宗右衛門の誤算
「旦那はん、お言いつけどおり奥のお座敷にお通ししておきました」
「はいはい、では行きましょう。さてと、猿との初対面じゃな。果てさて何が飛び出すやら・・・」
ここは堺でも指折りの商人、寺田屋宗右衛門の屋敷である。
寺田屋は代々武具や馬具を大名に卸す商いをしており、最近では南蛮渡来の鉄砲も手広く扱っている。
主人の名は宗右衛門。
寺田屋では代々この名を世襲するわけだが、今の宗右衛門は先代より数えて四代目に当たる。
外見は、とてもそれが堺の大商人の主人という風体には見えず、貧相な体つきをしている。かろうじて神経質そうにくぼんだ目の奥の輝きとその目尻から連なる幾本ものしわだけが、堺の商人たるを物語っていた。
そんな男のところへ、今朝は早くから一人の武将が訪ねてきていた。
「えろうお待たせしましたな。主人の寺田屋宗右衛門で御座います」
「いや~、朝早くからすまんの。拙者、織田上総介信長殿が家臣、羽柴秀吉で御座る。お初にお目にかかる」
訪ねてきた武将とは、いまや洛中はもとより堺でも知らぬ人などないと言う、羽柴筑前上秀吉である。そのうえ、彼の主人は、今まさに天下に号令せんとしている織田信長であるのだ。
宗右衛門は眉一つ動かすことなく、慇懃に頭を垂れてみせる。堺商人の意地と誇りが宗右衛門にそうさせたのである。
しかし、それだけではなかった。正直言って宗右衛門には、この足軽上がりの秀吉が、はたしてどのくらいの器量の持ち主なのか、疑わしい気持ちもあったのだ。
宗右衛門は茶を点てると、静かに秀吉の前にとその茶碗を置いた。
「かたじけないの」
秀吉は片手で茶碗をつかむや、音を立てて一気にその茶をすすった。
「うまいのお、京より夜通し馬を飛ばしてきたものでの、本当にのどが渇いておったわ」
この誰にでも屈託のない接し方こそが、秀吉の人として好かれるところでもあり、また人を懐柔するために得意とするところでもあった。
ところが、そんな秀吉の振る舞いを、宗右衛門は少しも快く思わなかった。と言うよりも、むしろ不快にさへ感じていた。
(作法も知らん猿が・・・)
しかし、それでも宗右衛門は商人の端くれ。まったく意に返さずといった面持ちで静かに頭を下げる。
「ところで、その羽柴筑前上秀吉様が・・・」
「あ~、筑前でよい、筑前で」
秀吉にとっては、茶を一杯飲んだだけでも、すでに旧知の仲のような振る舞いができるのである。
時としてそれは、人をたらし込む手段として使うのだが、この場合、元来持って生まれた人懐っこい性格といえるであろう。
「それでは筑前殿。このたびは、どのような趣きで、遠路はるばる堺まで」
秀吉はぐっと身を乗り出すと、宗右衛門の耳元で《《小さな扇子》》を開き、小声で答える。
「実はの、拙者、此度は中国の毛利攻めと相成った。毛利はいささか手強い。そこで武具・馬具・兵糧から薪に至るまで、もう少し揃えようと思ってのお。もちろん、南蛮は言うに及ばずじゃ」
秀吉のその言い方に、宗右衛門は一瞬ぎくりとした。
なぜなら、宗右衛門は以前、毛利氏に数十丁の鉄砲を納めたことがあったからである。いくら以前の事とはいえ、いま織田と毛利とは敵同士、おおやけになればただで済むはずがない。
秀吉は、すべてを見透かしているかのような眼差しをすると、更に続けた。
「金はない。だが、必ず後で払う。このわしを助けると思うて力を貸してくれんか」
「恐れながら、織田様には、堺に今井宋久殿がついていらっしゃるとお聞きしておりますが。とても私どものような者が入る余地は・・・」
宗右衛門の中では、すでにそろばんの駒が、けたたましく音を立て始めている。
秀吉は立膝のまま後退りすると、両手をついて宗右衛門にこう言い放った。
「信長様では御座らぬ。この羽柴秀吉にと申しておるのだ」
宗右衛門は思った。
(直接織田殿との商いでなくとも、決して悪い話しではないな。ましてやこの猿、いや秀吉と言う男、案外使えるかも知れんな・・・)
宗右衛門は少し背筋を張ると、さらに毅然とした口調で問いかける。
「筑前殿のお心はわかりました。ただ、こちらも商人。利のない商売は致しません」
「ごもっとも」
「どうでっしゃろ。鉄砲などの御代は後払いということで、代わりに一つ買うてもらいたいものがあるのですが」
そう言うと、宗右衛門は秀吉のそばに転がっている先ほどの茶碗を拾い上げた。
「この茶碗を一つ買うてはもらえませぬか」
「この茶碗を?」
「そう、この宗右衛門の茶碗に、筑前殿はいくら払うてもらえますかな?」
なるほど、一つの謎かけである。当然、どう見てもただの湯のみ茶碗にしか見えない。
こんな茶碗一つに、秀吉はいったいどれだけの価値を付けるというのか、宗右衛門は秀吉の自分に対する信頼の深さを、この謎かけで確かめようとしたのである。
彼は頭を抱えて悩む秀吉の姿を想像した。が、意に反して、秀吉はすっと人差し指を一本上げると、にやりと笑った。
「城、ひとつ」
「城ひとつ?」
「左様、城一つでも惜しくない。ただ今はあいにく金がない。手持ちの二百貫を置いてあとは後日」
秀吉は懐から銭を鷲づかみに取り出すと、宗右衛門の前に差し出した。
「はっはっはっ、なんと言うお人だ。まったく筑前殿には負けましたな。この宗右衛門、今後は羽柴筑前上秀吉様のため尽力いたしましょう」
いつの間にか、宗右衛門もこの秀吉の人柄の虜になってしまったらしい。
それでも、それに見合うだけの商いが出来そうだということも、自然と彼の顔に笑みを作ってしまったのである。
帰り際、宗右衛門は庭に咲く一輪の女郎花を秀吉に手渡した。
「羽柴様、もっともっとご活躍くださいませ。あなた様はきっと天下を取る方かと存じます」
「これ、めったなことを言うではない。天下様は信長様であろうが」
秀吉は宗右衛門の言葉をたしなめたが、表情は心なしか笑っているようにも見えた。
帰りの道中、秀吉は供回りのものに、寺田屋での一件を話して聞かせた。
「殿を試すとはなんと無礼な、これから戻って宗右衛門を切り捨てる」
足軽頭の填島貞則などは、馬の踵を返さんばかりの勢いであったが、秀吉はそれを許さなかった。
その後も、秀吉は宗右衛門の言葉通りよく働き、そして手柄を立てた。当然その影に、寺田屋宗右衛門の働きがあったことは言うまでもない。
ところが、ちょうど秀吉が備中高松城を水攻めにしていた時のことである。誰も予期せぬ事態が起きた。
織田信長が逆臣明智光秀によって討たれてしまうという、世に言う『本能寺の変』である。
ことを知った宗右衛門は、すぐさま秀吉に手紙を送った。
秀吉は宗右衛門からの手紙を見るや否や、すぐさま行動に出た。この後のことは細かく書くまでもないが、中国大返しを成功させた秀吉は、山崎の地、天王山にて信長候の怨敵明智光秀を打ち破ることとなる。
さらに、信長の跡目相続を決める清洲会議では、幼い三法子の擁立を企て、織田家臣団の中での地位を確固なものとして行ったのである。
そんな秀吉もほんの束の間、彼の居城である長浜城に戻っていた。
大広間には、先程から一人の男が、身動き一つせず座っている。
秀吉はつかつかと歩み寄ると、この男に一声かけながら上座へとついた。
男はなおも恐縮した面持ちで、カメムシのように頭を深く垂れている。
「宗右衛門殿、良くぞ参られた。さあさ、面を上げられよ」
「・・・」
宗右衛門は、まだひれ伏したままでいる。はいそうですかと頭を上げられるものではない。
宗右衛門にも、始めて出会った時の秀吉と、いま目の前にいるそれとが、自分にとって同じ立場の人物でないことぐらいはすぐにも計算できる。
秀吉は、親しみを込めた口調で続ける。
「毛利攻めでは世話になったの。この秀吉礼を申すぞ」
「もったいないお言葉でございまする」
宗右衛門は、目を伏せたまま答えた。
「宗右衛門殿、わしと貴殿の仲じゃ、かまわぬから面を上げられよ」
こうまで言われても上げぬは、かえって失礼。宗右衛門はゆっくりと頭を上げた。
そこにはいつぞや出会った時とは違う雰囲気の秀吉がいる。
「実はの、これは付け髭での」
秀吉はそう言うと、鼻の下にたくわえた髭を取って見せる。その下からは、あの時と同じような人懐っこそうな顔が出て来た。
思わず宗右衛門は、皮肉の一つでも言いたい気持ちになったが、もちろんその言葉は腹の奥に飲み込んだ。
「まったく、いつの間にか周りが騒がしゅうなったもんじゃて」
秀吉は《《大ぶりの扇子》》を扇ぎながら、宗右衛門に近づいた。宗右衛門が慌てて中腰になり、立ち上がろうとするのを制すと、秀吉は彼の耳元でこうつぶやく。
「今度は北国の大鬼がうるさくての、また春には戦じゃて」
「ははあ」
「鉄砲も千、いやニ千は必要かの」
もちろん北国の大鬼とは、織田家の重臣柴田勝家のことであり、清洲会議後、まさに秀吉とは犬猿の仲となっていたのである。
「この寺田屋宗右衛門、羽柴秀吉様のお役に立てることでしたれば、如何様なことでも」
当然宗右衛門にも、今度の戦が何を意味することなのかは、十分過ぎるほどわかっている。
目の前にいる秀吉が天下を取れば、すなわちそれは、宗右衛門自身、天下一の商人ということにもなるのだ。
宗右衛門は立膝のまま後退りすると、両手を深々と突いて秀吉にこう言った。
「たとえ国中の武具馬具、鉄砲・弾薬をと申されましても、この寺田屋宗右衛門、必ずや取り揃えてご覧に入れましょう」
「これは心強い言葉。これで秀吉、勝ったも同然じゃて」
「御意!」
「ただのお、宗右衛門殿。近頃この秀吉との商いをと願う者が多くての、ほとほと困っておるところじゃ。ここはひとつ、宗右衛門殿の心根を、この秀吉に聞かせてもらえないもんかのお」
「ごもっともで御座います。して、手前は何を・・・」
秀吉はニタリとその黄ばんだ歯を見せると、やおら袴の裾を捲し上げ、その中から褌を引きずり出した。
彼はそれを、宗右衛門の肩に掛かるように放ると、凍るような声で囁いた。
「宗右衛門殿。この秀吉の褌ひとつで、いったい何丁の銃が買えるかの?・・・」