清水院長の秘密のお部屋
爬虫類専門のペットショップ店長が言うには、清水病院はエキゾチックアニマル専門の病院であり、院長は事の外昆虫がお好きらしい。
俺はそこで院長に虫を売った店主の言葉を思い出したのである。
「元は爬虫類を飼ってらしてね。餌用の虫を育てる内に虫に愛情が湧いちゃったと笑っていたね。特にその虫、ヨロイモグラゴキブリが気に入ってね、餌のユーカリを専用温室に植えて、そこでその子達を育てているそうだよ。」
「あ。」
「どうした?山さん。」
「店長が専用温室で飼育しているって言っていたよね。ここが清水仁の自宅であり病院でしょ。ユーカリを植える温室どころか、温室を作れる庭自体が無いじゃないか。」
ぴたっと足取りを止めた怖い人は俺達に命令だけした。
「いいから行くよ。」
髙はズンズンと動物病院に入るとバッジを取り出し、さらに奥へと、院長室へと迷うことなく真っ直ぐに向かっていく。
この病院は待合室には診察を待つ人間で賑わい、診察室もスタッフも多く若い雇われ医者も忙しく立ち働き繁盛している事を伺わせたが、俺達がその人々を縫うように進む度に和気藹々としていた人の輪は崩れ、笑い声を含んださざめきは沈黙していき、まるで不幸を振りまく疫病の行進のようだと、俺は考えながら髙の背中を追っていた。
「あの、申し訳ありません。院長はただ今海外へ出張中で。」
若い女性スタッフが乗り込んだ俺達の前に出て、院長室の扉の前で体を盾にするようにして俺達の進行を妨げた。
「どうしてもお入りになられるのならば、捜査令状をお願いします。そ、それに階級や所属どころかお名前さえ伺っておりません。違法捜査を許すわけには行きません。」
髙は自分を押しとどめる相手に大きく溜息をつき、スマートフォンを取り出してどこぞに電話をかけ始めた。
「あ、僕。体を張って守る人がいてね、なんとかならない?」
髙は誰と喋っているのか電話の相手の話す言葉を興味深く聞いて、そして「ありがとう。」とスマートフォンを片付けた。
「まずは名前を!階級もです。警察に連絡して確認が取れるまでこの先を許すわけには行きませんからね。」
「ネームプレートによると高部さん。あなたが高部希美子さんですか。一年半前の旅行鞄に大麻がいつの間にか入っていた事件、大変でしたね。」
目の前の高部は、カッと目を見開かせて髙を見上げた。
「執行猶予中だよね、君。」
髙は冷たく言い放つと、右手首上だけでくるっと払う仕草をした。
その手の動きだけで今度は簡単に高部は横にそれ、すると、髙は何事もないように高部に手を差し出した。
彼女は操り人形のようにして、髙に院長室のものらしき鍵を手渡すではないか。
髙はそれを受け取ると俺に投げて寄越し、俺はそれを受け取ると俺も髙の操り人形のようにして院長室のドアを開けた。
「どうぞ。」
髙はするっと猫のように室内に入って行き、葉山もその後に続いて行ったが、俺は入らなかった。
院長室の前でこれ以上高部が騒がないように、目線だけで彼女を捕らえていようと思ったのだ。
数秒しないで葉山は部屋を飛び出してきて、目に入ったトイレのドアに飛び込んでしまった。
やっぱり。
「山口、そこのお嬢さんは放っておいて君も入って来て。」
「イヤですよ。あの葉山の様子を見て入りたい訳ないじゃないですか。」
髙が入室しようとドアを開けた時に、少しの隙間であろうと自分の鼻腔と胃液を刺激した嗅いだことの無い異臭を嗅いでしまったのだから尚更だ。
だからこそ俺はドア係に徹していたのである。
「山口?」
俺の返答に驚いて尋ね返す声音ではない。
俺の言うことが訊けないのか?系の声音である。
俺は頭をカクっと後ろに倒して、天井を見上げて目を瞑った。
南無三、どうか明日も立っていられる程度でありますように。
「早く。」
俺は元教官の怖い人の命令に従うしかないと観念し、のそのそとその部屋に入室し、自分が嗅いだ臭いの意味を知った。
吐き気が押し寄せる中、それでも全て見なければと俺は覚悟を決め、部屋をぐるりと見回した。
生暖かく湿度の高いそこは、院長室と成すには机も何もない部屋だった。
ここは飼育場でしかない。
成人男性の腰の高さで、ガラスでなく、たぶんアクリル板でアクアリウムの水槽のように三方の壁の前面にぐるりと設置されている。
幅は四十センチくらいだと大体を目測したその水槽の中には腐葉土が満たされ、観葉植物の苗、たぶんユーカリが等間隔に二十本近く植えられおり、土の表面にも木の葉と似ている乾燥した葉が敷かれていた。
俺は小脇に抱えているゴキブリ入りプラケースがミシっと軋んだ音を立てたことで、自分の腕がぎゅっとそれを強く挟み込んでしまった事を知った。
嗅いだことの無い方の異臭の原因は、カブトムシなどを飼う時に発生する発酵したような虫の匂いがこの部屋に立ち込めているからだった。