隔離病棟に放り込まれた俺に実際に起きたこと
世の中つまらないと思っていた。
普通がくだらないと思っていた。
ただ漠然と、人と違うことをしてやろうと考えていた。
自由という名の夢を見たかったのかもしれない。
若かりし頃の自分が何を考えていたのか、もう鮮明には思い出せないけれど。
とにかく俺はその夏、大学の夏休みを使って旅に出た。
向かった先はインド。
南アジアにあって、インド亜大陸の大半を領する連邦共和制国家だ。
俺はそこで、いわゆるバックパッカーになった。
およそ1ヶ月をかけてインドの地を回った。
日本では感じることの出来ない文化。空気。
それを語れば、大衆居酒屋での3時間なんてあっという間に過ぎるだろう。
でも俺が話したいのは旅の内容じゃない。
俺が考えなしな大馬鹿で、やっちまった話をしておかないと本題に入れないから、これはいわゆる前置きってやつなんだ。
ここは日本だが「ガンジス川」と言えば誰でも名前くらい知っているだろう。
少し世界地理を勉強したなら、小学生でも分かるほど有名なでかい川だ。
付け加えるのなら、ヒンドゥー教徒が崇拝する聖なる川として知られている。
インドに行き、俺は朝日を望むガンジス川の前に立った。
大河は美しかった。
その壮大さと、祈りを捧げて身を清める人々の姿に神々しささえ覚えた。
「インドには生と死の全てがある」のだと、誰かが言った言葉を思い出し、感動に浸った。
我に返るのに、それほど時間はいらなかった。
実際のガンジスは、そう素晴らしいものではなかった。
処理されない下水。
工場地帯からの汚染水。
それらはなんら浄化されることなく、聖なる川へ大量に流れ込んでいる。
山のようなゴミが投げ込まれ、川のあちこちに浮いては沈んでいるのが見える。
それどころか、流れの中には毎日のように人間の死体が浮いていた。
母なるガンガーは、どうしようもないくらいに汚れていた。
無菌に近い現代日本の温室で育った俺の心中を想像してみて欲しい。
工業水の泡で汚染された、ゴミの浮く川で沐浴をしている人達を見たときの衝撃といったらなかった。
それに気づいた瞬間、感動も何もぶっ飛んで、嫌悪感を覚えたことは正直に言っておこうと思う。
もちろん、自分がその川に入るなんて無理だと思った。
しかし慣れっていうのは怖い。
1週間ほど放浪生活を経ると、俺は大分神経が太くなっていた。
はるばるこの神聖な地までやってきて、日本の常識を引きずることはない。
自分は何を得る為にやってきたのだ。
小さいことにこだわるな。ここは聖なる大河だぞ。
そう思ったら、ガンジスに浸らないではいられない気がした。
日常と隣り合わせの宗教観に触れて、ヒンドゥー教徒の敬虔さに毒されていたのかもしれない。
俺はその日、聖なる川に身をゆだねた。
近くで洗濯を始める人や、対岸で葬式が始まったのも見えたが、もう気にならなかった。
俺はインドに来て、インドは俺を受け入れてくれた。
頭から聖なる水を浴びた俺は、至福の時を過ごし、それからも何度かガンジス川で沐浴をした。
口に入れるものはそれなりに気を配っていたが、沐浴に関してはもう無頓着に無警戒だったといえる。
思えば、これがいけなかったのだろう。
そうして1ヶ月間のバックパッカー生活を終えて、俺はなんとも満たされた気分で日本へ帰った。
成田空港に俺を迎えに来た母親は、俺の姿を一目見るなり「汚い」と眉をひそめた。
無事に帰ってきた息子に第一声がそれかと思ったものの、まあ無理はない。
着ているものの半分は現地で調達したものだったし、髪も髭も伸び放題だったから、当然の反応だ。
それでもやはり帰国を喜んでくれた母親と、俺は1ヶ月ぶりに自宅に帰った。
ああ、やっぱり日本はいい。
ひと夏を使って貴重な体験をしてきたことは何よりの財産になったが、旅の間には色々あったので素直にそう思えた。
なんだか熱に浮かされたように周りがキラキラして見えた。
日本はいいところだ。
ここが俺の生きていく国で良かった。
そんなことを思いながら帰宅した俺は、風呂に入り、ヒゲを剃り、すっかり日本人に戻った気分で我が家を満喫していた。
そこへ、学校に行っていた妹が帰ってきた。
「お兄ちゃんお帰り!」
うれしそうに飛び込んできた妹は、早速土産をねだってきた。
インドの女性が額の真ん中につけている「ビンディ」と呼ばれる粉や、紅茶の数々を出してやると妹はとても喜んだ。
中でもリクエストされていた「ビルマの竪琴」を渡してやると跳びはねて喜んだ。
うれしそうに竪琴をポロンポロンはじく姿を見て、頬が緩む。持って帰ってくるのに恐ろしく荷物にはなったが、頑張った甲斐があったと思えた。
そんな満足した俺を見て、妹が言った。
「お兄ちゃん、なんか顔がヘンじゃない?」
ヘン?
「そうか? 少し痩せたかもしれないな」
「うーん、そういうことじゃなくて」
そう言うと妹は部屋を出て行って、すぐにまた戻ってきた。
「はい、測って」
渡されたのは体温計だった。
俺はおとなしくそれを受け取って脇に挟むと、待った。
ピピピピッ、と音がして取り出すと、液晶の画面にぎょっとするような数字が。
「げ……三十九度越えてる……」
「やっぱり……」
そう言えばずっと頭が痛かった。
周りがキラキラ、いや、チカチカするのは熱のせいだったのか。
すぐに寝るように言われた俺は、何となく嫌な予感がした。
それでもまあすぐに治るだろうと、根拠のない高をくくっていた。
汚い話だが、このあとに猛烈な下痢に襲われても、高熱にうなされても、この程度はなんてことないと楽観的に考えていたのだ。
旅の疲れが出たのだろうと、そのくらいに思っていた。
ところが次の日になっても、熱は全く下がる気配がなかった。
布団から起き上がることも辛くなっていた俺を見て、母親はタクシーを呼んだ。
いい年の男が母親に付き添われ、近所のでかい総合病院へ向かうことになった。
動くのも億劫に思えていたのに、混み合った待合室で待ちに待たされた。
やっとのことで診察を受け、インド帰りだと申告すれば、血を抜かれたりなんなり色んな検査をされた。
またそこから待って、検査結果が出た。
――病名は『パラチフス』。
聞いたことがあるようで、聞き慣れない病気だが……それもそのはずだ。
日本ではまず普通に発生しない病気。
立派な法定伝染病らしい。
あれよあれよという間に俺は看護師さん達に護送され、病院敷地内にある「隔離病棟」というところに連れて行かれた。
外界との間に厳重に立ちふさがったいくつかの入口をくぐり、人気のない建物に入る。
病棟? これが病室?
俺は2階にある、壁がガラス張りの落ち着かない病室に押し込まれた。
そしてこれが、俺の恐怖体験の始まりだった。
全ての病室はガラス張りで見通しがいい。
部屋の窓は、はめ殺しのすりガラスだったが、それなりに光が入ってくる。
隔離病棟という名でも別段暗い雰囲気には見えなかった。
しかし俺はこの病棟の入口をくぐったときから、奇妙な違和感を覚えていた。
パラチフスのせいじゃない。
正体不明の寒気が止まらなかった。
第六感が俺に告げていた。
「ここはヤバイ」と。
スピリチュアルに興味はないが、なぜか昔から俺の第六感ははずれない。
何か歓迎できない事態が起きそうな気がする。
早くも帰りたくなっているというのに、無情にも面会謝絶の通達を受け、これからの何日間かをここで過ごすことになると言われた。
外部との接触は、一切禁止すると宣言されたのだ。
病室は、いや病棟は静かだった。
看護師さんの数も少なく、様子を見に来ることもほとんど無い。
ヒマだ。
嫌な予感も具合が悪いのもさておいて、とにかくヒマだった。
なにもすることがない。
夕方近くなってきて、俺の他にも入院患者がいることを知った。
斜め向かいの病室に、似たような年頃の男がいる。
ガラス張りだからプライベートも何もない。ここは大方、男性専用の階なんだろう。
あいつもヒマそうだな。
そう思いながらも、だるい体を起こして病室を出て行き、見ず知らずの男と世間話をする気にはなれなかった。
俺は看護師さんが置いていってくれた雑誌を読みながら、ゴロゴロして過ごした。
流動食さながらの病院食はまずかった。
インドの屋台で食べた方が食事のほうが、ずっとうまかった。
夕食が終わって、談話室とやらをのぞいてみたが、ここにも面白いものがない。
ため息を吐くと、テレビもない部屋に戻った。
頭も痛いし、気持ち悪いし、もうさっさと寝てしまえばいいんだ。
そう思った俺は夜9時も前だというのに、寝る気満々でベッドに転がって目をつぶった。
そうしたところで、ふと、斜め向かいの入院客が気になった。
男はベッドの脇に立って、窓から外を見ているようだった。
いや、実際に外は見えないので、窓の方を向いて立っているだけなんだが。
なんとなく気になって入院着の背中を見ていたら、ふいに振り返ったそいつと目が合ってしまった。
バツが悪くなって少し頭を下げると、そいつは挨拶を返すことなくじっと俺を見ていた。
思うところが色々ある、そんな顔だった。
もしかしてここに入って長いのかもしれない……
なんの病気でここにいるのか聞いてみたい気もしたが、吐き気もあって愉快な会話は出来そうになかった。
俺は反対方向に寝返りをうった。
そして、そのまま寝てしまった。
夜中、息苦しさに目が覚めた。
はっとしてまぶたを開けると、消灯した病室の天井が視界に飛び込んでくる。
その付近を、フワフワと青白い何かが飛んでいた。
ぼんやり光った雲みたいなのが、尾を引くように。
フワフワと。
夢かな。
……ああ、夢だな。そうに違いない。
そうじゃなきゃ、なんだというんだ。
目は開いているのに、体が動かない。
自らの意思で指一本動かせなかった。
この状況に肌が粟立ったが、俺は無理矢理自分を納得させて、再び目を閉じた。
翌朝。
明るい中で目が覚めた。
朝だ……良かった。
俺は心細くなって、斜め向かいの病室に目をやった。
あの男はいなかった。
もう起きたのか。トイレにでも行ったのだろうか。
俺もトイレに行きついでに、病室を覗いてみた。
温度と人気のない部屋。
まるで最初から誰もいなかったように、ベッドは綺麗に片付けられていた。
「……?」
ぽつんと、置き忘れられたように壁にかかるカレンダー。
何故だかいやに目に付いた。
そばに寄って見てみると、日付ごとに名前が書いてある。
父さん、母さん……あとは、名前がいくつか。
その走り書きのようなペンの跡は、俺がここに入る前々日の日付までずっと続いていた。
何を意味するのか分からなかったが、寒気がした。
部屋に戻ってベッドに腰掛けると、朝の見回りに来た看護師さんが顔を覗かせた。
ちょうどいいと、俺は尋ねた。
「向かいのあそこにいた人、もう退院したんですか?」
血圧を測っていた看護師さんは、俺の質問にいぶかしげな視線をあげた。
「あなたの前に入院していた人はいたけれど……」
そう表情を曇らせて、言いよどんだ。
「あの部屋に入っていた人がいるって、どうして分かったの?」
「……え? どうしてって……昨日から何回か見かけて。俺と同じくらいの歳ですよね?」
「見かけた……?」
思いもよらないことを言われた顔で、看護師さんは「冗談でしょう?」と笑った。
そして、信じられないセリフを続けた。
「今、この病棟に入院しているのは、あなただけよ」
耳を疑った。
「あの部屋にいた人は、あなたが来る前に亡くなったんだから――」
※法定伝染病に罹患すると、保険所が武装して押し掛け、家中を消毒して回る惨事に見舞われます。
発展途上国などへ渡航の際は衝動的な行動を取らないよう、くれぐれもご注意下さい。