慮外者を殴れない理由
夏場の三十度を越す気温に体が慣れてしまったのか、例年より温度の高い真冬でありながら寒さが厳しく感じてしまう。
相棒と俺は、相変わらずの無残な遺体の鑑識作業と搬出を、お互いの肩をくっつけて寒さに震えながら見守っていた。
犯人は被害者を徹底的に殴打する。
その後、被害者の遺体をプラスチックのゴミバケツに押し込んだ上で、ゴミ捨て場に放置するのである。
ただ放置されるのではない。
全裸で後ろ手に縛られ正座させられた格好で固定され、更にビニール袋で包まれて、だ。
投棄は深夜の内に行われ、発見はゴミ回収時の早朝だ。
遺体の解剖では、彼等は死ぬまで殴られたわけでは無い。
殴られた後に数時間は放置されての死である。
最初の遺体には日常的に殴られた痕が見受けられた事と、二体目の遺体の体に残る傷跡が新しいものしかない事に、この連続殺人者は最初の被害者が死んだことで自らの被虐心を発散させる相手を探しているのだろうと見做された。
ただでさえ自らを守ることも、それどころか自らの生活を他者の手を必要とするような老人がそのような虐待を受けることになったとは、亡くなった被害者の恐怖と脅えはいかほどのものであっただろうか。
「クリスマス時期に可哀相に。ただでさえ寂しい独居老人ばかりをって、犯人は何を考えているのだろうね。これで三人目だよ。」
俺は呟きながら、二人目の遺体の時、俺が葉山を家に戻した事を思い出した。
その遺体は葉山の昔の恋人の祖母であったからだ。
「こちらです。」
あの日は、俺達よりも鑑識の方が先に現場に到着しており、鑑識の一人が青いゴミバケツの蓋を開けて俺達を待っていたのだ。
そして死に慣れすぎた俺達は、いつものように無感情に中を検めた。
しかし、その日はいつもと違った。
空気が漏れ出したかのような声を珍しく出して、隣の葉山が口を押さえたのである。
口を押さえている彼の両目からは、次々と涙が零れ出してくるではないか。
「友君、知っている人?」
彼は声が出せないのか、そのまま何度も頭を上下するのみであった。
最近の俺は酷い現場だと吐く癖がついているので、管轄内の使用可能トイレの場所は網羅している。
「すまない。すぐ戻るから。」
鑑識に断ると、強く葉山の腕を引いて、彼を一番近くのトイレの個室に押し込んだ。
「誰か教えてくれる?僕は現場に戻るから。それで君はそのまま帰って。」
個室から吐く音が止まり、自嘲するような笑い声が聞こえた。
「戻るよ、大丈夫。」
「駄目。今日だけは八年刑事している僕の言う事を聞いて。友君は今回は帰ろう。医者だって身内の手術はしないでしょ。刑事だってそうだよ。目が曇るからこの現場はいちゃおまけに、
「ははは。情けないよ。特対課にしてはまともな刑事事件の捜査だっていうのにね。まともな現場で潰れるなんてさ。……おぅ。」
再び嘔吐をしはじめた音が、個室の扉を越えて聞こえ始めた。
「大丈夫?僕は現場に戻るから、あの遺体が誰かだけ教えて。」
「……元カノのお祖母ちゃん。高校時代から付き合っていて、我が家の破産で別れた恋人の祖母だよ。母方の祖母で、華道の先生だった冬根美穂子さん。畜生。元カノの名前は新井田愛美歌だ。冬根さんは近隣の高校の華道部に呼ばれたりカルチャーセンターで講師をしていたりと、当時はやり手の先生だったよ。」
「ありがとう。」
そして俺は現場に戻り、葉山は俺の言うままに自宅に戻ったのだ。
落ち込んだ男の想い人であり、俺の恋人が俺を待っている家に、だ。
これは俺の失敗だ。
しかしながら、葉山に襲われかけたことで玄人が初めて自分から俺にキスをしてきて、おまけに、夢のようなセリフを俺に告白してきたのである。
今回の事は流してやらなければならないだろう。
どんなに葉山を半殺しにしたい誘惑が甘美なものであっても、だ。
なぜならば、葉山は知り合いの死と玄人の拒絶に傷ついているが、俺はこの上なくハッピーでもあるからだ。
寒くても、胸の中はホッカホカだ。
「僕はこんなに君の事を愛しているのに。」
俺がいなくなったと泣く夢だと告白しての、これだ、この言葉。
俺が百目鬼にも惚れている事が玄人に知られて以来、俺はその日まで玄人に苛められていたのだ。
いや、苛めなんて可愛いものでない。
排除だ、それも完全なる排除。
俺は最愛の人に、この世では要らない人扱いをされていたのだ。
彼は俺と百目鬼をそれぞれ独占したいと考えている人で、俺と百目鬼が笑いあっていると途端に不機嫌になり、すると、百目鬼ではなく俺だけに当たるのだ。
俺は玄人には愛されていないのではないかと思い始めていた矢先の、これ、なのだ。
俺は葉山を許すしかないじゃないか。