しがふたりをわかつまで
死ぬと透明になって消えてしまう世界。自ら終わらせようとする人の物語。
君の顔が好き、君の声が好き、君の体が好き。
全てが分からなくなってしまうなら、その時に死んでしまいたいと思うくらい、君が好き。
君の幸せは私の幸せ、君の不幸は私の不幸。
君が幸せであることが、私にとって一番大事なこと。
だから。
病気になったと、それも、治療の方法がなくて治る見込みもないものだと分かった時、真っ先に考えたのは、いつ死ぬか。ということだった。
少なくとも体が動く間には決断しなければ。自分で死ぬことができなければ、誰も私を殺してなんてくれないだろう。
ナギが、深い悲哀を何とか押しとどめようとしている顔で、私を見ている。そんな顔もやっぱり好きで、私の顔は多分、だらしなく溶けている。
「ナギ」
蕩けた心で名前を呼ぶと、ナギは悲しいを無表情の中に押し込んだ顔のまま首を傾げた。
「そんなに悲しい顔をしなくていいよ」
ナギは目を見開いて、それからまた悲しそうな顔になる。
「ごめん。辛いのは、アキの方のはずなのに」
「どうかな」
どうだろう。今は私は元気だし、どれくらい保つのかは分からないけど、すぐに死ぬってわけでもないし、その間にナギは堪能できるし。どれだけ長生きしたって、ナギの全部を堪能できるわけじゃないから、最後の最後まで堪能し続けていたいっていう以上の望みはない。
ナギが死んでから死にたかったから、それは少し残念だけど、だからってナギを殺すわけにはいかないから、こればかりは仕方ない。
さて、いつ死のうかな。
ナギと出会ったのは、私がまだランドセルを背負っている頃だった。
親の仕事の都合で急に引っ越すことが決まって、あと数ヶ月しかない小学生生活を全く新しい場所で過ごさなくてはならなくなって。ぶぅぶぅ不満を垂れながらやってきた場所で、隣の家に住んでいたのがナギだった。
不満と不安で真っ黒だった私の心は、隣家に挨拶に行って、家族そろって出迎えられた時に綺麗に晴れた。
帰宅したばかりだったのか、制服を着たままの無表情と目が合った時、私の真っ黒に塗りつぶされていた世界が輝いたのが分かった。一目惚れだった。
当時高校生だったナギは、きっと私のことは何とも思っていなかっただろう。
ただのご近所さんという態度を続ける彼に、私は押して押して押しまくって、駆け引きなんて何にもなくて、ただただ好きだと伝え続けた。
ナギはあまり表情を動かさない人だったけど、べったりとくっついているうちに、少しずつ感情が読めるようになった。
嫌がっている時は離れて、許容してくれる時はくっついて。
困っている顔ばかりだったものが、ほんのり緩んだ時の喜びと言ったらなかったし、じわじわ氷が解けるように、態度が柔らかくなってくることが嬉しかった。
そうして数年が過ぎて、出会った頃のナギの年を追い越した頃、ほのかに頬を染めたナギが頷いてくれた日のことは、一生忘れられない私の大事な思い出。
じわりじわりと病状は進んで。寝込んで回復してを繰り返して。ついに体の中から透明になり始めた頃、私が終わりを考え始めた頃、ナギは緊張した面持ちで、私に相対したのだった。
「アキ」
ナギの口から、緊張して固まった声が零れている。
あまりにも真剣な仕草に何の反応もできずにナギを見返す私に、ナギは緊張した面持ちのまま、言葉を続けた。
「結婚しよう。アキ」
真剣な声が、ナギの口から。
言葉の意味が分からなくて、大好きなナギの声なのに、まるで聞こえないようになってしまって、大混乱の私の手を、ナギがそっと握る。指に通った冷たくて固い感触に思わず手を引くと、指には何か、きらきらと輝くものがついていた。
少し痩せてしまった私の指にぴったりの。
「…………何で…?」
「……アキは」
真剣な顔をしたナギの眉が、僅かに下がる。
「アキは全然分かってないよ。僕はアキの望むことなら叶えたいって思ってた。何でも叶えたいって思ってたよ。だけどアキは分かってないよ」
何が分からないっていうんだろう。
ほとんど表情の動かないナギを観察するのは私にとっていつも当たり前のことで、もう今じゃ間違うことなんてないのに。今だって、緊張と悲しみが混ざってるのなんて、分かってるのに。何が。
「アキが願ってたことを、僕だって願ってたんだって、全然分かってないよ」
ナギの手が、私の手を撫でる。左手の薬指につけられた指輪を撫でる。
だってもう、私には時間がなかったんだ。健やかな時なんてなくって、もうずっと病める時だって分かってて。だからもう、そこは私の場所じゃないんだって思ったんだ。
だから、何となく買った情報誌も少しでも気に入った式場があったら貰ってきた結果数を増やしたパンフレットも可愛いデザインの宝飾品が載ったチラシも全部全部まとめて括って捨ててしまったのに。
「……何で、だって、私は」
未来を夢見ることはできないんだ。
私たちの子供はどっちに似るだろうかとか、何人生まれるんだろうとか、君はどういう風に年を取っていくんだろうとか、私たちがしわしわになって、それでも君は素敵なんだろうなとか。そんな全部。もう、何も。
死ぬことは怖くない。ずっと、怖くなかった。
ただ、君と共に年を取っていけないことが残念で。
君が好きで。
だから。
「アキ」
大好きなナギの声。
大好きなナギの顔。
大好きなナギの手。
君の全部が好き。
「愛してる。だから」
私がいなくなったら。
「僕と家族になって」
君の隣には、ふさわしい人が立つよ。
「アキ」
ナギは素敵な人だから。保証する。
「アキ」
私のことは、忘れていいんだから。
「ねぇ、アキ、そろそろ僕を見て」
ナギの目が、私を見つめるのを、不思議な気持ちで眺める。
何を思っているのか分かるのに、何を言っているのか分からない。
「アキ、僕のことが嫌い?」
しみ込んできた言葉に、首を振る。
そんなこと、あるわけないよ。
「じゃあ、好き?」
聞こえてきた言葉に頷く。
うん。全部好きだよ。大好きだよ。
「そうか。僕もアキが好きだよ」
「ほんとう?」
「うん。ずっと好きだよ。愛してる」
くすりと、小さく笑ったナギが、私の目元を、じわりと涙の浮かんだ目元を撫でる。
何だかとても心地よくて幸せで、私も微笑む。
「アキが、そろそろ結婚したいねって言った時、僕がそうだねって言ったのを覚えてる?」
「うん。でもあの時は」
「うん、あなたの病気が分かる前だったけど。僕は本気だったし、リセットしたつもりもないよ」
ナギの腕が私の背中を撫でて、それでようやく、今私がナギの膝の上に乗せられていることに気づいた。
「ねぇナギ、でも」
「アキ。僕はね」
私の言葉をナギが遮る。
その時初めて、ナギが結構怒っているのだと分かった。
「あの時も、今も、ずっとあなたを愛してるんだよ」
ナギが怒っている。私に。
「アキが嫌なんだったら、そんなのもう考えられないんだっていうなら、僕はあなたと家族になれなくても仕方ないと思ってた。あなたに時間がないのは確かで、だから最後まで自由でいたいっていうなら、僕は何も言わなかったよ」
僅かに微笑んだナギの顔は、だけどやっぱり怒っていて、私は何も言えずに、次の言葉を待つ。
「でも、ねぇアキ、違うでしょう?あなた自身がそうしたいわけじゃないでしょう?」
「ナギ、でも私」
「アキ」
ぴしゃりと言ったナギが、私の頬を撫でた。
「僕が聞きたいのは、あなたの希望だよ。どうしたいの?言って」
死ぬことは怖くない。ずっと怖くなかった。今だって、怖くない。
ただ、君と共に生きていけないのが残念で。残念で、悲しくて、憤ろしくて、辛くて、嫌で、嫌で、嫌で。
私は、自分の欲望に忠実に生きてきたと思う。
ナギが振り向いてくれるまで追いかけて追いかけて追いかけて。ずっと一緒で、自分ばっかり幸せで。そう、ずっと、思ってた。
ナギのこと、がんじがらめに抱きしめて、絶対離さないって縛り付けて。でもそれは、私が一生ナギを幸せにしようって思ってたからで。
そうできなくなるのなら、放してあげなくちゃって、そう思ってた。
だって私は、ナギの気持ちなんて考えてなくて、ただ私が好きだってだけでくっついてて、ナギの意思なんて全然気にもしてないで、私がただ、私が。
「ナギ」
胸が苦しい。
「好き、ナギ」
持ち上げた手を握られて、引っ張られて、ナギの体に包まれる。
「ナギ、好き。ずっと好き。死ぬまで好き」
私の頭頂部を、ナギの頬が撫でていく。
「……一緒にいたい。死ぬまで、一緒にいたいよ」
そうできないのなら、その瞬間に死んでしまいたいくらい。
「……ナギのおよめさんに、なってもいいの?」
「なってくれるなら、僕は嬉しい」
「……なる」
息を呑むような音がして、ナギの腕に力が入って、私はぎゅうぎゅうに抱きしめられた。
苦しいくらいの熱の中で、私に降ってきた小さな小さな囁き声は、綺麗に私の心に包み込んで胸に仕舞って、死ぬまで大事に、誰にも見せずに抱える宝物。
宝物ばかりが増えて、私の体は重くなるんだ。
大好きなナギが、死ぬまで一緒にいてくれるって言う。
私のだんなさんになって、最後まで私を看取ってくれるって言う。
私がとけて消えてしまうまで、一緒にいさせて欲しいんだって言う。
私は多分、途中で分かんなくなっちゃうよって言ったけど、それでも一緒にいたいんだって、そう言うんだ。
最後の最後の最後まで、一緒にいて、それで全部を覚えて生きていきたいんだって、そう言うんだ。
ナギの願い事は、全部叶えてきたんだ。あんまりお願いをしてくれないけど、簡単なことも、難しいことも、全部全部叶えてきたんだ。
だから。
私は、生きる。
大好きなナギのことが分からなくなって絶望しても。
ナギの言葉を信じてるから。
最後まで、生きる。