棚田の一本槍
越前は北ノ庄の外れ、九頭竜川の山間に遠野目いう棚田がある。
棚田の数はわずか二百数十枚ほど。決して大きなものではない。
その一角に又兵衛の田もある。目の不自由な母親と二人暮らしの彼には十数枚の棚田を耕すだけでも十分である。
又兵衛には夢がある。
それは彼がいつも棚田に出るとき、畦の真ん中に一本の朱槍を立てていることからも容易に知ることができた。
彼が持つ朱槍は長さ二間半、穂先の刃渡りは十一寸というものである。真鍮の石突きには鯨のひげが巻いてある。
剛力の者でも容易には振り回りことなど到底できないと言う代物であった。
まさに時は戦国の世。
又兵衛はこの越前国を治める朝倉義景から、戦の動員が掛かることを心待ちに待っていたのである。
「又兵衛さ、今日も精が出るなあ」
「又兵衛や、そっちの畦かきが終わったら、こっちのも頼めんか」
「又兵衛どん、荷車のわっぱを直してもらえんかのお」
「又兵衛さん・・・・ 又兵衛さん・・・」
と言う具合に、いつでも何処へ行っても剛力の又兵衛は村の者からたいへん頼りにされていた。
当の又兵衛も、嫌な顔ひとつするわけではない。
六尺七寸という大きな身体から汗を吹き出しては、あちらの田こちらの田と一日中飛び回っている。
もちろん、村人らもそんな又兵衛に感謝の言葉を述べるだけではない。彼が棚田から帰る頃には川魚や薪、畑でとれた野菜などをいつも携えてくる。
中には、彼の母親の看病をかって出る者さえいた。
又兵衛はそれらを朱槍の先に吊すと、母の待つ家へと帰って行くのであった。
その日も又兵衛は、その自慢の朱槍をゴシゴシとしごくと、畦の真ん中に突き立てた。
こうすることで、村の誰もが彼の居る場所を知ることができ、なるほど彼のその朱槍は棚田のどこからも望むことができる。
「又兵衛さ、また加賀の一向宗が動いたそうじゃ」
村の長老である治平じいの言葉に、又兵衛も眉を少し動かす。
「お殿様からお呼びが掛かれば、この槍で成敗するまでじゃ」
「お殿様は兵を出すのじゃろうか?・・・ まったく、田植えの前だと言うに困ったもんじゃのう・・・」
村一番の棚田を持つ茂吉じいは、西の空(朝倉義景の居城一乗谷城がある)を見上げてはひとつ深いため息をついた。
「又兵衛、おら達のことは心配するでねえ。お前のおっかあの面倒もおら達がちゃんと見てやるで。お前は立派に槍働きさして、出世するんだぞ!」
「ほんに、又兵衛ほどの槍の使い手なら城持ちになれるのも夢じゃねえだ」
又兵衛は返事をする代わりに、二度その槍先を東の空に向けて突き上げた。
しかし意に反して、いつになっても義景から徴兵の命は下らなかった。
又兵衛は重い朱槍を小さな苗木に持ち替えては、棚田を緑に変えていく。
「又兵衛さ、雲行きが怪しそうだが、今日はこれでしまいとするかあ?・・・」
治平は幾らかのドジョウが入った網篭を又兵衛に差し出した。田植えを手伝ってくれた彼へのお礼なのだろう。
「茂吉じいさんのところを、あと二枚植えてからあがりますわ」
又兵衛は槍を天秤代わりに束ねた苗をその両端に吊すと、茂吉じいの棚田へと急ぐ。
「又兵衛さ、いつもすまねえな。じき雨も来そうだで、一枚植えたら今日はあがることにするべ」
「おいらは大丈夫だで、二枚仕上げてから帰るだに、すまねえが、おっかあに夕飯を食わせてやってくれんかのお・・・」
そう言いながら汗を拭う又兵衛の額に、ぽつりぽつりと春の雨があたった。
一度降り出した雨は、その後三日間降り続いた。
棚田にとっては恵みの雨ではあるが、治水堤のない九頭竜川にとっては時として、思いも及ばない災害を起こすものでもある。
「まったく棚田にとっては有り難い雨じゃが、伊田の堰は大丈夫かいのお?」
茂吉の言葉に治平も続く。
「庄屋さん、川下さ住んでいる者だけでもここへ呼んだらどうかのお?」
「しかし、今日はもう辺りもすっかり暗いで、明日の朝になったらみんなを呼んできてくれんか?」
庄屋の徳蔵も治平じいの言葉に賛同し、家の奉公人達にそう伝えた。
雨はいっそう激しく、遠野目の棚田へと降り続いた・・・
日も移り変わろうとする頃だっただろうか、ゴーッという地響きのような音と共に鉄砲水が川下の家々を襲った。
ついに井田の堰が切れたのだ。
庄屋の家に居合わせた長老達もその音に慌てて目を覚ました。
しばらくすると、川下に住む長治郎という若者が駆け込んできた。彼の脚は真っ黒な泥にまみれている。
「庄屋さん、川下の家が、てっ、鉄砲水で流されているだ・・・」
「川下っ、長治郎、又兵衛のところもか!」
徳蔵は身を乗り出すように尋ねるや、すぐに奉公人達を呼び寄せた。
「すぐに人を集めなさい。又兵衛達を助けにいかねば・・・」
降りしきる雨の中を、治平や茂吉もそれに続いて行く。
「又兵衛―っ!」
「又兵衛―っ!」
棚田の村人達は簡素な松明を手に手に、濁流の中に傾きかけている又兵衛の家を照らし出した。
鉄砲水はいくつもの家屋や木々を飲み込みながら、轟々と音を立てて流れている。
「庄屋さん。又兵衛さの屋根の上に誰かおるぞ!」
「ばあさまじゃ! 又兵衛のおっかあじゃー!」
村の者は縄をつなぎ、手に手を持って必死の思いで又兵衛の母親を助け出した。
「ばあさま、又兵衛はどこじゃ! 又兵衛は何処におるんじゃあ!」
「・・・・・」
「あぶねえぞ、又兵衛の家が崩れるぞー」
「又兵衛―っ!」
次の朝、遠野目の棚田はまぶしい朝日に照らされた。
昨日までの雨が、まるで嘘であったかのように棚田の苗も緑の風に揺れている。
「又兵衛さは鉄砲水で家が傾きかけると、ばあさまを崩れかけた隙間から屋根の上に上げて、自分は流れる水の中でずっと梁を支えていたそうじゃ」
「は、梁を・・・ ばあさまを助けるためにか・・・」
「・・・・・」
「・・・で、又兵衛は?・・・」
「・・・・・」
「又兵衛っ・・・」
治平も茂吉も、今は静かに流れる水の流れの中に、いつまでも又兵衛のその姿を探していた・・・
そして季節はかわり、越前にも少しばかり早い夏が訪れた。
まだ色付いてはいないが、稲穂も少しずつ大きくなってきたようだ。遠野目の棚田は、前にも増していっそう濃い緑に染まっている。
間もなくして、城主の朝倉義景から徴兵の下知がくだった。いよいよ一向宗との戦が始まるらしい。
あの戦嫌いの義景も、やっとその重い腰を上げたのである。
今日も遠野目の棚田には、一本の朱槍がその畦道に立っている。
それは、この棚田のどこからでもはっきりと望むことができた・・・