第七章 二人だけの彼方へ
―――これより沖島海歌が鷺の血族に連なる者として、弧道草月へ異なる理の一を教授する。
異なる理、と彼らは言った。
―――本来この世界には存在しない、別世界の法則とされています。
この世界のものとは違う法則なのだと、説明された。
だからきっと、これは……。
(あー、死んだ。無理だこれは)
草月はいっそ投げやりな気分で、迫る光の壁へと対峙する。球ではなく、それはもはや壁だった。
回避不可能な死を前に、心は驚くほど凪いでいた。
恐怖はない。ただ安らかな喜びに満ちている。
(いるんだな、俺より凄いの。そりゃそうか)
諦めや敗北感すらすがすがしい。肩の荷が降りて、全身をがんじがらめにしていた糸が解け、羽が生えたかのように心が軽い。
死は救済だ。
ずっと生きるのが苦しかった。
うつろに塗れた日常に嫌気がさしていた。
それが終わる。自分より強い者との戦いの中で死ねる。そんな幸福は他にない。
これが望んでやまなかった己の最期だ。最高だ。
「……無茶、言いやがって」
ギリ、と奥歯を噛みしめる。
ずっと一人だった。孤独で苦しかった。助けようと伸ばされた手はあったけど、とっくに届かない場所に居た自分が最悪だった。
化け物だと言われて、そうだったのかと納得した。人ではないから仕方ないのだと諦めた。
それでも願っていたのだ。光り輝くような奇跡を。
―――……お互い、不器用ですよね。
夕暮れの公園で、そう言った彼女の顔を思い出す。
刀を構える。だってそれしか知らない。弧道草月はそれでできている。
剣に道は無かった。向かう場所など示してはくれなかった。
剣に誇りは無かった。ただ空虚な風穴が胸にあるだけだった。
されど、剣に曇りは無かった。剣があればすべてを忘れ去ることができた。
どうせ人生百回やり直したところで、百回全部剣に生きることは目に見えている。まがりなりにも今まで生きて来られたのは剣があったからで、剣を究めるのは己の宿命だ。
だから草月は知っていた。
異なる理と彼らは言った。この世界のものとは違う法則なのだと説明された。
そんなもの、自分には扱えない。
剣術はこの世の理に属する。どれほど常識外れをしでかそうと、それは決してこの世界のルールを逸脱しない。
法則の内側ギリギリの上限をひたすらに追い求め、擦り削るように磨き続けたそれは、弧道草月という剣士の全身に隅々まで染みついている。
だから今更、異なる理が入る余地は存在しない。
そんなもの使えるはずがない。そんなもの、弧道草月という存在が許すはずがないのだ。
だってそうだろう。
弧道草月の技は、この世の理そのものだから。
―――わたしの全力、受け止めてくれますか?
救ってください、と言われた気がした。
死んだらがっかりさせるんだろうな、と思った。
それだけはイヤだな、と思ったのだ。
一閃。
覆い尽くさんばかりの光の球が霧散した。無数の粒子になり、宝石をちりばめたかのように降り注いだ。
白羽は全力を真っ向から斬り伏せられたのだと理解し、驚愕に目を見開きながらも、その結果をしっかりと受け入れた。どうやって、などどうでも良くて、ただ嬉しかった。
自分よりも前に、自分よりも上に、彼は居たのだと。
明から暗へ、いきなり光量が激減した視界が慣れる間もなく、鷺宮白羽はそれを耳にした。
荒々しい雄叫びと、駆ける音。
自分を殺そうと、まっすぐに向かってくる音。
もうすっからかんで、迎え撃つにも防御するにも全然足りない。身体に力は入らないし、何より心がいっぱいで動く気になれない。
月光に刃がきらめく。あんなに綺麗なものは他に知らなかった。あれに斬られて死ぬなんて、どれほど幸せなことだろう。そう、夢見るように微笑んだ。
(ああ、でも)
夕焼けの公園で、自分と似ていると言ってくれた顔を思い出す。
(わたしが死んだら、この人はまた孤独になってしまうんだ)
それはなんだか、すごくイヤだった。
もう、あんな孤独に放り出したくなかった。
わたしがいるよ、と言ってあげたかった。
さびしくないからね、と手を握りたかった。
だから最後の力を振り絞って、動こうとして。
ピクリとも動けぬまま、刀が振り降ろされた。
血飛沫が舞う。
草月には何も見えていなかった。強い光を目にした直後のように、視界は輝きの残滓で埋め尽くされていた。
視覚だけではない。聴覚も、触覚も、味覚も、嗅覚も死んでいた。完全にオーバーフローした脳は、五感からもたらされる情報の処理を放棄していた。
己の叫びも聞こえずに、踏みしめる大地の感覚も無く、臓腑から込み上げる血の味や臭いも分からない。
そもそも意識があるかどうかすら疑わしい。
駆けるのは本能だった。突き動かすのは憐れみだった。叫ぶのは寂寥だった。
すべての感覚が機能しない状態で正確に間合いを詰めたことも、寸分の違いも無く少女へと刀を振り降ろしたことも、彼以外にはとうていできない離れ技だ。
だが、刀は半ばから折れていた。
袈裟掛けに斬られながら、傷口から血液を吹き出しながら、生きているのを疑うような顔で鷺宮白羽は動いた。
草月が二の太刀を放つより速く、前へ踏み込む。
剣は、ある程度の距離が無ければ振れない。それは草月自身が語ったことだ。
密着する。距離が完全になくなる。刀の射程距離の、さらに内側の安全圏に潜り込む。
異なる理は使えない。力などもう残ってない。
だけど、一つだけ。目に焼き付いて離れない、その技を白羽は知っていた。
腰を落とし、さらに踏み込む。―――叫ぶ。
「あ、ぁあアッ!」
つま先から肩まで、突き抜けるように。ゼロ距離からの体当たり。
武術など習ったこともない白羽が放つそれは、以前草月が魅せたものとは比べるべくもない。劣化品と言うのもおこがましい粗悪な模倣だ。
それでも今の草月には、それを防ぐことができなかった。
人形のように突き飛ばされ、受け身も取らず肩から地面にぶつかる。慣性で一回転半して、うつぶせに止まった。
シン、と静まりかえる。
月の薄い明かりの下、改めて見れば少年の姿は酷かった。身体は血まみれで、服はいたる所が破け汚れ、まるでボロ雑巾の有様だ。
少年は地面に倒れたまま、ピクリとも動かない。
少女はその姿を見ながら、崩れるように膝をついた。
「……何が、起こった?」
その攻防を目にしながら、まるで理解できず、時人は抱えた鍛冶師の少女に問いかける。
「沖島、あれは魔剣の力……なのか?」
白羽の堕とした光の球体。十分に離れて観ていた時人でさえ、巻き込まれる危険を感じた大規模攻撃。
時人の見間違えでなければ、草月はそれを斬ったのだ。
「違う! あたしにはあんな事できない!」
海歌は倒れ伏した剣士から目を離さないまま、断固として否定した。
「じゃあなんで!」
「あれは魔剣じゃない。あたしはあれになんの力も注いでない!」
「はぁ? まさか鷺宮に肩入れして……!」
「してない! あれで注文通りなの!」
「え……?」
時人が疑問の視線を向けても、海歌は一点だけを見つめていた。
「あたしが教えた……」
唇を震わせながら、彼女は独白する。
「でも……ありえるの?」
鍛冶師の視線の先で、ゆっくりと剣士が動く。
折れた刀を握ったまま、右手を地面につく。左腕は動かない。口に溜まった血を吐き捨て、片手だけで身を起こす。痛みが全身を襲う。歯を食いしばって耐える。
その場にあぐらをかいて座り込むと、空を見上げた。欠けた月が浮かんでいる。人里離れているからか、星が綺麗に瞬いていた。
「……なんで、とどめに来ない?」
月を見上げながら呆然と口にする。
「まだ、一歩も動けません……」
答える少女の声も、どこか呆けていた。
「そりゃ、仕方がねぇ」
ッハ、と少年は短く笑って。
タハハ、と少女は情けなさそうに笑った。
あーあ、と空に気の抜けた嘆息を吐き、草月はへらりと笑う。
「あー……産まれて初めて思ったわ」
静かに、穏やかに口にする。
「この時代に産まれて良かった」
気づけば。
頬を、涙が流れていた。
「お前に会えて良かった」
見れば、白羽もぼろぼろと泣いていた。泣き顔を隠しもせず、草月を見ていた。
「はい……はい……!」
二人はきっと、どこまでも、どこまでも似たもの同士だった。
時代に恵まれず、世間に理解されず、矛盾に苛まれながら生きてきた。
そんな二人だから底の底まで分かり合えたし、分かち合えた。
きっと、産まれて、出会って、戦ったのは運命だ。
でなければおかしい。だって二人ともが、この日のために生きてきたようなものなのだ。
「……わたしたち……わたしたち。もしかしたら……もっと違う、別の答えがあったかも、しれません」
うわごとのように、嗚咽混じりに。少女は夢想を口にする。
「普通に出会って、普通にわかり合えてたら……もっと普通におつきあいなんかして、普通に結婚もして、とか……」
突拍子のない、もしもの話。ただの少女が抱く夢の未来。
そんな他愛も無い、儚いささやきを向けるのが殺し合う相手だなんて、哀れにすぎて。少年はくしゃりと破顔する。
「ああ、そりゃいい夢だなぁ」
哀れなのは自分も同じだと。
草月は今のこれとはまったく違う、心地よい別の答えに思いを馳せる。
普通。それは二人ともが、同じように憧れていた言葉。
憧れて、結局は無理だと諦めた言葉だ。
「それで、子供も産まれて、技を教えて、継がせて」
「ならガキは二人欲しい。さすがに一人に両方詰め込むのは可哀想だ」
「あは……三つ子だったらどうします?」
「あー、そりゃ……分かんねぇな」
そんな夢のような未来は、もしかしたら実現するのかもしれない。二人が協力すればこの世に敵はいない。手を取り合えばどこまでだって行けるだろう。……そんな暖かな錯覚を胸に、草月はゆっくりと立ち上がる。
刀は半ばで折れていたが、幸いにもまだ刃は残っている。ふと思い出してぐるりと見回せば、少し離れた場所で地面にほとんど垂直に、刃の先端が突き刺さっていた。
「もう……動けるんですか?」
「いや、これ以上休んだら永眠するんだ」
問いの答えはシンプルで、それが嘘ではない証拠のように、少年の口元からどぷりと血が漏れる。
それでも、草月は大地をしっかりと踏みしめて立った。
「刀も折れてるのに……まだ戦えるのですか」
どこか嬉しそうに、白羽もゆっくりと立ち上がった。血を失って少し足元がふらついたが、それでも立った。
「刀なんて元々そういうもんだ。曲がるし折れるし刃こぼれするし、一人斬ったら血と油で鈍器に成り下がる」
けどな、と。草月は不敵に口の端をゆがめる。
「魔剣は折れてなお敵の足を待ち、刃を天に向ける」
折れた刀で地面を示せば、見当違いの場所ではあったが、剣の先端はほぼ垂直に地面に刺さっていた。
まだ闘志が尽きていないかのように、虎視眈々と好機を狙うように。
「曲がれば防御をすり抜けるし、砕けた破片は目に入る。こぼれた刃の傷は治らず、やがて腐って死に至らしめる。そんなふうに、どんなになっても、どこまでも剣で在り続けるのが魔剣だ。そして剣士とは剣になる者だ。……ってな。受け売りだけどな」
剣になる。そう、草月は言った。
剣を身体の一部のように使いこなすのではなく、自身を剣にする。ゆえに剣の士であると、そう言った。
「……本当に、素敵ですね」
「お前はどうなんだ。もうとっくに限界だろ?」
草月が聞く。儀礼のように、とっくに分かりきった答えを尋ねる。
「はい……もう本当に限界です」
涙に濡れてくしゃくしゃになった顔のまま、内容にそぐわない清々しい声音で、白羽はうなずく。
「不思議です。わたしは大罪を犯すところでした。世界を破滅させたかもしれません。……でも、後悔もうしろめたさもない。胸がすっとして、心がこんなにも軽い」
自分の胸に手を当て、白羽は幼子のように微笑む。
「血の誇りも、名の義務も、仲間への義理も……わたしはきっと、最初からどうでもよかったんでしょう。だからこれ以上、続ける理由なんてありません」
己をがんじがらめにしていたすべてを吹っ切って、空へ羽ばたく若鳥のように。
「でも、幸いにして……わたしは、逃げ方なんて知らないんです。誰一人として、それをわたしに教えることはありませんでした。だから……」
そうして、鷺宮白羽は弧道草月をまっすぐ見つめる。
「わたしは……」
言いかけて、少女は口をつぐんだ。一度視線を降ろし、そして再度顔を上げたとき……その表情は引き締められていた。
「わたしは、ただの鷺宮白羽です」
少年はすぐに理解できなくて、しかし分かったとたんに吹き出した。
応えるように、折れた刀を構える。
「俺は、ただの弧道草月だ」
二人の視線が交錯し、少しの時間、見つめ合った。
同時に動く。
この戦いには、はじめから大義などなかった。
この戦いには、はじめから意義などなかった。
だから、互いにやめ時など知らなかった。
草月は駆ける。草月には最初から最後まで、距離を詰めて斬るしかない。
白羽の指先に光が灯る。爪ほどの光弾が計四つ。今の白羽にはこれだけしかない。
光弾が放たれる。三つ。
少年は身を躱す。だが二つ被弾する。胸部と腹部、共に光弾が貫通する。
少女の肩が掴まれる。抵抗もできず引きずり倒される。地面にしたたかに後頭部をぶつける。胴に馬乗りされ、動きを封じられる。
二人とも笑っていた。
折れた刀に月光が反射する。
最後の光弾が放たれる。
―――もしアンタのすべてを分かってくれるような、アンタの全部を受け止めてくれるような、そんな奇跡のような相手がいたとしても……死体になったら、何もしゃべれなくなる。
―――アンタはずっと、孤独なままよ。
前触れもなく折れた刀身が砕け散った。
細切れになった時間の中、白羽の顔が驚きに染まる。―――それを、草月は確かに目にした。
感情が錯綜する。それでも草月は光弾を避ける。灼けるような痛みと共に、頬からこめかみにかけて肉をえぐられる。
もはや共に武器はなく。
まるで、接吻するかのように。
ゴン、と鈍い音を響かせ、少年は少女に頭突きした。