第三話
続きです。お楽しみ頂ければと思います。
9時半ちょうど、村外れの森のそばの診療所からナスターシャ・ハバロフスカヤはセルゲイエフ一家の営む農場に向けて車を発進させていた。
道は凍り雪も20センチ近く積もっている。
この先もどの程度まで積もっているかわからない。
この時期はロシアではどの車もトランクの中には雪掻き用のスコップとスペアのスノータイヤを常備しているのが常識だった。
ナスターシャは三日前に回診したキリルの容態を思い出しながら雪と氷に閉ざされた道を慎重に走った。
ちょうど寒冷前線が流れ込んだ日の次の日だった。
以前から体の弱かったキリルは風邪を拗らせ40度近い高熱に冒されていた。
咳も出ていたし気管支にも炎症が出ていたはずだ。
肺炎になりかけていたかもしれなかったがある理由でキリルは普通の病院に入院する事ができなかった。
キリル程ではなかったが兄のミハイルもよく体調を崩した。
ミハイルも同じ理由で普通の病院や他の診療所で診てもらう事ができなかった。
彼らを診られるのはこの村ではナスターシャ一人だけだ。
先日発注した、彼ら専用に調剤した薬剤も昨日やっと届いた。
今日中にもう一度投与すれば症状も治まるだろう。
この薬剤はロシアの遥か西端、サンクトペテルブルクから届けられている。
かつてソ連時代にとある研究機関に勤めていた時の同僚、アンドレイ・シェフチェンコの手によって。
隣国、当時はソ連の一部であったウクライナのチェルノブイリ。
そこの原子力発電所で事故が起きて33年が経ち、ソ連が崩壊してからも随分経ったがナスターシャはアンドレイとは今でも連絡を取り合っていた。
電話ごしに聞く彼の声はあの頃と何も変わらない若々しいそれだった。
ナスターシャはキリルとミハイルともう一人ヴァレリーも心配していた。
ソ連時代は研究機関で同僚でもあり、軍人としても活躍する凛々しい青年だったヴァレリー・チェレンコフだ。
しかしあの悪夢の事故の処理作業に駆り立てられてから、ヴァレリーの人生は一変してしまった。
1986年4月26日の深夜だった。
原発で爆発事故が起き
火の手が上がっていると情報が入り、復活祭で休暇を取っていたヴァレリーは急きょ故郷のベラルーシ、ホイニキの実家から軍司令部に召集された。
周辺住民の避難誘導及び事故の後処理の任務とあったが、当時の政府の
やり方は非常にずさん極まりなく、大量の放射性物質が拡散された危険極まりない環境で何とろくに防護服も与えないまま作業をさせたのだ。
ほぼ着の身着のままのような格好でヴァレリーをはじめとした軍人や民間人、原発作業員達は言われるままに命令に従い自らの身を危険にさらし続けた。
爆発による火災を沈めるために消防士達はそれこそ必死で事故現場に近づき消火活動を続けていた。
ナスターシャは当時の事を思い出すと今でも動悸と息切れを起こした。全身に冷や汗が滲み、視野が狭まり、涙が溢れだして止まらなくなった。
当時を思い出さないために、ナスターシャはカーステレオに手をかけると
ハードベースを大音量で流した。
ハードベースはナスターシャに取って“何も考えなくて良くなる”音楽だったからだ。
雪に閉ざされた白い道はまだまだ途切れる事なく眼前に延び続けていた。