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あれから、どれほど歩いたかは分からない。
嫌いな羽虫が顔に張り付くのやら、裸足が踏み込む泥濘やらを我慢しながら進んだ。
「暑ぃな。」
普段、ゲームに漫画とインドアな俺にとって、密林を歩くなんて辛い以外無い。
全身から脂汗が湧き出て、喉の渇きに耐えられない。
「み…みず。」
入浴でのぼせたみたいに、焦点が合わない。
ここがもしもゲームの世界なら、水ぐらいくれと言いたい。
「おいおいおい、またか。」
大樹の隙間を抜けた先、広がる野原で犬が散歩していた。
見た目からして、先程小鬼が食べていた輩だろう。
一頭の大型犬が先頭を進み、その後を五匹の小型犬が付いていく。
ぼっちの俺とは違い、仲が宜しい事で。
「ワォ〜〜ン!」
突然、先頭の犬っころが遠吠え。
そして、野に咲く草花を蹴り上げながら駆ける。
その先には、ビール腹のおっさん、でなく鬼が居た。
小鬼がゴブリンなら、この鬼はオークとでも言おうか。
大きな一本角に、深緑色の裸体と腰布。
豚鼻をグヒグヒとヒクつかせ、大きな棍棒を左手で弄ぶ。
もう片方を見てみると、足を掴んでいた。
『まじかよ。』
それは、どう見ても人間の足だった。
生足の先は繋がっており、裸体の誰かを引き摺って運んでいるよう。
「ゲームとかふざけたけど、正に地獄なんじゃないか?」
改めて、それが正解な気がしてきた。
「ヴゥ、ガゥガゥ!」
威嚇して、注意を集める大型犬に、遠回りで裏取りする小型犬。
さっきの小鬼もそうだが、こいつら頭が良い。
「ウォーガァァーーーッ!」
「は?」
雄叫びをあげただけ。
奴の大声が辺りを包んだだけなのに、大型も小型も地面に横たわる。
霧散してないので、死んだかは分からないが、決着はあっという間に付いた……。
「なんだよこれ。」
ゲームでよくあるレベル差とでも言うのか、犬なんて些事の如く終わらせた鬼。
こんなの勝てる訳がない。
『どうにかして、俺も逃げねぇと。』
先ずはこの大樹の裏でやり過ごす。
そんな悠長な考えがいけなかったのかもしれない。
真っ直ぐ棍棒が打っ飛んできた。
ズザァー、横っ跳びが間に合う。
足に小石が刺さり、ズボンの膝が破ける。
棍棒の着地点となった大樹は、メキメキと倒れた。
『なんでバレたんだ。』
相手は見晴らしの良い野原に立つ。
対してこちらは、野原に入る手前の森で待機。
見つかる可能性なんて1ミリも無いはず。
「ブヒ、ブヒヒィィ。」
遠目でも分かる、奴は鼻を鳴らして嗤っていた。
その憎たらしい鼻を見て、気付く。
「俺の臭いかよ。」
自分でも分かる汗臭さ。
早く風呂に入りたいこの体臭なら、届きかねない。
しかし、この距離だ。
まだ背を向けて走れば、やり過ごせ…
「ウォガァァァーーー!」
耳を劈くとはこの事か。
両耳を押さえて、縮こまる。
ガクガクと震える足はゆうことを聞かず。
一歩を踏み出す事が出来ない。
「ブヒブヒィ!」
奴が目の前に。
50メートルは離れていたはずなのに、奴はその距離を跳躍力だけで埋めてきた。
飛んで火に入る夏の虫は俺の事だが、蚊が気付いたら顔面を飛んでいたぐらいに、一瞬の出来事だった。
「ブヒブヒィ…」
…後は、俺の死を待つだけ。
何も出来ない俺は、奴が右手に抱えるのが、女性だなと感想会を開いていた。
幹のような太い腕で握られた右足。
左足は、追随するように、力無くぶらりと揺蕩う。
下着も洋服も無く、生まれたままの姿で恥部を曝け出す。
「ブヒ?」
奴が俺の視線を辿り、彼女を持ち上げた。
身長は俺と同じっぽく、長髪が垣間見せた顔は整っていた。
「ブヒ、ブヒィ。」
また嗤ってる。
お前も同じ目に合うやら、雌を呆気なく取られてざまぁとでも言ってそう。
俺は段々と苛ついてきた。
奴の瞳、体格、態度が、あのジムに通ういじめっ子に似ているのだ。
弱者を徹底的に虐めるのが楽しくて仕方ない。
そんな愉悦感が伝わってくる。
「ほんと、吐きそうだよな。」
ペッと、ごく僅かに残っていた口内の水分を吐き出し、乱れた息を落ち着かせる。
このまま死ぬ運命なら、その前に惨めに抗っても悪くないだろう。
「これでも食らえ、豚野郎!」
油断しきった豚は、厄介な雄叫びを使わない。
その隙に、“操鞭術”を発動した。
無我夢中で、どうやったのかは不明。
しかし、身体が勝手に動き、ベルトをしならせる。
蛇のように折れ曲がって、その反動を溜め、豚っ鼻へと強打する。
「ブヒィィィーーー!」
鼻を押さえ、地面を転がり回る豚。
その憐れな姿に、口角が曲がってしまう。
俺は手放された女性を確認し、ベルトを再度振り抜いた。
ズバン、ズバンと何かを切断するような音と共に、豚を躾ける。
「ヴォ…」
どうにか口を開こうとするが、そうはさせない。
幾度となく、その手を振り下ろした。
「ハァ、ハァ。」
流石に疲れた。
腕がパンパンで、思わず地面に腰が落ちる。
「………」
奴が暴れたせいで、青草が禿げた一角。
その中心で、ミートボールが完成していた。
真っ赤な鞭痕が、至る所で腫れ上がっている。
『うぇ。』
本気で吐きそうになりながら、光の粒子になるのを見届けた。
【○○は、“咆哮”を得た。】
【○○は、Lv 1からLv 5に上がった。】
訳が分からないという不愉快半分、現れて勝った事に安心する気持ち半分で眺める。
これまでの経緯からして、“咆哮”はさっきの豚が関係しているのだろう。
レベルの上がりようが違うのは、この豚がそれだけ強者だったという事か。
「そんな奴に勝つとか、ほんと俺どうなっちまったんだ?」
意味を考えても仕方ないこの世界。
生きていると実感できるのは、自然と触れた胸の鼓動だけ。
ドクンドクンと応じる自分を感じながら、豚とは違い未だ残る犬と、裸の女性を見ていた。