伊賀者の性
その者は大和国、信貴山城が城主松永久秀に召抱えられた。まさに異例ともいえる破格の抜擢である。
異例と言うのもこの男、ついこの間までは伊賀里の忍者であったのだ。
ただ正確に言うのならば、今でもその方の役目はこなしているという。しかし、身分はれっきとした侍となったわけである。
理由は至極単純。先の戦のおり、窮地に陥った久秀を、無事に彼の居城でもある信貴山城まで脱出させたことによるものなのだ。
まあ、表向きはそうであっても、要は謀略好きの久秀にあって、この伊賀者は是非とも手元に置きたい駒のひとつでもあった訳である。
城の大広間では、これから評定が始まろうとしていた。先程から家臣一同、城主の松永弾正久秀が着座するのを首を長くして待っている。
「それにしても、殿はどのようなお考えから、あのような卑しき者を召抱えられたのかのう」
老臣の一人、片岡忠三衛門が囁いた。
戦国の世にあって、忍者は大名に仕えるこれら武士からは大いに毛嫌いされていた。
何故ならそれは、彼らの役割が戦の陰の部分、すなわち諜報や流言・飛語、放火そして暗殺などと、どうしても暗いイメージとして付きまとってしまうからであり、『潔しを尊ぶ』とする武士にとってこれは、どうしても受け入れられないものだったからである。
「鉢山杉ノ真という名も、はたして本名であろうか?」
別の若侍が続いた。
事実、本名ではなかった。
当然である。もともと忍者には、姓名がそろっている者など、ほとんどいないのだ。
たいていは、亀とか雉などのように、生き物の名前を付けるか、岩や雲などのようなものなのだ。変わったところでは、耳とか火炎なんてものもあった。
この男も、彼らの間では『杉』と呼ばれていた。
伊賀国にある、鉢山という山の麓で生まれた『杉』なので、鉢山杉ノ真という訳なのである。
スギこと鉢山杉ノ真は、感情のない能面な顔を上げると、この者達を冷ややかな眼で見つめる。と同時に、彼らの耳元では『拙者の名は杉で御座る』と、はっきりと声が聞こえて来た。
「な、なんと・・・」
皆はそれぞれに顔を見合わせたが、同時に冷たい汗が背中をひとつ流れていくのを感じた。
なにせ、こちらの声が聞こえるはずがないのだ。
彼らと杉ノ真との間は、少なく見積もっても四軒は離れている。それだけではない。彼は唇すら動かしていないのに、確かにその声が聞こえて来たのである。
「どうせ、読唇・盗聴の術でも使っておるのであろう」
先程の若侍、稲垣又兵衛は強がって見せたが、その実何とも気持ちの良いものではなかった。
そうこうするうち、城主松永久秀が、その重い体を肘掛に横たえ着座した。
もともと久秀は多くを語るタイプではない。面倒くさそうに口を開けると、家臣に結論だけを告げる。
「こたび、信長を打つ」
久秀にとっては二度目の反逆である。
かつて一度、足利義昭と共に信長に反旗を翻したことがあったが、その時はなぜか信長にその罪を許された。
家臣達は、我が耳を疑った。
それもそのはずである。今や信長と言えば安土の地に巨大な城を作りつつ、まさに天下に号令せんとするほどの勢いであるのだ。いくら、大和一国を任されているとはいえ、その力の差は歴然としているからである。
誰もが久秀の下知に疑問を抱いた。と同時に、その理由を彼意外に見つけようとしたのである。
「あやつは殿に、人の心を操る術でも掛けたのか」
稲垣又兵衛は頭を下げたまま、声にもならぬ声でうなった。
他の重臣達も、鉢山杉ノ真の背中に、つき刺さるような眼差しを送る。
「気をつけよ。奴は背中にも目がついておるそうな」
老臣片岡忠三衛門は、吐き捨てるように呟いた。
実際、この日を境に松永久秀の行動は、日を負うごとに奇異なるものへと変わっていったのである。
ある時は、甲冑を付けたまま湯浴みをしたかと思えば、真夜中に突然陣ぶれ太鼓を打ち鳴らしたこともある。
そしてついには城内の大廊下にて、女中の一人を矢で射抜いてしまったのである。
そのたびごとに、家臣はあの杉ノ真のことを噂する。勿論その根拠などあろうはずはない。
「奴は鳴き廊を歩く時も、音を立てたことがないとか」
「部屋に入ってすぐ、影だけを残してそのまま姿をくらましてしまった」
はたまた、
「奴が食事をするのを見たことがない。噂によると、あやつは人が食わぬものまで平気な顔をして食うそうな」
噂は止まるところを知らない。
当然最初の内、これは噂の範疇でしかなかった。
いや、事実はそうであったのかもしれないが、実際には誰も杉ノ真のそんな姿を見た者などなかったのである。
また、易々と目撃されるほど杉ノ真も下劣な忍者ではなかった。
しかし、噂は益々大きくなっていく。
近頃城内では、とんと鼠の姿を見なくなったというのである。
ついこの間まで、蔵の穀物や部屋の天井を我が物顔で闊歩していた鼠共が、一匹もいなくなってしまったのだ。
「奴は、小動物まであやつることができるという。きっと、どこかに隠して、飼っているのだ」だとか、
「あの伊賀者が、夜な夜な鼠共を捕まえては、食っているそうな」
しまいには、こんな奇怪な噂まで流れ始めた。
ところが、当の本人はいたって涼しい顔をしている。
もともと感情を表さない彼ら忍びの者にとっては、心の喜怒哀楽など、蚊に刺されたほどにも感じないのだ。
ところが普通の人間には、そんなことまでもが、また新たな懐疑心となって噂を作ってしまうのである。
城主である松永久秀に訴えようにも、今ではその本人までもが狂っているのだ。
家臣達は自分の押さえようもない心のやり場を、この伊賀者にぶつけることで、かろうじてこれから迫り来る本当の恐怖から開放されることを望んでいたのかもしれないのだ。
やがて、その恐怖の瞬間が訪れる日がやってきた。
織田信長はその子信忠を大将に、数万の兵を持って信貴山城を幾重にも囲んだのである。もはや蟻の這い出る隙間もない。
城内では乱心するものも中にはいたが、むしろ、家臣のほとんどがこの日を冷静に受け止めようと落ち着いていた。
老臣片岡忠三衛門は、半分死人と化した城主松永久秀を伴うと、城の天守へと上がって行く。稲垣又兵衛はじめ、多くの家臣もそれに従う。
それから半時後、天地に轟くほどの大音響と共に、信貴山城の天守閣は跡形もなく吹き飛んだ。つまりは、自爆をしたのである。
もちろん、久秀が所有し、信長が咽から手が出るほどに欲しがっていたという天下の名器、『平蜘蛛茶釜』もこのとき露と消えた。
それからひと月後、京の町を大きな包みを背負い、無表情に歩く一人の男がいる。
そう、あの杉こと鉢山杉ノ真である。
彼は古物商の前で足を止めると、おもむろに背中の包みを紐解いた。
「おっ、お侍様、こ、これは・・・」
古物商の主人は、腰を抜かすほど驚いた。
それもそのはずである。彼が背負っていたのは、あの漆黒の平蜘蛛茶釜であった。
杉ノ真は何も語らずに、その主人の目を見詰める。
「わかりました。すぐにご用意いたしましょう」
そう言うと、主人は店の奥から、二重の袋に包まれた金の塊を持って来た。人目をはばかるようにそれを手渡すと、小声で彼に尋ねる。
「お侍様、このことは誰ぞ他に・・・」
杉ノ真は、なおも唇を動かすことがない。
「それを聞いて、この私も安心いたしました。では、くれぐれも道中お気をつけて」
しかし主人には、杉ノ真の言葉がはっきりと聞こえていたのである。主人は慇懃なほどに頭を下げて見送る。
だがもう、そこに彼の姿はなかった。
杉ノ真には、城から鼠がいなくなった時、もうすでに全てがわかっていたのである。
この城の寿命もあとわずかだと。いや、それよりももっと前、久秀が信長に反旗を翻した時からかもしれない。
かといって、杉ノ真には、主人松永久秀と共に殉死するなどという気持ちは、微塵も考えつかなかった。
そう、なぜなら彼は根っからの伊賀者なのだから・・・