長月の明けと、一枚のメモ用紙
・語句説明
「理会」
国語辞典:物事の道理を会得すること。悟ること。
個人的解釈:物事を理解し、自分の考えに取り入れること。
俺は、今の日常が嫌いだった。高校三年生。毎日、勉強。それは別に構わない。ただ、明らかに周りの人間が精神の衰退を見せているのが、嫌だった。俺は電車通学だが、その電車の中でさえ、ただ無表情に参考書と向き合っている姿がそこにはあった。電車の中には、勉強をしていない一・二年生もいるはずだが、まるでそうするのが当たり前かのように、全員が参考書と無表情で向き合っている、と俺を錯覚させた。
だから、俺はその日常から逃げてみたかった。九月のとある火曜日。何故か太陽が昇る前に起きてしまい、寝ることもできず、何もすることがなかった俺は、始発の電車に乗ってみようと思った。そう思ったら、何かが変わると確信して、すぐに行動を起こしていた。家族に書き置きして、歯を磨き、制服に着替え、朝食も食べないまま鞄を持って家を出た。自転車で駅まで進む。まだ暗いいつもの道は、いつもと違って誰もいない。自転車の車輪の音が、いつもより耳に大きく響く。ライトが、民家を照らしていく。アスファルトとタイヤが摩擦する音が聞こえる。いつもより少し遅いスピードで、走っていく。空を見上げると、月の姿は見当たらず、満天の星々がその存在を主張しあっていた。十分ほど走ったあと、駅に程近い橋を渡る。その後に続く軽い下り坂で少しブレーキをかけながら走っていると、その横を新聞配達のバイクが通り過ぎて行った。その騒音が耳に響く。それを振り払うと、駅に着いていた。
駅の改札には、誰もいなかった。自動改札なんて言葉とは縁がない、田舎の駅だ。ただ一つの売店もシャッターが下りている。俺は無人の改札を通り過ぎホームに出ると、缶コーヒーを買ってベンチに座った。九月の早朝はまだ暖かく、冷たい缶コーヒーを手で少し転がしたあと、プルタブを開ける。思ったより、プルタブの音は大きかった。少しコーヒーを口に含み、舌でよく味わってから飲みこむ。ゴクゴクと大きな音をたてて、体の中に取りこまれていく。携帯電話で時計を見ると、始発の時間まであと四分だった。缶をベンチの上に置き、鞄から英語の参考書を取りだして、残りの時間、それを読んだ。
遠くから電車の音が聞こえてきたので、参考書を閉じ、鞄にしまう。町に鳴り渡るその音は、ひどかった。缶コーヒーの残りを一気に飲み干し立ち上がると、ちょうど電車はゆっくりとホームに入ってきた。空き缶をごみ箱に入れ、電車に乗り込んだ。
乗客は、俺を除いて三人だった。一人は四十歳くらいの女の人で、ぐっすりと寝ていた。一人は二十台半ばの男の人で、汚れた作業着を着ていた。仕事帰りだろうか、こちらもやはり寝ていた。そうして、もう一人。
彼女を見たとき、俺は不思議な感覚に包まれた。俺と同じ学校の制服を着た彼女は、こんなにがら空きの電車の中で、壁を背にして立っていた。知らない顔なので、学年は違うのだろう。手には何かの本があり、それを読んでいるようだ。文庫カバーをしているから、何かの小説だろうか。俺は運転手に定期券を見せると、彼女の近くの席へと向かった。運転手は俺と彼女を見て少し首をかしげながら、運転席に戻っていった。
俺が座ると同時に、電車はまた走りだした。ホームでひどく聞こえた音は、電車の中ではほとんど気にならなかった。電車が動き出しても、彼女はページをめくるとき以外は身動きの一つもしなかった。電車の中は、ただ静寂だった。俺は所在なしに視線をあちらこちらへ動かす。紙が少し黄ばんだ広告がある。誰も座ってない座席がある。暗くて外灯やコンビニの明かりしかないが、外で流れていく風景がある――。
違和感に気がついたのは、トンネルに入ったときだった。今まで本を読んでいた彼女が、外をボンヤリと見ていた。外で流れる風景は、ただ暗いだけで何もない。やがてトンネルを抜けた瞬間、彼女は再び目を本に落とした。俺には、そのときその一連の行動を理解することは不可能だった。
次に彼女が再び視点を外に変えたのは、外の景色が海になってからだった。今はよく見えないが、海には低い堤防があり、浜辺がある。俺は彼女と同じようにボンヤリとその海、そして彼女を眺める。海の方はときおりどこからかのかすかな光が海面を映し、波の花がその儚い姿を見せてくれている。彼女の方は、どこか一点を見つめたまま動かない。見ているのは波の花か、空の輝きか。電車の振動で、鞄につけられた小さなストラップだけが揺れていた。
やがて電車は海を過ぎ、町中を走っていく。彼女はやはり、視線を小説に戻していた。これから電車はずっと町中を走る。もう彼女が外を見ることはないのだろう。そう考えると、途端に興味を失った。それと同時に訪れたのは、睡眠だった。
「もしもし」
――その声が聞こえたのは、まどろみの中だった。
「もしもし」
もう一度聞こえる。俺が目を開けると、彼女が目の前にいた。ほほ笑んだ顔が俺を覗きこんでいる。頬は少し赤く染まり、さきほど静かに外を見ていた彼女とはまるで別人だった。
「なんだ?」
俺は恥ずかしくなり、彼女から目を外した。そのとき見えた外の景色は、いつも見ている駅の近くのようだった。見覚えのある店の看板の明かりが目に入る。
「もうすぐ着きますよ」
彼女は俺を起こしてくれたようだ。こちらの存在に気づいていたのか。電車の中を見回すと、乗客はいつの間にか数人増えていた。彼女はつり輪につかまり、じっと俺を見ている。俺は気になっていたことを聞くことにした。
「それにしても、何でこんな早い時間に登校してるんだ?」
「あなたこそ」
彼女は相変わらず少し笑っていた。その表情はとても愛らしく……というか、可愛い。俺は少し恥ずかしくなりながらも、彼女の問いに答える。
「たまたま早く起きただけだよ」
「私もそうです」
今度は二人で笑っていた。登校するにはあきらかに早い時間の電車で笑う男女。周りの目からはどう見えることだろう。電車は徐々にスピードを落とし、やがて駅に到着した。彼女はつり輪から手を離し、俺は鞄を手に取り立ち上がる。他に降りる乗客はなく、俺たちは定期券を再び運転手に見せ、二人で駅のホームに降り立った。
駅にはやはり誰もいなかった。売店はシャッターが下りていて、駅員の姿もない。俺も彼女もこのまま静寂の街へと出る気がせず、彼女は駅のホームのベンチにそのまま座った。俺はコーラを買おうと百円玉と五十円玉を自販機に入れると、彼女の方を見た。彼女は鞄から水筒を取り出し、コップにお茶を注いでいた。まだ少し暖かいというのに、コップからは湯気が上がっている。それを見ていたら、いつの間にか自販機に入れた百五十円はお釣り受けに戻っていた。気恥ずかしくなり、彼女以外は誰もいないのはわかっているのに、誰か見ていないか周囲を確認したあと、再度二枚の小銭を入れ、ペットボトルのコーラを買ってから、彼女の隣に座った。さきほど乗っていた電車は、またあのひどい音をたてながら駅のホームを抜け、次の駅へと走っていく。二人でそれを無言で見送った。その音が聞こえなくなったあと、彼女は熱い茶を一口飲むと、俺に話しかけてきた。
「私、浦川朋子っていいます。一年生です。えっと……先輩さんですよね?」
「古井知也、三年だ」
「よろしくお願いします」
浦川は小さくお辞儀をした。短い髪が、重力にしたがってぱさりと落ちる。そうして、浦川の頭が上がると同時に元に戻った。
「ああ、よろしく」
俺はそう返事をした後、コーラのキャップを開ける。少し炭酸が抜ける音がした。……抜けないときはあるのだろうか。俺と浦川は特にすることもなく、声も発さぬままコーラとお茶を飲み続ける。とうとう俺は我慢できなくなり、話しかけてみた。
「本、何読んでたんだ?」
「島崎藤村の、千曲川のスケッチです」
「…………ふーん」
島崎藤村だけ、かろうじて理解する。もちろん、読んだことはない。とうぜんそこから話が広がることなく、静寂が戻る。しばらくすると、浦川は水筒を鞄にしまって立ち上がった。
「それじゃあ、古井……さん、行きましょうか」
浦川がとつぜん俺に手を伸ばして言う。
「どこへ?」
「ここではないどこかへ、です」
浦川朋子は、意外と気まぐれだった。
駅を出ると、正面は東だった。かすかにその空が明るい。そろそろ日の出だろうか。町を行き交う人も少しはいた。駅前の時計の針は四時四十五分を指している。俺と浦川は、その街を並んで歩く。空いている店はコンビニしかなく、寄るところもない。しばらく歩いたあと、俺たちは見知らぬ公園に着いた。
公園は小さなものだった。噴水もなければ、遊具もない。外灯が一つとベンチが一つ、木が一本ある。あとは名前も知らない草たち。入り口の方角以外は、家に囲まれていて、まるで閉じ込められているかのような感覚になった。俺はその暗い空間の前に立ちつくす。しかし、浦川はそれらを関係なしに一人ベンチに座り、俺を隣にと手招きしてくる。東の空へ昇るであろう太陽の光もここからではまるで見えず、外灯の光だけに照らされる俺たちはひどく脆弱だった。しかし、それらをいつの間にか心地よく感じていた。それはきっと、浦川がどこか楽しそうだったからだろう。そしてそれはきっと、俺がどこか楽しかったからだろう。それを意識したとたん、弱々しく光を吐いていた外灯は、まるで暗くなくなった。浦川は、カバンからまた水筒を出して熱い茶を飲んでいた。その姿はどこか可愛くて、やはり俺は楽しかった。
俺が浦川の左隣に座ると、浦川はどこか満足そうに小さくうなずいてから、かばんから一枚のメモ用紙を取り出し、それに何かを書き込んだあと、制服のポケットにしまった。俺がその様子をじっと見ていると、それに気がついた浦川は少しはにかんだ。何を書いたのか聞こうとしたが、教えてくれそうになかったので聞かなかった。その代わりに、別の話をすることにした。
「学校は好きか」
「好きですよ?」
即答だった。疑問形だったのは、質問が唐突だったからだろうか。浦川は屈託のない表情で、一つ欠伸をした。それを見られていることに気がつくと、少し赤くなりながらうつむく。しかし、すぐに顔を上げて、聞き返してきた。
「古井さんは好きですか? 学校」
「まあ、好きだな」
嘘ではない。学校自体は好きな方だ。しかし、浦川は微妙なニュアンスにすぐに気がついた。
「まあ、ですか?」
少し迷ったが、別に隠すことではないので、言うことにする。
「ほら、三年生って受験だろ? 周りの人間は勉強ばかりでさ。いや、別に勉強が嫌ってわけではないんだけど、なんていうか」
「大丈夫、わかります」
浦川は何を言わないでも俺の考えていることを瞬時に理会していた。
「仕方ないですよ、受験は……私も二年後ですね」
「ちゃんと勉強しておけよ、でないと俺みたいになるからな」
「成績、よくないんですか?」
「東大でB判定」
「すごいじゃないですか」
「……なのに、志望校のN大でC判定。受験科目が違うからな」
嘘のようだが、悲しいことに実話だ。なら東大に行けという話もあったが、それは何か違う気がした。一番頭がいい学校だからそこに行くというのは、俺の思想とは違っていた。……とはいえ、志望校に何か行きたい目標があるのかと聞かれたら、あまりないのだが……N大は地元の大学。ただ、知らない地に行くのがこわいのだろうか。俺には、俺だからこそわからなかった。全く馬鹿な話だ。
「N大ですか。奇遇ですね、私もそこ志望です」
「……一年なのに、もうそんなこと決めてるのか」
「ただ遠くに行きたくないだけですよ」
それは俺の考えを見据えたものなのか、それとも浦川もそう思っているのか。きっと、両方だった。
いつまで俺と浦川はそうしていただろうか。お日様はとうに東の空に昇り、暗かった公園も白く染まっていた。ここらの人だろうか、ときおり老人らが散歩をしている場景があった。時刻は五時半になっていた。
あれから俺は浦川にいろいろなことを話した。学校のこと、受験のこと、俺が住む町のこと、家のこと、俺自身のこと――。そして、浦川にも様々なことを聞いた。学校のこと、友達のこと、浦川が住む町のこと、家のこと、浦川自身のこと――。浦川の家は俺の家から意外と近く、電車の駅も俺より一つ前で乗っていただけだった。自転車で、二十分もあればいける距離。学校の中だと、歩いて二分で行ける俺たちの距離。しかしいまこのときまで、一度も交わらなかった距離。それが俺と浦川だった。そして今は――手を伸ばせば、届いた。
「どうしました? 知也さん」
俺の右手は浦川の左肩に触れていた。浦川はそれを嫌がることなく、自分の右手を重ねてくれた。
「いや……お前の肩、小さいな」
「知也さんの手は、大きくて暖かいですよ」
いつの間に、公園の外灯は光を吐かなくなったのだろうか。いつの間に、すずめは鳴きはじめたのだろうか。いつの間に、町は静寂を捨てたのだろうか。いつの間に、俺たちは脆弱でなくなったのだろうか。いつの間に、俺は浦川を好きになっていたのだろうか。
「そういえば……」
俺は思い出したかのように切り出した。本当を言えば、ずっと頭の中にそれがひっかかっていた。
「なんで電車の中で、トンネルと海のときだけ外を見ていたんだ?」
「見ていたんですか」
浦川は少しほほ笑んだあと、公園に一本だけの木を見上げた。日当たりが悪いだろう場所にある木は、それでも青々ときらめいている。
「別にとくに意味なんてないですよ、ただ……」
「ただ?」
「ほら、電車の中にいると、外がどんどん近づいてきて、すぐに遠ざかっていくじゃないですか」
「ああ」
「そこには、そこに住む人の営みがある、町がある。私はそれをあっさりと通り越していく、そう考えると嫌になって」
「……それで、人のいないところだけ外を眺めていたのか」
「もともと好きなんですけどね、外を見るのは」
きっと浦川は、バスの中などでも同じことをしているのだろう。俺は、浦川の話を理解はできた。理会はできなかった。でも、それでいいと思う。俺は浦川の肩に乗っていた二つの手のひらを重ね合わせ、立ち上がった。
「ほら、こんな公園より、もっといい場所に連れていってやるよ」
浦川はしっかり繋がった手を見ながら、「はいっ」と笑った。
公園から十分ほど歩くと、町で一番大きな川があった。横幅は二十五メートルくらいだろう。川はゆっくりと流れている。俺と浦川はその流れるリズムに合わせて、ゆっくりと土手に腰をかけた。海に近いからか、潮の香りが川の流れに逆らい、少し流れてくる。それを運ぶ風も若干強く、浦川の髪も少し揺れている。川面は日の光を吸い、吐き出している。土手に生える雑草たちが俺たちを包みこんでくれていた。
「制服、汚れてしまいますね」
そう言う浦川もスカートを守る様子はない。俺たちはガキの頃のように、その優しさに体を預けている。日常だった威圧感のある教室は遠く、そばにあるのは川のせせらぎと鳥の声と、浦川の息遣い。俺はいったい何をやっているんだろうとか、ただの逃避行動だろうとか、そんな言葉は何の意味も持たない。今ここに在るものを大切にしなければ、何の意味も持たない。これは俺のわがままだろうか。
「いいんじゃないですか」
俺がいつの間にか独り言のようにつぶやいていたら、浦川が答えを届けてくれた。
「いいんじゃないですか、それでも」
浦川は一つうなずいた後、言葉を繰り返す。その姿は可愛らしくて、力強かった。
「そっか、そうだよな」
俺も小さくうなずいた。浦川は笑ってから、少し控えめに、しかししっかりと、俺に肩を預けてきた。
ときが経つにつれ、町の声は大きくなっていった。それでも、川のせせらぎも、鳥の声も、浦川の息遣いも変わることはなかった。浦川は俺に体を預けたまま、いつの間にか寝ていた。こんなにも無防備でいいのだろうか。浦川の頬を押してみると、ぷにっとした感触と浦川のうなり声が返ってくる。ものすごく柔らかかった。……俺は何をしているんだろう。
「何をしているんですか?」
「うおっ」
浦川はいつの間にか起きていた。少し目を右手でこすっている。
「そりゃあ、頬つつかれたら起きますよ」
「ごめんなさい」
とりあえず、素直に謝っておく。何やっているんだろう、俺は。それでも浦川は怒ることなく笑っていた。陽の温もりは川を照らし、草木を照らし、人を照らし、町をも照らし、俺と浦川を温めてくれていた。その温もりを、俺は享受できるのか、できないのか。浦川はしばらく川面を見つめたあと、立ち上がった。
「さあ、行きましょう、知也さん」
俺は浦川を見上げた。やはり浦川は、暖かかった。
俺と浦川は二人で学校に向かった。その時間はどこかもどかしくて、二人で手を繋いだり離したりしていた。町の声は騒がしく、それでもそれは俺と浦川にとって、綺想曲だった。浦川はやはり気まぐれで、まるで猫、とまではいかないまでも、学校に着くまであっちに行ったりそっちに行ったりしていた。一つの商店街を形成している通りで、開いてもいない店をガラス越しにウインドーショッピングしてみたり、家の塀と塀の隙間にいる猫と遊んでみたり、俺と手を繋いだり繋がなかったり。俺はそれを見ているだけで楽しくて、こんな気持ちで学校に行けたのは本当に久しぶりで、浦川に感謝していた。そんな浦川は、今は俺の隣におさまっている。出会ったときと今ではかなり印象が変わった気がするが、そこにいるのはやはり浦川だった。
やがて、浦川との時間は終わった。学校に着いたのだった。浦川は少し寂しそうに――見えたのは俺の錯覚だろうか――俺から離れて、靴箱に歩いていった。俺の耳に「また明日」と声を残して。
数分後、俺はポケットに一枚の紙が入っていることに気づいた。それは、公園で浦川が何かを書いていた紙だった。そこには、浦川の携帯の電話番号とメールアドレス、住所が書かれていた。その番号をすぐに自分の携帯に登録してから、俺は自分の教室に向かった。教室は、驚くほどに明るかった。
学生時代、田舎町で電車通学していた経験と、その電車に乗っていたとある人(面識なし)のイメージを、自分の創造で味付けしたら出来上がった作品です。
島崎藤村先生、すみません。