を詫びた。
「すみません!コイツ、ピュアだから冗談が通じなかったんですよ。俺たちも争いたい訳じゃないんです。だからと言って譲る気もありません。予想はこのままでいかせてもらいます。代わりと言ってはなんですが、万が一外れた時の謝礼をそちらで決めてください。如何ですか?」
協力者は熟考した。
長ーい沈黙が訪れる。もちろんこの間も時間は流れている。
もうすぐ馬券購入の締め切り時刻になってしまう。時間がない。ビゼーは焦っていた。
(謝礼の内容もこっちで考えとくべきだったか?)
後悔した。
ここでビゼーは隣でんーんー、うーうー唸る声が聞こえることに気付いた。
見てみると、クウヤの口を塞ぎっぱなしであった。
すぐに離して謝った。
「し、死ぬかと思ったー」
ゼーゼーしながらクウヤは言う。
そんなことをしていると協力者の声が聞こえてきた。
「一千万。一千万でどうだ」
ほぼ脅迫である。しかし逃げるという選択肢をとれるほどの時間的余裕がない。
「分かりました」
答えを聞くと、協力者は嫌そうに二人の馬券を購入した。
「こんな大金注ぎ込んで!後で泣いても知らないからな!ち・な・み・に・俺は三、五馬連にした!どっちかが勝つのは間違いないからな」
三番はダントツトツプ、五番はコーナーデサスと言う名の馬だった。両馬共に優勝回数が多く、名馬として知られているらしい。
堅実な予想である。
ビゼーは考えた。ここで自分たちの選んだ馬が一着になれば自分自身の魔力の完璧な証明になるのではないか、と。
世間に誇れるわけではないが、自分の魔力を把握できるのは彼にとって大きなメリットである——そのためのリスクが大きすぎる気もするが——。
色々な意味で負けられないレースだ。
いざ、レースが始まる。スタートの瞬間を固唾を飲んで見守る。
——ゲートが開いた。
飛び出したのはダントツトツプ。二番手にコーナーデサス。
下馬評通りの好スタートである。
二人の予想したテイヘンオウは出だしから遅れ、最下位でのスタートとなった。
第一コーナー、二頭による激しい先頭争いが繰り広げられている。内側を走るダントツトツプが少し優勢か。しかしコーナーデサスも負けじと喰らいつく。
コーナーから直線に差し掛かろうというところ、一瞬の隙をついてコーナーデサスが先頭に立った。しかしハナ差。まだまだ勝負は分からない。
三番手以降の馬たちは二頭に大きく離され、集団走。さらにその後方に二頭。ブービーダービーとテイヘンオウだ。
その後、先頭争いは直線でダントツトツプが抜き返した。
熱い戦いだ。
第二コーナーへと場を移しても二頭の戦いは止まらない。コーナーデサスが再び先頭へ返り咲いた。
ダントツトツプよりも内側を走り、着々と差をつけていく。
他の馬ははるか後方。どの馬が三番手でゴールするか、そちらにも注目していきたいレース展開になってきた。
ここまでのレース展開を観て、クウヤ、ビゼー、協力者の三人は言葉を交わす。
「ほら、俺の言った通りだろう。やっぱりワンツーはダントツトツプとコーナーデサスだ。ゴミウマなんかあんなに後ろの方にいるじゃないか!馬連当ててさらに一千万なんて最高だな〜!」
皮肉がたっぷり効いている。もはやすでに当てた気であり、高みの見物である。
協力者の発言に渾身の睨みを利かせていたクウヤを宥めて、ビゼーが言う。
「勝負は最後まで分かりませんよ」
「分かるよ!見えてないのか!先頭の後ろ。あんなに離されてるんだぞ!あそこまで行ったら優勝狙いじゃなくて三着争いだ!あれを除いて」
「あれ」を指差す。その先には熾烈な最下位争いを繰り広げる二頭の姿があった。
「あれを見てまだ勝てるとか言うのか?なぁ?」
「まだレースを放棄したわけじゃない。一生懸命走ってる。だから勝つ可能性はゼロじゃない」
「バカか!ゼロだよ!ゼロ!あの距離を捲れるわけないだろ!あの万年負け馬が!」
「とりあえず最後まで観ましょうよ。まだ先頭すらゴールしてないですし」
「負けを認めろよ!いつまで余裕こいてるつもりだ!この会場にいる全員がダントツトツプとコーナーデサスを応援してんだよ!お前ら以外はさ!お前らが空気壊してんのが分かんないのか!あ〜あ、さっさと謝れば許してやろうと思ったのに」
かなりお怒りだ。文の一つ一つから憤りを感じる。
対照的に冷めた口調でビゼーは皮肉った。
「そういうこと言う人は大概謝っても許してくれないんですよ」
この言葉に対して協力者は何も返さなかった。
会話は止まり、三人は再びレースに集中した。
このレース、誰もがダントツトツプとコーナーデサスのワンツーフィニッシュを確信していた。
三連単及び三連複の購入者は三位争いを繰り広げる馬に対して怒号に近い声援を送っていた。反対にそれ以外の購入者はレース中番にも関わらず歓喜していた。
祈っているのは誇張なしでクウヤのみであった。
祈るクウヤの横でビゼーがどっしり構え、レースを望む。彼は絶対的自信で満ち溢れていていた。
目を戻すと馬らは最終コーナーへ差し掛かろうとしていた。
最終コーナーへと続く直線。大きな順位変動は起こっていない。 しかし下位二頭は三位集団に徐々に迫っていた。
独走状態の先頭二頭が最終コーナーに入った時、劇的なドラマが開演した。
三位集団の六頭中四頭の馬が次々と転倒していった。
最下位二頭は加速していたこともあり、現場横を颯爽と駆け抜けた。テイヘンオウは一気に六位まで順位を上げた。
爾後分かったことであるが、事故前五位につけていた馬がバランスを崩して転倒し、後続も巻き込まれ、雪崩事故を起こしてしまったらしい。
場内はこれを機に混沌に飲み込まれた。負の感情を帯びた言葉があちこちで谺する。中傷の怒声が熱い声援を掻き消し始めた。
汚い言葉を無数に浴びながらも競走馬らは走り続ける。
勢いを増したテイヘンオウとブービーダービーは続け様に残りの三位集団も追い抜いた。テイヘンオウは四位で最終コーナーを曲がっていく。
その頃先頭は最後の直線を走っていた。
暫定三位のブービーダービーとも差はかなりある。このまま行けば二頭のワンツーフィニッシュは決定的。のはずだった。
ゴールまで残り五十メートルを切ったところ。先頭に立っていたコーナーデサスが突然棹立ちしてしまった。それに起因して騎手が落馬した。
場内がどよめいた。
しかし一番驚いたのは真後ろに位置していたダントツトツプだった。悲鳴のような嗎を上げて大失速。その場でパニックに陥り、暴れ出してしまった。
先頭のハプニングをコーナーから捉えていたた三位集団四頭は激走する。停止した二頭を目掛けて猛追した。
暴れ狂う二頭を横目に通過して行く。
レースは完全にひっくり返った。
ゴール直前、テイヘンオウとブービーダービーは一段ギアを上げた。
スタートダッシュに失敗した二頭のデッドヒート。
最後にハナ差抜け出し、混沌極まるレースを制したのはテイヘンオウだった。
次回 金縛