第六章 月下の舞踏
二十六夜の月が浮かぶ深夜だった。雲が多くあまり星は出ていない。月光だけが冷たく注ぐ日だった。
壁かけ時計で時間を確認した草月は、袴姿に着替え玄関へと向かう。長い髪はいつもより、少し高い位置でまとめていた。
やっと、なのか。もう、なのか。思いが交錯していたが、動揺はない。なんにせよ、いずれこうなることは決定されていた。
玄関から出ると計ったように時間通りに、一台のタクシーが停車した。運転席側の後部座席と、助手席のドアが開く。
「やあ」
「よう」
助手席から降りた時人とは短い軽い挨拶を交わし、
「……こんばんは」
「おう、こんばんは」
後部座席から降りた鷺宮白羽とは、定型句の挨拶を交わした。
時人はパーカーにジーンズという普通の格好だが、鷺宮は白を基調にした和装に黒の袴姿だった。どこか巫女服に似ているが、袖や腰回りの布は紐で絞られ、動きにくそうには見えない。
草月と同じように、彼女もまた本気の戦いを望んで来たのだろう。いつもの三つ編みもやめ、艶やかな黒髪を背中におろしていた。やぼったい眼鏡はそのままだが、ずいぶん印象が変わる。
「それで行くのか?」
顎でタクシーを示し草月が聞くと、金髪の少年は意を察して頷く。
「運転手は操ってるから問題ないよ。僕らの記憶は残らない」
「んなこともできるのかよ」
「僕や沖島にはできないさ。鷺宮も警戒してる相手には使えない。つまり君には使えない」
「まあ、何でもいいけどな」
草月は促されるまま、助手席側の後部座席に座る。全員が乗り込むとタクシーはゆっくりと走り出した。
「今日のことは鷺宮の本家には内緒でね。公認なら鷺宮お抱えの運転手と、黒塗りの外車で来れたんだけど」
「まあ、その辺のお前らの事情には突っ込まねぇよ」
「ありがたいね。ところでこっちが用意した場所でかまわないか? 鷺宮は人目がなくて広い場所なら、どこでもいいって話だけど」
「罠は?」
「申し訳ないが用意してない」
「分かった。信じる」
「じゃあ二十分ほどで着くよ。沖島もそこで待ってるはずだ」
時人と草月は軽快に会話を交わす。
「しかし二人とも袴姿とはね。草月のはそれが正装なのか?」
「一応な。まあ、めったに着ないが」
「それにしては似合ってる。どんな時に着るものなんだ?」
「そりゃ死合いの時だろ」
軽快だった会話が止み、数拍の沈黙。
次の時人の言葉は、少しかすれていた。
「……ちなみに、だけど。今まで何人斬った?」
「さぁな」
寒々しい沈黙が降り、時人が乾いた笑いで苦しく場をつなぐ。
タクシーは安全運転で郊外の方へと進んでいく。操られているらしい運転手は、会話には一切の反応を見せない。ただ淡々と、正確なハンドル操作で車を進める。
「ゼロ、ですよね」
確信のような、静かな声。姿勢正しく座る鷺宮が、確認するように草月の顔を覗き込んでいた。
弟のささいな悪戯を目にした姉のような、優しい眼差し。
少年は口をへの字にして息を吐き、クッションの効いた背もたれに体重を預ける。
「なんで分かる?」
「だって……弧道さんは、優しい人でしょう?」
赤信号にさしかかり、タクシーが一旦止まった。夜の田舎道に人通りなどなく、他に走っている車もないが、それでも交通は信号に支配される。
十数秒たって信号が青になり、車は再び発進。
「いまだにガチな兵法やってる酔狂も、わりといるもんでな」
草月はゆっくりと口を開いた。
「俺も機会があって、何人かと死合ったことはあるよ。……けど、わざわざ殺すまでのやつはいなかった。相手の武器を落として、目の前に刀を突きつければ終わりだ。怪我させる必要もない」
窓の外に月が浮かんでいる。欠けた月は半分もなく、ぼんやりと寂しそうに浮かんでいる。
「そんな勝負で、殺人罪になるのも馬鹿らしいだろ」
たとえ真剣同士でも、力に差がありすぎれば殺し合いにはならない。生かすか殺すか、強者が選ぶだけだ。
だから、弧道草月はどうしようも無いほどに、常に強者だった。
「なるほど……さすがだね」
異なる理の繰者などという常識離れな存在であっても、さすがに殺人沙汰には抵抗があるのだろう。時人が安堵の声を出す。
「まあそれでも、下手すりゃ殺してたやつはいるけどな」
「へぇ、どんな相手だい?」
「どこぞの鎖使いだよ」
タクシーは夜の道を走る。進むにつれ街灯も少なくなり、建物と建物の感覚が間延びしていく。
時人は絶句し、鷺宮はなぜかクスクス笑い、草月は窓の外を見ていた。
車が走り出して、そろそろ二十分を過ぎようとするころ。
「ああ……そうだ。聞いておかなきゃならんことがあったんだ」
戦いを前に、少年は最も重要な事柄を確認する。
「なに?」
「死人を生き返らせることは可能か?」
「無理です」
簡潔に答えたのは鷺宮だった。
「そうか、安心した」
本当に安心したように、草月は朗らかに笑った。
積もり重なった落ち葉の絨毯。まばらに生い茂る太い木々。枝葉の間から漏れる月明かり。自然公園のように人の手は加えられていないが、それでも植生のためか、鬱蒼とまではしていない。ピクニックに来るなら申し分ないような、濃い緑のにおいがする林。
アスファルトも敷かれていない林道でタクシーは停車し、三人を降ろした後、料金を受け取って去って行った。
「時人もしーちゃんもお疲れ様。そしてようこそです、先輩」
先に来て待っていたのか、海歌が三人を迎える。もう冬に近いこの季節の夜は寒く、少女は厚手のコートに身をくるんでいた。
その手には鞘に収められた刀。
「ここはどういう場所なんだ?」
「今は放置されてますが、鷺宮家所有の林です。本家の目が届きにくく、人里離れていて、多少派手をしても問題のない物件を探しました。それと、後々管理しやすい場所でもありますね」
「後々?」
「場合によっては、この辺り一帯の法則が歪む恐れがあるんですよ。しーちゃんの力は強いですから、もしかしたら終わった後に隔離し、時間をかけて矯正を行う必要がでてくるかもしれません。この場所はそれにも都合がよいのです」
「なるほど」
説明を聞き、草月は理解を示す。
あの公園で草月と時人が戦ったときも、鷺宮と海歌は後処理をすると言っていた。異なる理は使用すれば周囲に悪影響を及ぼしかねないものらしいから、全力を前提にするならそういう配慮も必要なのだろう。
「刀は注文通りか?」
続けての草月の質問に、海歌の唇がへの字になった。
「いいえ。あんな注文は無理でした」
「まあそうだろうな」
「ですのでこれはただの、あたしの傑作です」
海歌が差し出す。草月が受け取る。その場でゆっくりと鞘から抜いた。
先日の試作品とは違う。刀身は鏡面に磨かれ、刃があり、美麗な波紋が飾られている。
刀剣とは武器であるが、芸術品としての側面も持つ。そして作品には多かれ少なかれ、作者の内面が映し出されるものだ。
「……誇り高く、ひたむきで、筋金入りの負けず嫌い」
「? なんですか?」
「やっぱりお前、いい女だったんだなと思ってな」
きょとんとして、そしてからかわれたと思ったのか、海歌は不機嫌顔で草月を睨んだ。皮肉げに口を歪め、憎まれ口を叩く。
「先輩こそ、予想外にずいぶんといい男でしたよ」
「嬉しいね。プレゼントにも心がこもってるし、勘違いしそうだ」
「手編みのセーターより好みでしょう? ですが勘違いはしないでください。別に先輩のために造ったんじゃありません」
「それってツンデレってやつか? それにしては口調の棘が痛いんだが」
「デレてませんからね」
「楽しかったか?」
不意に発せられた質問の意味が分からず、海歌は眉をひそめて会話相手を覗き込む。
「この剣を造るのは楽しかったか?」
少年は問う。まるで優しい先輩のような面持ちで、海歌を見ていた。
「……まあ、そうですね」
草月は軽く笑って刀を鞘に収め、腰帯に挿す。
「それで、ここでやるのか?」
「さっき言ったでしょう? この場所が一番都合が良いんです」
「いや、そういうことじゃなく」
トン、トン、と。右のつま先で地面をこづいて、弧道草月は鷺宮白羽に向き直る。
「ここで、やるのかと聞いている」
問いを受けて、和装の少女は野暮ったい眼鏡を外し、微笑んだ。
「はい。……そろそろ始めましょうか」
険しい山を登っていた。
喉はずっとからからで、息は絶え間なく喘いでいて、肌は擦り傷まみれ。足はもう棒のようで感覚がないし、全身が疲労で音を上げている。服も荷物も汗をたくさん吸ってぐっしょり重く、しかも泥だらけ。
暗くてほんのちょっと先も見えなくて、けれどもこの先が果てしなく続いていくことは知っている―――それでも。登るのが楽しくて嬉しくて、ずっとずっとこうしていたくて、ひたすら足を動かし続けていた。
いつの間にか一人で、一緒に登っていたみんなは置いてけぼりにしていた。
それでも歩みを止めることはできなくて、この先にあるモノが見たくて、この先には何かあるはずだと信じたくて、ずっと登っていた。
すごく後ろの方で楽しそうな笑い声がして、振り返ったりしたけれど。後戻りするには、もう帰り道も分からなくて。
そんな時、ふいに違う方向から登ってきた相手に、運命のように出会えた。
空気が変わったことを察し、海歌が下がる。邪魔にならないように、巻き添えを食らわないように。
草月と鷺宮の距離は十五メートルほど。大した距離ではない。弧道草月ならば一瞬で詰めてもおかしくない間合いで、鷺宮白羽にとってはそれが百倍離れていても射程距離内。
そんな危険区域に、ザッ、とことさら大きな足音を立てて、金髪の少年が前に出た。
「こういうののやり方なんて知らないけど、一応ね」
時人は二人の中間地点で立ち止まると、静かに唱える。
「この勝負、矢須部時人が立会人をやらせてもらおうと思うが、二人ともいいか?」
その提案に弧道草月は鷹揚に頷いて、
鷺宮白羽は微笑みのまま応えた。
「問題ない」
「お願いします」
時人は二人を交互に見て頷き、言葉を続ける。
「では開始の前に、こちらからお願いが二つある。一つ、この林から出ないこと。一つ、夜明けまでに決着がつかない場合、この勝負は引き分けとすること。これは人目を考えれば当然だと思う。異議はあるか?」
「了解した」
「異議ありません」
二つの声を聞いてから、立会人は宣言する。
「勝負の決着は、続行不可能と判断される気絶、降参、そして死亡とする。僕からは以上だ」
それだけ言って、時人は背を向けた。
開始の合図をするわけでもなく、ただ背を向けた。
急ぐでもなく歩き、海歌の隣まで移動して、対峙する二人へと向き直る。
「……でしゃばるんじゃないわよ」
「必要なんだよ」
横から小声で文句を言う海歌に、時人は視線も向けずに応えた。
「無意味なお願いが? この土地がどれだけ広くて、夜明けまであと何時間あるか分かってる?」
人目のない十分に広い場所をわざわざ選んだのだし、戦闘なんて一瞬で終わってもおかしくはない。第一、二人ともその程度のことはすでに了解しているはずだ。
確認するまでもない、無意味な話。二人の気勢に水を注すだけの行為に見えて、海歌は棘のある口調で非難する。
「ちゃんと最初に言っておかなきゃいけないんだよ、あの二人には」
しかし反論の声は、確信と憐憫に満ちていた。
「これから始まるのはここだけの特別で、その時間には、終わりがあるんだって」
時人が十分離れたことを確認し、草月は刀を引き抜く。とん、と峰を肩に置き、世間話の調子で口を開いた。
「まあ、なんだかんだ言っても初手合いだ。まずは小手調べだな」
鷺宮は苦笑する。
「そうですね。ご希望にそえれば……」
ト、ト、トン、と。
殺気を消し、気勢を隠し、相手の呼吸の間断を縫って、草月が距離を詰める。
ステップを踏むような軽い足取り。
月夜に舞う踊り手のようで、陰を縫い歩く暗殺者のよう。
少女が気づいたときには、すでに剣の間合い。
目を見開く鷺宮の姿を確認し、草月の表情が曇る。
(これで死ぬなら―――仕方がないぞ?)
神速の剣閃。
左肩から右の脇腹にかけて、刃が袈裟懸けに入る。肉も骨もないように、刀は滑らかに少女の身体を通過する。
一瞬の出来事だった。
ずるり、と。
鷺宮の体躯が斜めにずれる。
「……いいのですが」
破裂するように。
ずれた鷺宮の身体を蜂の巣に貫いて、無数の白い光弾が放たれた。
「ッハハ!」
笑いながら大きく跳び退く草月。光弾は一つ一つが地面を穿ち爆破する威力で、ガトリングのような連射で獲物を追う。
「幻影か、なるほど手応えがないわけだ!」
さらに大きく後退しながら避けつつ、草月は鷺宮を見た。斬られてもいないし蜂の巣にもなっていない。鷺宮白羽はいっそ優雅と言えるほどの微笑みをたたえて、変わらずそこに立っていた。
種を明かせば単純。おそらくは光の屈折による距離感の錯覚。
草月が斬ったのは偽物で、その一歩分だけ後ろに本物の鷺宮がいたのだ。
声の方向や気配の場所が違うなら、草月はなんなく察知できただろう。だがたった一歩分のズレでは、初見で見破ることはできない。
しかし逆に言えば、たった一歩分深く刺し込まれるだけで、鷺宮は終わっていた。
いつの間にか、鷺宮の周囲には白い花びらのようなものがいくつも浮かんでいる。光弾はそこから発射されている。一つ撃つたびに反動で花びらが舞うように、鷺宮の周囲を廻っている。
弾幕の最中、草月が止まる。距離は十五メートル。計ったように開始時と同じ場所で足を止め、襲い来る数多の光弾を迎える。
この光弾は銃と同じ、人の反射速度を超える、直線軌道の点破壊。ならば方向とタイミングを先読みし、放たれる前に身をかわす以外ない。
草月は目を細める。
相手の立ち位置、体勢、挙動、呼吸、表情、視線、心理。本を一気に速読するように、それらの情報を一瞬ですべて読み取る。
あの夜、あの公園で、時人を相手にやったのと同じ。
分析。
そして掌握。
経験とセンス、勘による高速処理は思考のラグをすっ飛ばし、弾道の予知を可能とする。
半身になりながらわずかに身を逸らす。身体を戻しつつ、振り子のように身をかがめる。足首から独楽のように半回転しつつ、右方へ大きく移動。
身体を貫くすれすれを、いくつもの光弾が横切る。遙か後方へと流れていき、破壊を撒き散らす。
さらに誘導する。
敵の思考をトレースし、視線と動きで攻撃を誘い、狙いを絞らせ選択肢を狭める。
草月の避ける挙動が細かくなる。大きな動きが減り、体幹のぶれが少なくなり、動きが滑らかになる。
次手の構築。
幻影はもう見破れる。間合いに入れば斬れる。距離は十五メートル。
これは、それをどう潰すかの戦い。
前に出る。
光弾が髪に触れる。弾けた土が袴ごしに脚を叩く。余波のような熱が肌を灼く。弾幕の中、その隙間を縫うように歩を進める。
急ぎはしない。それは隙に繋がる。掌握する情報は、正確な予測に十分な量だ。ならば体勢を崩さず、常に次の攻撃に備えつつ距離を詰めるのが最も確実。
ヴン、と。淡い光が空間を包んだ。
鷺宮を中心として半球状に、白く柔らかな光が湧き出る。範囲はおよそ半径十メートル。
すでに光の範囲内に踏み入っていた草月は、真意を測りかねる。
光に囚われはしたものの、草月の身体になんの違和感もない。せいぜい視界が少し良くなった程度。漠然とした不快感や嫌な感じもしない。
有害であるという予感がしない。戦士の勘が、これは無害であると告げているのだ。
「見た技は、対策しなければ失礼かと」
声は、歌うように。
楽しくて、嬉しくて、仕方がなさそうに。
鷺宮は目を閉じる。さらにうつむいて、長い髪で……いつもの三つ編みをほどき、下ろした髪で顔を隠す。
「……やっべ」
草月は横に大きく跳んだ。さらに転がるように走り、全力で光弾の嵐から逃れる。
視線が隠れた。表情が隠れた。掌握していた情報の致命的な部分がごっそり欠けた。
これでは、相手の次手を読むなどできない。まして誘導など不可能だ。
弾幕が射線上のすべてを破壊しながらが追尾する。撃ち手は目を閉じているが、正確に草月を追ってくる。
この光の空間は視覚の代わりなのだろう。この範囲内にいる限り、草月の動きは一挙手一投足を把握されるに違いない。観察眼を阻害されただけではなく、場の掌握をやり返された形だ。草月は己の敵へ視線を向ける。少女の表情は髪に隠れて見えないが、口元は確かに笑っていた。
「ク……フハッ」
草月も自然、頬が緩む。目が細まる。口角が上がる。変な笑いが漏れる。
ガチリ、と。脳のギアが換わる感覚。
思考が白く、視界が鮮明に、己の内側から世界へ意識が爆発する。
時間が引き延びる。
―――よお。
放たれる光弾を視認する。連なるように七つ。とろける飴のようにゆっくり迫るそれを、四足獣のごとく手を地に突いてかいくぐる。
地面に擦るように。
一直線に駆ける。対応されるまでの僅かな間で、一気に距離を詰める。
―――こんな時、なんて言えばいい?
光弾が殺到する。
下から覗き込む形になって、少女の顔が見えた。
光の向こうで、白羽が笑っていた。目を閉じたまま、ちょっと困ったように眉を下げて、頬を緩ませていた。
不器用で上手く外に表現できない喜びを、噛みしめるように。
きっと、自分も似たような顔をしているのだろう。草月は苦笑いしたくなった。
跳び込む。
身を捩るように、己の命を死の隙間へねじ込む。
頭は強烈な光で真っ白で、時間はもどかしいほどにゆっくりで、互いに幸せすぎてワケが分からなかった。
被弾する。
左の肩と脇腹。肉片と血しぶきが舞う。当然だった。この距離ですべて避けきるなど不可能だ。こうならない方がおかしい。
かまわず右に持つ刀を突き出す。体勢を崩したまま勢いに任せ、すべてを叩き込むように刺突を放つ。
白羽が後ろに倒れ込むように避けようとする。遅い。胸を切っ先が貫く―――その幻影の奥へと、刃が届く。
深く、大きく。
白羽の腕の内側を草月の刀が裂いた。
「動脈っ!」
肉を斬り骨を削る確かな手応え。斬り口から鮮やかな血液が噴き出し、白羽の服の袖から白い布帯が飛び出す。
跳びかかる蛇のように、それは傷口を縛り上げた。
―――おい。
少年は引きつり顔で、少女に視線を向ける。
―――はい。
少女は痛みに顔をしかめながら、少年に舌を出して見せた。
光弾が放たれる。
「……楽しそう」
誰に言うともなしに、海歌はぽつりとつぶやく。
月夜の下、笑いながら戦う二人は踊るように見えて。
なんだかどうしようもなく儚くて、悲しくて、涙が出そうだった。
「嫉妬するよ」
時人は戦う二人を眺めながら、そう言った。
「僕じゃ無理だった」
至近距離から放たれた光弾は計五発。
なりふりなどかまっていられるはずもなく、飛び込むように身を投げ出す。二転三転と地面を転がり、枯れ葉と腐葉土まみれになりながら距離を取る。勢いを殺さず立ち上がり振り向く。
追撃はない。
いつの間にか淡い光の場は失せていた。白羽は瞼を開け、草月を真正面から見据えていた。
「戦いで怪我をしたのは……ぞくりと背筋が凍って、冷や汗を流して死を覚悟したのは、久しぶりです」
左腕を締め付ける布に血がにじんでいる。腱でも切れたのか、力なくだらりと下がっている。その傷の上を、慈しむように右手が押さえる。
「そうかい。痛くて泣きべそかきそうか?」
「涙は出そうです。嬉しくて。……そちらは?」
「かすり傷だ」
草月はそう答えたが、強がりではなかった。
肩と脇の傷は浅くはないが、関節や内臓は無事のようだ。動きに支障がないなら、どれだけ深かろうが、今はかすり傷である。
(とはいえ、これはまずい……)
内心で悪態を吐く。事前に予想された問題だったが、いざ直面してみると焦燥が精神を炙る。
傷口から流れる血が、僅かだが緋色に発光していた。
見れば、光弾に穿たれ抉れた地面は酷い変容を見せていた。ガラスのように結晶化していたり、泥のように液状化していたり、陽炎のように不安定に揺らめいていたり、見たこともない草が異様に生長していたり、もぞもぞと不気味に動く何かまで産まれようとしている。
変質。これは海歌が言っていたそれなのだろう。
鷺宮白羽の異なる理がこの世界を浸食し、その在り方を変えているのだ。
肩の傷口がジクジクと異質な音を立てていることに、草月は気づいていた。肉体が異質な何かに浸食され変化しつつあるのだ。腹の底で沸騰しそうになるおぞましい恐怖を押さえ込み、剣士の少年は思考を巡らす。
(これでは、長期戦はできない)
そもそも異なる理は未知な部分が多すぎる。これ以上怪我を負わなかったとしても、余波でジワジワと浸食されるかもしれない。長引けば草月の身体が保たないだろう。
(結局できなかったしな、髪の毛動かすの)
繰者とやらの才能がないのは仕方ないが、異なる理への耐性を身につけられなかったのは痛い。自分に対する浸食を抑えられない。これでは裸で来たも同然で、無防備にもほどがある。
(まあ、だが……)
それも悪くない、と少しだけ思った。草月は剣士であって、繰者ではないのだから。
これは死合いだ。命のやりとりだ。死は覚悟してきた。後遺症など論じるまでもない。
ならば腹の底のおぞましい恐れは、虫のいい甘えだ。
口元を引き結ぶ。剣を握る手を意識する。
一つ理解したことがある。時人や白羽の技は人間を相手にするためのものではない。
草月からしてみれば、彼らの攻撃は素直すぎた。威力と速度を重視しすぎて、勝負における駆け引きを度外視している印象だ。
白羽もそれは承知しているのだろう。視線と表情を隠すためだけに、彼女はあの光の場を形成した。そこでまともにやりあっても草月に勝てないと、端から駆け引きを放棄したのだろう。
彼女らのそれは、人間以外の何かを狩る術だ。
そして草月の技は、人間同士の戦いに特化している。
これは力の差ではなく、方向の違い。鷺宮白羽より弧道草月の方が、少しだけ戦いの作法に詳しいという、それだけの話。
だがその微妙なズレを生かす能力を、弧道草月は持っている。
次で決める。
「なんだか、ふわふわした感じなんです」
夢見心地のようにうっとりと、白羽は笑った。
「すごく、すごく気分がいいんです。どこまでも行けそうで、なんだか胸がいっぱいで、叫びたいくらいに浮かれてます。……変ですよね」
「……いや、そうでもないだろ」
気持ちが伝わって、理解しているということを伝えたくて、草月は首を横に振った。
「俺だって浮かれてる」
「あは……嬉しいです」
すぅ、と。白羽が空へ右手を伸ばす。
「分かります。わたし、このままじゃ負けるんですね」
草月の予見と同じ結論を、白羽はさらりと口にした。内容に反して、それは心地よさそうな声音だった。
「このままだと、次でわたしは死にます。だから……今までとは違うことをしなければ」
自分自身に言い聞かせるように、白羽は文言を重ねる。
周囲を廻っていた光る羽根のようなものが、少女の手のひらに集まる。先ほどまで光弾を発射していたそれは混ざり合い融合すると、やがて一抱えほどの白い球体になった。
「なんだかもう、いろんなことがどうでもいいんです。これをやったらまずいんだろうな、とか。きっと大変なことになるんだろうな、とか。思うんですけど、でもやりたくって仕方ないんです。全力を出したくって、全力以上の自分であなたに相対したくって、どうしようもないんです」
全力を出したい。そんな、普通すぎて胸が張り裂けるような願いを、少女は口にした。
後先を考えず、他のことを考えず、相手のことしか考えず。
ぶつけさせてくれる敵を、待ち望んでいた。
「ねぇ……」
白羽は泣きそうな顔で、草月へ呼びかける。
少女の手の先で、白い球体が膨張した。あっという間に操る白羽よりも大きくなった。さらに膨れながら、強く輝く。太陽のように強烈な光を放つ。
ィィインッ、と。耳鳴りのように甲高い音が響いた。
ガゴゴゴンッ、と。叩かれたクッキーのように地面が割れた。
ぐにゃり、と。色水が混ざりうねるように空間が揺れた。
重力が方向を忘れる。ビリビリと振動が肌を伝う。空気が白銀に染まる。
結晶が砕けるかのような音を立て、世界にひび割れが走った。ひび割れの奥におびただしい何かが蠢いている。きっとあれは破滅だろう。
離れた場所で海歌が叫んだのが分かった。聞こえないが間違いなく絶望的なことを言っている。正解じゃなかったら超嬉しいと草月は思ったが、時人が海歌を引っ掴んで逃げ出すのが見えたので、淡い希望はあっさり捨てた。
「わたしの全力、受け止めてくれますか?」
理解できたことがある。彼女らのそれは、人間以外の何かを狩る術だ。
人間以外の、もっと強大な何かを屠るためのものだ。
「……おいおいおいおいおい、マジかよ」
まともに立つのも難しい空間の変化。ぐらつき足元で必死に踏ん張りながら、家屋ほどの大きさに成長した光の球を見上げ、草月は乾いた声を漏らす。鷺宮の手の先で球はどんどん増大し、その膨張に飲み込まれた周囲の樹木が蒸発していた。
おそらく、だが。
産まれてから今まで、白羽はいろいろこじらせてきたのだろう。血統とかお役目とか修練とか、肉体的にも精神的にもそうとうのストレスがあったに違いない。おそらく人間関係にも恵まれなかったし、ちょっとした言動や振る舞いにも気をつけなければならなかったし、権謀術数の中でがんじがらめに育ったに違いない。きっととても不自由で幸薄い人生を歩んできたのだろう。
しかもたぶん、こいつは性格的に溜め込むタチなのだ。そんな顔してる。
まわりに気を使ってばかりいて、望むものは手に入るあてもなく、価値を見出せぬままに日常を守り続けてきた。ずっと鬱屈を抱えて生きてきて、ずっとそのままなのだと諦めていた。
弧道草月と同じように、鷺宮白羽にとって今この瞬間は、他の何より特別なのだ。この世の崩壊など、思慮する気にもならないくらいに。
もはや視界を覆わんばかりの白くまばゆい球体が、墜ちる。
あれを喰らえば蒸発するだろう。しかしその規模を前に、逃げ場などなかった。