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落ち込む男と慰める僕

 赤ん坊は両足と右腕の複雑骨折の上、生まれた時から麻薬中毒患者であった。

 彼は病院に収容された翌日に息を引き取ったという。

 コカインを含んだ母乳を飲めなくなった事により禁断症状に陥り、内臓疾患を抱えていた上に虐待を受けて弱った体がそれに耐えられなかったのだ。


 僕の膝の上の男は、助けられなかった命の為に静に泣いている。


「かわちゃん重い。」


「お前は酷いヤツだな。淳平君には黙って膝枕するくせに!俺には重いって、それは冷た過ぎるだろ。」


「淳平君は僕の恋人で、あなたには婚約者もいるでしょう。梨々子に膝枕を強請ればいいじゃない。梨々子ならば何時間だって黙ってやってくれますよ。」


「うるさいな!散々可愛がってやった俺にお前は冷た過ぎだろ。」


 僕は大きく溜息をついて、ティッシュボックスを引き寄せ楊に渡した。

 楊は何枚か一時に引き出すと大きく鼻をかみ、その丸めた紙を僕に渡し、そして再び僕の膝を枕にした。

 僕は二本の指で摘んだそれをゴミ箱に投げ捨て、仕方がないと彼の背中を軽く叩く仕事に戻った。

 子供をあやすようにトントンと、だ。

 彼が嘆くもう一人の子供に彼がしてあげたように。


 楊はその子供の事故こそ自分の責任だと考えている。


 生まれて初めて抱きしめられ、温かい腕の中で泣きたいだけ泣いて縋りついたいだけ縋った彼は、楊の腕の中で眠り、目覚めて彼がいない事に絶望して病室から逃げ出してしまったのである。

 彼が楊に抱かれたときに見た暗証番号を打ち込んで隔離扉を開き、楊を探し求めて病院前の道路に飛び出して、そこで車と衝突してしまったのだ。


 目を閉じると、真っ黒い車が大柄の少年を轢く映像が、僕の瞼の裏で繰り返し流れる。

 その車を運転している男は楊。

 これは楊の後悔が引き起こした、楊を責め立てる映像だからだ。


 僕を彼をとんとんと叩き、時々背中をさする。

 楊が自分の後悔で黒く染まってしまわないように、僕が彼に出来るのはこれだけだからだ。


「――百目鬼はどこに行った?」


「山の仕事です。この忙しい時期に、と怒りながら出て行きましたよ。なんでもとある住職様一家がインフルエンザに倒れたそうで。」


「お前を一人残して無用心じゃないか?」


「この家はどこよりも安全な場所です。家周りには監視カメラが設置されているし、木塀も門扉も木に見えるけどアルミでしょう。そしてこの家の様子は良純さんのスマートフォンからも確認できる。彼が守っている家です。どこよりも安全でしょう?」


 膝の上の男はゴロっと仰向けになり、泣いて目の周りが赤くなってはいるが、それでも、いや、その赤さが尚更に魅力を引き立たせている顔でじっと僕を見返してきた。

 胸のどこかでドクンと音がしたのは、絶対に誰にも内緒だ。


「外だけだろ。家の中にお前が狼を引き込んだら意味無いじゃないか。」


「僕は馬鹿ですが、いくらなんでも狼を家に入れませんよ。」


 すっと楊は右腕を上げると、僕の頭をポンポンと指先で軽く叩くように撫でた。


「入れているだろ、淳平をさ。俺だって簡単に引き込んだじゃないか。」


 楊は後悔と混乱のまま、気がついたらこの家の前に居たと語った。

 僕は突然戸口に現れた楊に驚き、そして、そんな状態で車に乗らなかった事実に感謝した。

 こんなに打ちひしがれている彼は初めてで、僕はそんな彼を前にして、彼が大昔に車ごと崖下に落ちてしまった事故の映像が脳裏に浮かんだのだから尚更だ。


「淳平君は恋人です。それに、かわちゃんは狼じゃあないでしょう。」


 彼はなぜか不貞腐れた顔で動きを止めた。


「何か?」


「別に。どうせ俺は百目鬼に比べたら小物だものね。ここが本物の狼の巣だった事を忘れていたよ。」


「もう。かわちゃんは小物じゃないし、良純さんは僕の父親です。狼なんかじゃありませんって。」


 楊は僕の頭からするっと腕を下ろし、だが、空いていた左腕を僕の体に回した。


「俺はさ、お前が無理していないのか心配になるよ。ノーマルなのに体を使われるのは辛いだろ。お前は性欲自体が無いんだろう?以前に言っていたじゃないか。だからお前はご飯ご飯なんだろう?愛していても、愛しているからこそ嫌だって断っていいんだよ。」


 ぽつっと楊の頬に涙が零れた。

 これは彼の涙で無く、僕の涙だ。

 彼は再び右腕を上げて僕の涙をその指で拭い、顔をつかんだ。

 そして僕を支えにするようにして、楊は僕の膝から上半身を起こし、床に座りなおした。

 今度は楊が僕を抱きかかえる様な形で。


「やっぱり辛かったんだ。」


 トンっと彼の額を僕の額に軽く当てた。


「違います。」

「違うの?」

「僕はかわちゃんの優しさが嬉しかったから。嬉しかったから辛くて。かわちゃんは辛いの?梨々子を抱くことがそんなにも辛いの?」


 楊はふっと笑って笑みを作った。

 まるで顔が形状記憶しているだけの、彼が辛くとも作れる笑顔だ。

 彼は自分のこの笑顔でみんなは安心すると思っているかもしれないが、僕と良純和尚にはこの笑顔は絶対に通じない。


 だって、僕達は人の表情に騙されるから、言葉しか信じないもの。

 かわちゃんは、辛くないって言わないよね?

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