居眠りをしながら、ミミズのような文字で読めないメモをとっていたら、うっかりイケメン悪魔を呼び出してしまいました。魔界に帰還できるまでしっかり養うので、どうか許してくださいっ。
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「ねえ、覚えてる? まさか忘れたなんて言わせないよ。さあ、俺をこんな体にした責任をとってもらおうか」
誰もいない薄暗いフロアで、たったひとり残業を続けていた絵美里さんは、突然現れた男の子の姿に悲鳴をあげました。あわれ、絵美里さんの貴重な夜食である食べかけの栄養補助食品が、カーペットの上へ転がり落ちていきます。
「こ、こ、子ども? まさか、幽霊? うそ、このフロアに出るとか聞いてないよ!」
「おい、落ち着け。俺を誰だと思っている」
「い、いや、来ないで! ファブリーズ? 塩? やだ、もう、だれか助けて、警備員さんっ!」
絵美里さんは必死にあとずさりながら、周囲を見渡しました。逃げ出したいのに、腰が抜けてしまったのです。震える声で警備員さんを呼び続けます。残業続きのせいですっかり顔なじみになった警備員さんの趣味は、写経です。もしかしたら、力になってくれるかもしれません。
「いい加減にしろ! 絶世の美男子を前にして、幽霊だの、お化けだの、失礼にもほどがあるだろう! どこをどう見たら、俺がそんな低級な生き物に見えるんだ!」
男の子のよくわからないキレっぷりに、絵美里さんははっと我にかえりました。じっくりと男の子を見てみますと、確かにテレビでもそうそうお目にかかれないほど整った顔をしています。着ている洋服も、大人顔負けの仕立てのいいスーツです。
――もしかして、社長の甥っ子さんとかかしら? この傍若無人っぷりは似ている気もするわ。でもあの家系でこんな美少年が生まれるなんて、遺伝子の奇跡ね――
少し考えてみれば、真夜中に会社に入りこみ、偉そうにふんぞり返る子どもがいるはずもないのですが、絵美里さんは気がつきませんでした。落ち着いたように見えて、いまだしっかり混乱していたのです。
「私、あなたに何かしたかしら?」
「そもそも俺がここにいるのもお前のせいだぞ」
「そう言われても、あなたに会った記憶がないのよ」
「今日の会議中にお前が俺を呼び出したんだろうが!」
まったく身に覚えのないことを言われて、絵美里さんは困ってしまいました。とはいえ今日の午後中ずっと、実りのない会議で時間を浪費していたことは事実です。そのせいで絵美里さんは、本来午後にやるはずだった仕事をこんな時間に片付ける羽目になっているのですから。
――何か大事なことを忘れているのかしら――
絵美里さんは仕事用のノートを手に取り、今日の会議中の出来事を思い返してみることにしました。
********
――もうダメだ――
数時間前の会議室。絵美里さんは、ボールペンを握りしめたまま、意識が飛びそうになるのを必死でこらえていました。会議室に響く課長の声が、まるで子守唄のようです。
このまま意識を手放すことができたら、どんなに気持ちがいいことでしょう。いっそ床の上で大の字になって寝てしまいたい。
もちろん、社会人である絵美里さんにはそんなことなどできるはずがありません。眠気スッキリがうたい文句のミントタブレットを口の中に大量に放り込み、ブラックコーヒーをがぶ飲みし、必死にメモをとります。
ぐにゃぐにゃにょろにょろ。
一生懸命に耳に入ってきた言葉を書いているはずなのに、文字が踊り始めました。ミミズの這ったような字とはよく言いますが、もはやノートの上は、ミミズのパーティー会場です。
しかも眠すぎるせいでしょうか、幻聴まで聞こえ始めました。
「おい、お前。そう、そこのお前だよ。こんな昼日中に俺を呼び出すとか面白い女だな。殺してやるつもりだったが、気が変わった。さあ、願いを叶えてやろうじゃないか」
(なんだか、悪魔のささやきみたいだなあ)
絵美里さんは仕事用のノートに、『悪魔』とつけ加えました。
「わかっているじゃないか。そうだよ、俺は悪魔さ」
(そういや童話って、悪魔じゃなくって小人が願いを叶えてくれるときもあるんだよねえ)
絵美里さんはノートにさらに、『小人』とつけ加えました。
「はあ? おい、ひとの話を聞け」
(でもなんで切符売り場とかって、「小人」「大人」って書いてあるんだろう。「小人」と「子ども」が一緒なんて変よね)
絵美里さんはさらに、『小人』=『子ども』とつけ加えました。
「おい、勝手に変な文字を書き足すんじゃない! 召喚陣に変な契約事項が追加されるだろうが! 馬鹿、手を止めろ!」
夢うつつのせいでしょうか、ノートの文字はますます歪んでいきます。まっすぐ同じ行に書くことすらできません。ノートの上をあっちに行ったり、こっちに行ったり。
「おい、お前、いい加減に……」
(うーん、うるさいなあ。面倒くさいのは課長だけでお腹いっぱいだよ)
ノートに『お静かに』の文字が入りました。
「くっ、動きが封じられただと? 夜になったらまた来るから、覚悟しておけ!」
(うーん、夜は残業なんかしないで家族でのんびり……)
ノートに……。
「っていうことがあったんだよ」
「全然記憶にないなあ」
「だろうな。あの後お前は居眠りが酷いってことで、課長に頭を叩かれていたが、その直後にまた居眠りしていたからな」
「痛かったような気もしたけれど、あれって夢じゃなくって本当に叩かれていたのね」
「もういいよ。お前、黙れ」
絵美里さんは男の子としゃべりながらノートを確認してみましたが、何をメモしたのか自分にもさっぱりわかりませんでした。これを課長が見たらまたお説教を食らうこと間違いなしです。いや、もしかしたらすでにチェック済みで、その分も含めて叩かれたのかもしれません。
「本当に呪文みたいだね」
「呪文みたいじゃなく、呪文なんだよ」
「へえ」
絵美里さんは、謎のミミズ文字をゆっくりとなぞりながら感心しました。
「他人事だな。お前のせいで、俺はこんな姿になったっていうのに」
「責任って言われてもなあ。実際、召喚に応えたのはあなたなんだよね。しかも、何気に危害を加える気、満々だったじゃない」
「お前がいろいろ召喚陣に手を加えたせいで、契約がややこしくなった。お前に悪意のあることはできないし、勝手に向こうに帰ることだってできない」
「……うーん、じゃあ私と結婚でもする? あなた一人くらいならなんとか養えると思うよ。まあ、その年齢じゃ一体いつの話になるのやらって感じだけどね。扶養家族の申請ってどうするのかな?」
「おい、やめろ!」
冗談めかして絵美里さんがノートに『結婚』と書いた瞬間、しゅるりと絵美里さんと男の子の薬指に、白く光る指輪が現れたのです。
「え、うそ。だって、私、居眠りしていない状態で書いたのに」
「いや、お前の字、普通に書いても汚いんだな」
まさかの悪筆が原因と知った絵美里さんは、ひとりおろおろするばかり。
「まじかよ。最悪だ」
男の子もとい悪魔は、うんざりとした声で頭を抱えたのでした。
********
何をどうねじ込んだのか、無事に戸籍を手に入れた悪魔は、絵美里さんと一緒に暮らし始めました。
ふたりが結婚することが契約の解除条件になってしまったとはいえ、もちろん今のところはただの同居人です。
「ただいまー。スーパーに寄ったら、タイムセールやってて、つい買いすぎちゃった」
「最近は帰宅時間がまともになったんだな」
「さすがに親戚の小さい子を引き取ったっていう話をしたら、多少は考慮されたよ。でも今までみたいに残業はできなくなったし、子連れに優しい会社ってわけじゃないから、転職を考えてる」
「金のことなら心配するな」
「いや、今まさに小学校に通っているひとに言われても……」
絵美里さんが苦笑すると、ドヤ顔の悪魔がパソコンを見せてきました。銀行口座をWeb上で確認することができるようです。
「え、ゼロの数が……何これ、犯罪とかに手を出してないよね?」
「そんなことをするわけがないだろう。投資で儲けた金だ」
「株とかってことかな。難しくないの?」
「藁を金に変える作業よりは簡単だな」
山積みの藁を延々と金に変える。そんな錬金術師のような作業を思えば、最初から金を扱っている場所で稼ぐことはそれほど難しくないのだと、悪魔は言いました。藁を金に変えるという自然界の法則を無視した行いは、やはり悪魔であっても面倒なことだったのでしょう。
「なんでそんなにお金を稼ごうとしているの? 今のままでも贅沢はできないけれど、普通の生活はできるでしょう?」
「ちんたら小学校なんぞ通ってられるか! 金がたまったら、アメリカに移住して、飛び級で大学に行ってさっさと卒業してやる」
「まあ確かに大人が小学校生活はきついよね」
「そもそも俺は人間じゃないしな。道徳の授業など鼻で笑ってしまうぞ」
やれやれと肩をすくめる悪魔を見て、絵美里さんはそっと頬に手を当てました。絵美里さん自身は、今の生活をとても気に入っています。仕事を終えて家に帰れば、「おかえり」と出迎えてくれるひとがいるのです。
ひとりの時には栄養補助食品でまかなっていた食事も、美味しいと食べてくれる相手がいれば、お料理だって楽しくなります。
けれど、悪魔はどうでしょうか。彼はそもそも絵美里さんの召喚陣で、呼び出されました。しかも不本意にその身体を子どもに変えられてしまいました。人間と同じように成長することはできるようですが、早く契約を解除させて、もとの世界に帰りたいと思っても不思議ではありません。
むしろ、種族も異なる人間界で悪魔がわざわざ人間のように過ごしても、悪魔にとっては何の面白味もないでしょう。ちくんと胸の奥が痛むのをこらえて、絵美里さんは悪魔に尋ねました。
「ねえ、家に帰りたいんじゃない? 無理してない?」
「はあ、お前、何言ってるの。俺の家はここだろ」
悪魔の言葉に、嬉しさとともに切なさを感じます。結局のところ、契約があるから悪魔は絵美里さんと一緒にいてくれるだけなのです。無理矢理縛りつけていいわけがありません。
「ふたりで教会で式を挙げれば、結婚したって認められるんじゃないかな。試しにやってみない?」
スーパーで買ってきたものを冷蔵庫に入れながら、あえて顔を見ないようにして、絵美里さんは話しかけました。大量のお肉や野菜を、せっせと片付けます。見た目に反して大食らいの悪魔がいなくなったら、あのスーパーに通うことももうなくなってしまうに違いありません。
「そんな適当な儀式で契約を終わらせたいくらい、俺が邪魔なのか。俺にさっさと出ていってほしいというのなら……」
「違うよ! ずっと一緒にいてほしい。あなたがいなくなったら、寂しくて暮らしていけないよ」
悪魔の問いに、絵美里さんは思わず本音をこぼしました。ちらりと後ろを振り返って見れば、彼は顔を真っ赤にしています。
「馬鹿、お前、恥ずかしいことをさらっと言うな」
「だって、本当のことだもん。むしろ、あなたこそさっさと元の世界に帰りたいんじゃないの?」
「俺は別にお前のこと、嫌いじゃないからな。どうしてもっていうんなら、お前が死ぬまで一緒にいてやる。それくらい、俺からしてみれば暇潰しにもならない短い時間だからな」
悪魔の言葉に、絵美里さんは小さく吹き出しました。本当にこの悪魔は素直ではありません。「好き」だなんて、絶対に口にはしないのです。
でも、悪魔のことをちゃんとよく見ている絵美里さんにはわかっています。彼の「嫌いじゃない」は「大好き」と一緒だということを。
嫌いじゃないといいながら、唐揚げやカレーの日は、いつもよりたくさんお代わりをします。
嫌いじゃないと言いながら、近くの八百屋さんの子猫をおっかなびっくり撫でています。
嫌いじゃないと言いながら、絵美里さんのために時間を作ってくれるのです。
「ありがとう。これからもずっとそばにいてね」
絵美里さんの言葉に、悪魔はふんと鼻をならしてそっぽを向いたのでした。
********
数年後。とある有名企業のフロアの一角で、年若いサラリーマンが数人おしゃべりをしていました。
「社長の話、知ってるか?」
「ああ、好きになった親戚のお姉さんと結婚するために、飛び級で大学を卒業して、会社を設立したんだろう。よくやるよな」
「へええ、でもそれじゃあなんだって未だに社長は独身なんだ?」
「やっぱりよりどりみどりになったら、迷いでも出てきたんじゃないのか。だってその女性って、今はいくつだよ。昔は綺麗なお姉さんでも、今じゃおばさんだろ」
空調がととのっているはずのフロアに、とつぜんひんやりとした風が吹き抜けました。
「君たち、何だか楽しそうな会話をしているね」
「しゃ、社長!」
「くだらない噂話をする時間があるようで何よりだよ。あ、君のところにお願いしていた企画の提出、今日の午後イチに繰り上げても問題ないよね? せっかくだから各部門の部長たちも呼んでおくから。頑張ってね」
「!!!」
顔を青ざめさせ、足早に立ち去る男性陣を見ながら、絵美里さんがくすくすと笑い声をあげました。
「もう、そんなに怒らないであげて。私は気にしていないから。あなたが独身なのも、私がアラサーなのも、本当のことじゃない」
「アラサーがおばさんなら、俺はジジイだろ。だいたい俺は、俺の大事なものを馬鹿にされるのが嫌なだけだ。お前のために怒ったんじゃない」
ナチュラルにのろけてみせるかつての男の子を見上げながら、絵美里さんは頬を染めました。
「俺は結婚してないんじゃなくって、まだできないの。結婚年齢が早い国を探し出して、国籍を変更しようかとおもったよ」
「女性の結婚年齢はまちまちだけれど、男性はそんなに早くにはならないわよ」
「それでも! 戸籍上で18歳になるまでおあずけとか、お前は悪魔か?」
「何言ってるの。悪魔はあなたのほうでしょ」
すっかり大きくなった男の子、いいえ美青年は絵美里さんを抱きしめながらささやきました。
「この見た目のせいで、制約が多過ぎる。そもそも、俺が前にこの世界に来たときには、みんな当たり前のようにこの年には結婚していたじゃないか」
「それ、何時代の話?」
「くそっ、やっぱり人間っぽく地道にキャリアを積むより先に、アレを探しに行くべきだったか」
「アレってなあに?」
「打ち出の小槌」
「一寸法師に出てくる鬼って、悪魔だったの?」
その質問には答えないまま、元の姿にだいぶ近くなった美貌の悪魔は、もうすぐお嫁さんになる愛しい女性の目尻に唇を落としたのでした。
「結婚して契約が終わっても、俺はお前が死ぬまで離れないからな。そのあとは契約の対価として、魂ごと一緒に向こうに帰るんだからな。向こうでも離してやらないから、覚悟しておけ」
「ふふふ、ありがとうね」
業界でも有名なホワイト企業。働きやすいと評判のその会社には、名物の社長夫婦がおりました。モデルや俳優のように美しい社長と、彼を優しく見守る社長夫人。かなりの姉さん女房だったにもかかわらず、彼らは晩年までおしどり夫婦として有名だったとのことです。