「鍛練の日々」
中庭から呻き声が上がっている。皇子シンヴレスはもう限界を越えそうになるぐらい、腕立て伏せに励んでいた。不動の鬼が見守っている。
いつも素振りだったシンヴレスが何故、腕立て伏せに挑戦しているか、それは先日、倉庫にあった竜乗りの標準装備であるグレイグバッソを握ったことから始まった。
剣は思っていた以上に重かった。これを竜の上で片手で操ることなど今は無理だ。シンヴレスは一流の竜乗りになることとサクリウス姫を取り戻すことは剣という同じ道を通る様な気がした。
「御曹司、何卒そのぐらいで。こういうのは回数よりも習慣づけることが大事です」
不動の鬼には珍しく、鍛練を止めて来た。
「いいや、グレイグバッソを振り回せるように筋肉を付けなきゃ」
「皇子、筋肉を痛め過ぎます。何卒、何卒、そこまでに」
「だってまだ、たったの三十回を越えたところじゃないか」
シンヴレスは言葉通り、軟弱な己の腕に失望していた。毎日素振りをしていたのだからもっと出来ると思っていたのだ。しかし、もう腕はプルプルと震え、気を抜けば冥府に引きずり込まれる様に地面の上に崩れ落ちそうだ。
「次の政治学の授業に支障が出ては、それこそ二流の戦士の証となりましょう」
不動の鬼が諭すと、シンヴレスは地面に落ちた。腕が物凄く痛かった。筋肉がすっかり強張っている。
「分かった、少しずつ回数を上げて習慣にするよ」
シンヴレスが言うと不動の鬼は跪いて頷いた。
シンヴレスは午前中は竜乗りの訓練に出て、午後にはこの自主鍛練の他、政治学の授業の時間もあった。
疲労困憊の皇子の一日の最後は机にしまってある香水のにおいを嗅いで眠ることだった。夢でならサクリウス姫に会えるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて眠るのだが、夢の中にはダンハロウ老人が立ちはだかり、シンヴレスを散々に打ちのめすものが大半を占めていた。
別にダンハロウさんが憎いわけでもないけど。
シンヴレスは起床すると言い聞かせるようにそう思った。
腕は痛かった。だが、グランエシュードに竜の上での戦い方を空で教わり、その後にはしっかり自主鍛練をしていた。
ある日、疑問が過ぎった。
「本当に稽古を続けて強くなれるの?」
己の筋肉の無さに悲観してシンヴレスは不動の鬼に尋ねた。
「皇子殿下、人は裏切りますが、筋肉だけは裏切りません」
「人に裏切られたことがあるの?」
シンヴレスは思わず尋ね、立ち入ったことを訊いたと、口を抑えた。
「あります。ですが、その時も筋肉があったからこそ、跳ね返せたのです」
「分かった。鬼みたいに頑張る」
不動の鬼の過去が気になったが、知ったところで自分には何もできない。ならば、せめてこの鬼の忠誠を裏切ることの無いようにしよう。
シンヴレス皇子は痛みを感じながらも腕立て伏せを始めた。
2
ダンハロウ老人が告げて、あの日から、シンヴレスは一人で食事を取っていた。父である皇帝はサクリウス姫と食事を取っている。そこにいてはいけないのだ。と、シンヴレスは思い、政治学の後にも自主鍛練を続け、夜遅い時間に食事を取ることになっていた。
一人の食卓は寂しいので、鬼を同席させようとしたが恐縮され断られた。
だが、自分が夜遅いと料理人達にも迷惑を掛ける。そう思ったシンヴレスは夜の鍛練と夕食の時間を交換し、部屋で食事をとることにした。
食事を終え、食器を洗い場まで持って行こうとすると、扉と床の僅かな隙間に角ばったものが挟まっているのを見付けた。
ゴミかな?
だが、それは紙で、見慣れた字で一言、「よく食べよくお眠りなさいませ。あなたは今、伸び盛りです」と文が書かれ、竜をディフォルメした絵が書かれていた。
サクリウス姫からの手紙に間違いは無かった。サクリウス姫が心配しているんだ。だけど、早くあの平和で楽しい食卓を取り戻すためにシンヴレスは鍛練を頑張ろうと決意を固めた。
そんな時、身体に無理をさせ過ぎたのか、腕が物凄く痛くなり、腕立て伏せも素振りも出来なくなった。
「御曹司、今日は休みましょう。筋肉も適度な休みを必要とし、形になってゆくものです」
シンヴレスはこの頃には倍の六十は腕立て伏せをできるようになっていたが、自分でもわかる、無理をし過ぎた。
午後の政治学を休み、手を使った自主鍛練も休む。だが、部屋で脚だけは鍛えたいと思い、スクワットをしていた。
その時、また扉に挟まった手紙を三枚も見付けた。
「皇子、御無理なさりませんように」
「皇子殿下、無理しないでください」
「何事にも焦りは禁物だ、自分の身体と相談して鍛える目標を定めなさい」
一枚目はサクリウス姫、二枚目はアーニャ、三枚目は父だ。
シンヴレスは扉を開けて番をしている不動の鬼に尋ねた。
「私は無理をしているのかな?」
「恐れながらそのように見受けられます」
不動の鬼は跪いてそう述べた。
「今日は大人しく寝るよ」
「そのようになさって下さい」
不動の鬼は再び頭を下げた。
部屋に入り三枚の心のこもった手紙を眺めながらシンヴレスは呟いた。
「せめて成人前までにはダンハロウさんを負かしたいな。たぶん十一歳の今の私でも、十二歳の私でも、十三の私でも、ダンハロウさんには勝てないだろう。そっとそっと筋肉を育てて、孤独に耐えながら、十四歳でダンハロウさんを破る」
シンヴレスはそう決めると、己の両腕を見て、今までいじめてごめんね。と、心の中で謝罪したのであった。