「サクリウス姫のにおいが好き」
朝食を済ませると、サクリウス姫と共に再び竜舎へ向かった。
シンヴレスは竜乗りの練習をするために来たのだが、サクリウス姫にさっそくカッコいいところを見てもらいたかった。
「はりきっておりますな、皇子殿下」
竜乗りの師、老兵グランエシュードが言った。
「グランエシュードさん、今日は私一人で飛びます」
「いいえ、それはまだお早いかと、ワシも追従します」
師には逆らえない。シンヴレスは己の非力を残念に思いながら頷いた。
サクリウス姫と、そのお付きである老紳士、そして不動の鬼がこちらを見ていた。
シンヴレスは、声を上げて手を振った。
「これから飛びます!」
フロストドラゴンのバジスに鐙を駆けると、シンヴレスはバジスに言った。
「行こう、バジス!」
竜は応じるように鳴き、翼をはためかせた。
「皇子、竜舎を一回りしてきましょう」
フォレストドラゴンに乗ったグランエシュードが言った。
「分かりました!」
シンヴレスは全神経をバジスに集中させ頷いた。サクリウス姫のことを忘れていることにすら気付かなかった。
二匹の竜は並走し、竜舎を回った。
空を飛ぶって素晴らしいなぁ。シンヴレスはいつもそう思っていた。そうして平和な空を作ってくれた人達に感謝した。少し前までは仲が悪かったべリエル王国の刺客が来るかもしれないと言われ、竜に乗せて貰えなかった。しかし、おかげで乗馬の方が上手くなっていた。叔父であるドラグナージークにも負けないぐらいの自信があった。
広い竜舎の外を一周し、戻ると、シンヴレスはサクリウス姫を振り返っていた。
「皇子、バジスを褒めてあげてくだされ」
「あ、そうだった」
シンヴレスは我に返り、バジスの首を抱き締めた。
「偉い偉い、ありがとうバジス」
そうしてバジスをグランエシュードに任せると、シンヴレスはサクリウス姫達のところへ駆けて行った。
「サクリウス姫! 飛びましたよ!」
「無事の御帰還で何よりです」
サクリウス姫が言った。
「皇子、練習は終わりでは無いですよね?」
「え?」
確かに、これまでの時間はここから午前いっぱいは竜乗りの練習にしてきた。それをサクリウス姫に良いところを見せるだけで終わってしまって、何てことだろうか。
「はい! 私は午前中はここで竜に乗ります!」
「皇子、頑張って下さいね。私もアルバーンを飛ばしたいと思います」
サクリウス姫が微笑んだ瞬間、シンヴレスは気付いた。きついにおいではない。だけど、今までと知らない、優しいにおいがする。この出どころはもしかすると。
「サクリウス姫! においをかがせてください!」
「においを? 私の?」
サクリウス姫は驚いたように言い、逡巡した後、腰を落として手を広げた。
今度はシンヴレスが驚く番だった。抱き締めてくれるとサクリウス姫は言っているのだ。
「何も遠慮はいりませんよ」
シンヴレスはその懐に駆け寄って抱き締めて、甲冑越しに存分においをかいだ。そして確信した。
「やっぱりそうだったんだ」
「何がですか?」
サクリウス姫が顔をシンヴレスの目線に落として尋ねる。
「姫様からは優しいにおいがします」
「そうですか。実はお気に入りの香水を付けております」
「え、香水」
てっきりサクリウス姫自身のにおいだと思ったシンヴレスは少しがっかりした。だが、それを悟られまいと表情を崩さないように努力していたが、見抜かれていた。
「私のにおいなど、とても香しいものとは思えません」
「そんなことはないですよ!」
「どうしてどう言い切れるのですか?」
サクリウス姫が冷静な顔で言ったので、シンヴレスは答えた。
「優しい人からは優しいにおいがするものです」
その言葉に姫のお付きの老紳士が笑った。
「将来良き旦那様になれそうですな」
サクリウス姫の方は顔を真っ赤にして、それでも微笑んでくれた。
「それじゃあ、竜に乗ってきます!」
皇子は駆けた。
2
午後、昼食を終えると、シンヴレスはサクリウス姫の部屋を訪ねた。
丁度、メイド達が掃除をしているところであった。
メイドらが声を掛ける前にシンヴレスの鼻孔にはまた新しいにおいが入って来た。新しい部屋の新しい持ち主のにおいに違いない。とても良いにおいだった。
「皇子殿下、サクリウス姫様は剣の稽古に出掛けました」
シンヴレスは頷いた。そして後ろを振り返った。
「鬼、私達も向かおう」
だが、ふと、シンヴレスは机の上にある小瓶が目に入った。あれがおそらく香水だ。
心臓がドキドキし、何だか身体が熱くなっていた。こんな経験はしたことが無かった。だが、あの香水の名前を是非知りたいとシンヴレスは思った。
「鬼、ここで待ってて」
シンヴレスが入ると、メイドらは手を止めた。
「あ、ごめんなさい。あの香水の名前はなんていうのですか?」
メイドの一人が歩んで行き、言った。
「キュイッスと書いてあります」
「うん、ありがとう」
シンヴレスはドキドキが止まらなかった。そしてこう考えていた。アーニャにこの香水を見付けて来て貰おう。
何故か皇子は無性にその香水が欲しくなった。アーニャに何て言えば良いかな。変に思われないだろうか。サクリウス姫に贈ると言えば怪しまれないかもしれない。
シンヴレスは後ろめたさを感じたが、このドキドキと熱いのと、ゾクゾク感が止まらなかった。
「御仕事のお邪魔をしてすみませんでした。行こう、鬼」
シンヴレス皇子はサクリウス姫の部屋を離れると、東側にある練兵場へと足を運ぶのだった。今度は剣でサクリウス姫に良いところを見せよう。そう思った頃には、謎のドキドキと身体を駆け巡る熱、ゾクゾク感はどこかへいってしまっていたのだった。