殿の決断
「殿、物見の者が戻って参りました」
「うむ」
「敵方の大将は、羽柴筑前上秀吉殿。総兵力は三万五千あまり。桃栗山を本陣と致しまして、鶴翼の陣構えに御座います」
「うむ、大儀であった。下がって休め」
「殿、いかがなさいますか?」
「殿・・・」
「殿・・・」
幾人もの家臣達が、甲冑を震わせながら殿に歩み寄る。
この殿とは、備前大瀧城城主長船永春であり、今、織田信長の中国攻めの先方、羽柴秀吉の軍勢に、まさに城を取り囲まれんとしているところであった。
ただこの城主は、戦国の世にあっては決して英傑と呼べるほどの器ではない。
むしろ安穏とした日常を好み、歌や茶の湯といったことに趣を置くタイプである。
まあ、その分、国は栄えないまでも不満をもらす者もなく、俗に言う『良き親方様』といったところなのだ。
しかし、愚鈍な殿に過ぎたる家臣があるかのごとく、家老はじめ、家来の中には備前に駿馬ありとうたわれるほどの逸材が何人もひしめいていた。
最初に口火を切ったのは、若手家来衆の一人、猪熊早八郎である。
「恐れながら、殿に申し上げまする」
「なんじゃ、早八郎」
「羽柴筑前殿は、すでに本城を囲む備前の諸城を、ことごとく調略とのこと。殿の親戚筋に当たりまする長船勝豊殿も、すでに敵の内。さすれば、ここは一戦、真正面から仕掛け、備前侍の意地と面目を見せるべきかと存じます」
「周りの城は、すでに調略されたか?」
「ははあ」
城主永春は別に落胆するわけでもなく、慌てるわけでもない。言うなれば、この状況を正しく分析する能力に欠けているのである。
「羽柴筑前め。あの百姓出の、成り上がり者がしそうなことだわ」
城主は苦々しいといった感じで唇をかむと、腰の刀に手をかけた。
猪熊早八郎はじめ周囲の者は、この殿の行動に覚悟を決めた。
「殿!」
「殿!」
「これで、死に場所を得たわ」
家臣の中には、刀の鍔に水をかけ、早くもいきり立つ者もいる。
「あんや、しばらく・・・」
若手侍の気勢を削いだのは、一番家老の溝口安衛門である。
「殿、敵方は三万有余に対し、御味方はニ千。負けるをわかって攻めるは、愚の骨頂。ここはひとつ籠城にて、まず、敵の出方を伺うが得策かと存じます」
「ご家老、何を申されます。籠城して勝つ戦などありませぬ」
すかさず、早八郎が噛み付く。
「安衛門、我が方はたったのニ千と申すか?」
これには、家臣のほうが驚いた。
城主たるもの、自分の兵力も知らないで、戦を仕掛けようとしていたのかと・・・
安衛門は続ける。
「兵糧、薪など、すでに籠城に必要なものは、すべて城下より城内へと運んでおりまする。ここで耐えれば、必ずや、毛利の援軍が来るはず」
「殿、耐えて戦うも兵法のひとつ」
「殿!」
老臣達はこぞって、打って出ることの不利益を説く。
「安衛門。余は籠城するぞ」
「ははあ」
「殿、お待ちくだされ。先の播磨、姫崎城の有様をご存知か。籠城を決めた後、城は水攻めにあい、一年を費やしたのです。その間、城内では兵糧がつき、餓死で死するもの多数、最後には死人の肉をも食らう有様、うっうっうっ・・・」
早八郎の言葉は、涙で途切れた。
「まことか、早八郎」
「殿、姫崎城と我が城では備えも違いまする。また、井戸も枯れることが御座いませぬゆえ、姫崎城のようにはなりませぬ」
「それを聞いて安心したぞ、安衛門」
しかし、この後も、決断は二転三転した。
家臣の中には、織田方に和睦を申し入れようと言う者もあったが、結局どの案にもまとまらず、城主永春はいったん奥へと下がってしまった。
猪熊早八郎はじめ、若手家臣達は、老臣達に尋ねた。
「如何にするのが、生きる道かと」
返して溝口安衛門はじめ、老臣達は改めて若手家臣達に尋ねる。
「如何にするのが、生きる道かと」
二時ほどして、永春がみなの前に現れた。
心なしか、晴れ晴れした顔をしている。永春は家臣達に向かって決断を下した。
「余は決めたぞ。取りあえず、城を出て戦う。しかし、深入りしては元も子もない。槍合わせだけしたら、城に立て篭るのだ。籠城は、三月もすればよいであろう。その間は十分兵糧を食わしてやれ。その後、和睦を申し入れるのじゃ。さすれば、いずれにも角が立たんというものじゃ。どうじゃ安衛門、余の案は?」
「・・・」
「早八郎、そち達だけを戦わせわせぬぞ。余も先陣を切って、敵に一泡吹かせてやるつもりだわ。どうじゃ、早八郎」
「・・・」
そこに、敵である羽柴方の早馬が駆け込んできた。
「方々《かたがた》に申す。我が主羽柴筑前上秀吉が言上、お伝え申す。
一つ、大瀧城城主、長船永春殿の首と引き換えに、家臣一同はじめ、領民にいたるまでの命を安堵する。これに従わぬ場合は、明朝より、力攻めをするものとする。
一つ、今後家臣一同は、我が主羽柴筑前上秀吉殿の傘下に入るものとする。
一つ、領民については・・・」
使者は一言一句間違えぬように、主人羽柴秀吉の約定を言葉に代える。
主のみを切り捨て、臣民を助けることで、まずは民の心をがっちりと掴む。いかにも秀吉らしいやり方である。
しかし、城主長船永春は嘲笑しながら使者に言い返す。
「笑止千万。あいにく我が方は意気盛んなり。余の首を指し出して、生き残ろうとする者など一人もおらぬわ。攻めたければ攻めて来るがよい。余はこの者達と、城を枕に討ち死にする覚悟じゃ。のう、早八郎。安衛門!」
「・・・」
「・・・」
家臣達は、みな口々につぶやいた。
「ご家老、どうかご決断を!!」