静かな湖畔の森の陰から
「おい、元平民!私はお前の正直なところだけは買っていたつもりだ。なのにウソをつくなんて…」
ーあーうるさい。
さっきからボードに乗ったことがあると嘘を言った(正確には前世で乗ったことがあるのでウソではないのだが)事を延々とリュークリオンに攻め続けられていて、ミナミはいい加減うんざりしていた。
「だいたいお前は…」
「さっ、もっとスピード上げて行きますよ~!ほら、リュークリオン様も!漕いで!」
そう言って、ミナミが軽快にボートを漕ぎだす。
初めてとは思えぬオールさばきに、リュークリオンはさっきの言葉が本当にウソではないのかも知れないと思われてきた。
「…初めてではないのか。…しかし、だったらどこで乗ったのだ?ランクレッド家の避暑地ではないのだろう?」
ミナミは少し考えたが、何も思い浮かばなかった。
「ふふっ、リュークリオン様の知らない、遠い所でですよ」
ウソは言っていない。
しかし、当然ながらリュークリオンは納得いかないような表情を浮かべた。
リュークリオンの事は放っておいて、ミナミが周りを見渡すと、そこには湖畔のの爽やかな景色が広がっていた。
「うわぁ、きれい」
木々から漏れる光に、思わずミナミは目を細める。
水面もきらきらと揺れている。
「ああ…きれいだ」
「やっぱり?何度も見た事あるリュークリオン様でもそう思うの?」
まさか、リュークリオンが返してくれるとは思わなかったミナミは興奮気味に、リュークリオンを振り返った。
だが、リュークリオンは「ああ…まあな」とそっけなく返し、横を向いてしまった。
ー少しぐらい、こっちを向いてくれてもいいのに。
リュークリオンがミナミの方を向くときはミナミに文句がある時だけだった。
ーせっかく、二人きりなのにさ…。
そこで、ふと、ミナミは思い出した。
「ああっ!」
「馬鹿か!お前は!突然立つなんて、危ないだろう!」
「…ごめんなさい」
揺れるボードを必死に抑えるリュークリオンを横目にミナミは思い出していた。
ーこのボートに乗るってイベント、乙女ゲームにあったわ!
確か、これで誰と乗るかによって、どのルートに入るのかの重要な分岐点になったはず…。
そして、リュークリオンルートに入るには当然、リュークリオンと一緒にボートに乗る。
ー確かそこで…悪役令嬢のアンジェリカが嫌がらせをして、なんか忘れたけどそのせいで主人公が池に落ちて…。
ミナミは段々と前世の乙女ゲームの記憶を思い出しいった。
池に落ちた主人公をリュークリオンが助け出して…そこで…。
ーあっ…人工呼吸するんだったわ!
思い出してミナミは思わず赤くなった。
そして、先ほどのアンジェリカの目くばせを思い出した。
ーアンジェリカはこのエピソードを覚えていたんだわ!
それならば私はこの池に落ちてしまうのだろうか。
池の水を手で少し触ってみる。
避暑地なだけあって、夏でもヒンヤリしている。
足をつけるくらいなら気持ちよさそうだが…。
「おい、あまり身を乗り出すな。落ちてしまうぞ」
リュークリオンが、ミナミに言う。
ふと、ミナミはリュークリオンを見る。
金色の髪が木漏れ日に揺れ、柔らかそうだ。
少し眉間にしわを寄せ、面倒くさそうな表情をしてミナミを見るリュークリオンは、相変わらず整った顔をしている。
アーモンド形の目の中にコバルトブルーの瞳、そして形の良い唇…。
ーはっ!!!私ったらどこ見てるのよ!!!
リュークリオンの唇を凝視してしまったミナミは、思わず赤面して顔を逸らす。
「おい…大丈夫か?さっきから、突然立ち上がったり、思い悩むような表情を浮かべたり…赤面したり…」
ミナミの挙動不審な態度に、流石に心配になるリュークリオンであった。
「なっ…なんでもないわ」
「…ならいいが。具合が悪い様なら直ぐに言え。岸まで引き返す」
そう言ってリュークリオンはオールから手を離すと、湖畔の景色を無言で眺めた。
ー具合が悪くないなら、しばらくここに居てもいいのかな?
ミナミはリュークリオンが直ぐにでもアンジェリカ達の傍に行こうと言い出すと思ったので、少し嬉しかった。
ーいやいや!私の喜び沸点低すぎだろ?!
自分自身にツッコミを入れるミナミであった。
「すみません、手こずってしまって」
タクマが申し訳なさそうにアンジェリカに言う。
気づけばミナミ達のボートとは大分離されてしまっていた。
「まったく気になりませんわ」
アンジェリカはにっこりと笑ってタクマに言う。
実際に、タクマが慣れないボートで苦戦している姿は可愛くあったし、ミナミ達と離れたことで、誰にも邪魔されずタクマと二人きりの空間ができたのだ。
「ゆっくりでいいのですわ」
これはアンジェリカの本音だ。
なんなら、ずっとこの辺でグルグルしていてもいいくらいだ。
だが、そこまで考えて、ふとアンジェリカは我にかえった。
ーはっ!今日はタクマ様を愛でる回ではございませんわ!
そう、今回のこのボードはミナミがリュークリオンルートに入る大事な分岐点。
まったくルートに入っていなさそうな二人を、ルートに入れる為にアッジェリカはくじに細工をして、このペアを作り出したのである。
ー私とタクマ様のルート?の為にもミナミ様は何としてもリュークリオンルートに入ってもらわなくては!!
ー先ずは、二人のボートに近づいて、このハンカチを落とすのよ。
ゲームではアンジェリカがミナミの(孤児院のシスターに貰った大切な物設定)ハンカチを勝手に盗んで、池に落とすのだけれども、きっとミナミさんの目の前で落とせば、ミナミさんならその意図に気づいてくれるはず!!
だが、アンジェリカは気づいていなかった。
ミナミが自分と同じような、ゲームのヘビーユーザーではなかった事に。
そして、そんな細かいエピソードなど、ミナミはまったく覚えていなかった事に!
なんとか、ミナミ達の近くまでボートを漕ぎだした時には、タクマは少し疲れてしまった。
アンジェリカと二人きりという緊張、ボートすらうまく焦げない情けなさ。
だけど、そんな自分を少しの不満そうな顔も見せず、優しい眼差しで励ましてくれるアンジェリカが、愛おしく見えて、溜まらなかった。
ーこの思いはどうすればいいんだか…。
「遅かったな」
表情を変えずに、リュークリオンが言う。
「あのねえ、タクマは初めてなの!仕方ないでしょ??」
ただの感想だとしても、他に言い方はあるだろう。ミナミは、リュークリオンがアンジェリカと一緒に乗れなくてすねているのかもしれないと思った。
タクマは愛想笑いだけ浮かべ、返す言葉もなくリュークリオンを見る。
この完璧な王子の大切な人に、自分はよこしまな気持ちを抱いている…なんて愚かで浅はかな事なのだろうか。
「タクマ様は呑み込みがいいですわ!初めてだとは思えないくらいですわ」
そう言って、慰めてくれるアンジェリカの優しい言葉も、リュークリオンの前だと自分の情けなさが目立つようだった。
「…ちょっと疲れたので休みますね」
タクマはそう言うとオールを置いて、湖畔の森を眺めた。
ー何か気に障ることを言ってしまったかしら。
アンジェリカはどこか元気のないタクマが気になったが、単になれないボートを漕いで疲れただけかもしれないと思った。
ーここまで近づいたら十分だわ。よし、今ハンカチを落として…。
アンジェリカはミナミに目くばせをすると、リュークリオンに気づかれない様にハンカチを落とした。
ーミナミ様!今よ!ハンカチを拾う…ふりでいいですわ!さぁ!池に落ちて!
しかし、ミナミはまったく、拾おうとしない。
それどころか、
「あれ?アンジェリカ様何か落としましたよ??…ハンカチ??」
ーちょっと!ミナミさんったら!言ってどうするのよ?!あなたのハンカチって体にしなくては!!
慌てたアンジェリカはテンパってしまい、ハンカチを一旦回収しようと手を伸ばした。
だが、テンパっていたからか、バランスを崩してしまった。
ー?!
「危ない!!」
そうミナミが叫んだが時既に遅く、アンジェリカは池に落ちてしまった。
ミナミは直ぐにアンジェリカを助けようと手を伸ばしたが、バランスを崩してそのまま落ちそうになった。
「馬鹿か!お前まで落ちてどうする!!」
ミナミをリュークリオンが咄嗟に抱き寄せた。
そして、それと同時にタクマが池に飛び込んだ。
程なくして、アンジェリカを抱えたタクマが顔を水面から顔を出すと、「捕まれ!」とリュークリオンが救命具をアンジェリカ達の近くに放り投げる。
それから直ぐに、異変に気付いたパトリオットとランフォースが救命ボートでやってきて、二人を引き上げたのだった。
幸い、アンジェリカは直ぐに息を吹き返した。
ー良かった、大事には至らなくて。
そうミナミが思っていると、耳元で「良かった…」と呟く声が聞こえた。
ー夢中で気づかなかったが、よく考えたらこの状態はいわゆるバックハグなのでは?!
リュークリオンがミナミを後ろから抱き止めていた。
背中越しにリュークリオンの体温を感じ、肩越しにリュークリオンの息遣いを感じた。
そう意識すると、急に恥ずかしくなってきたミナミだったが、ミナミの腰に回されたリュークリオンの手がわずかに震えていることに気づいてしまった。
ミナミはその手に自分の手をそっと重ねると、
「大丈夫、アンジェリカ様は無事よ」と優しく言った。
「…ああ、そうだな」
リュークリオンはそう言うと、一層強くミナミを抱きしめた。
「あのぉ~、お二人さんはいつまでそうしてるんだい?別に構わないんだけどさ」
「だあーっつ!!」
パトリオットのツッコミに急いで離れる二人だったが、残念ながら一番それを期待していたアンジェリカは、ぐったりしていてそれどころではなかった。
ーそれにしても…池に落ちるのは主人公のはずでは?!
やっぱり、この世界の主人公はアンジェリカだと思うミナミであった。




