第三章 英雄の血統
真っ暗な闇の中、険しい山を登っていた。
頂上など見えない。一歩先すら不確かだ。
服は汗を吸ってぐっしょり重く、生い茂る枝や葉で肌は傷だらけ。足を前に出すことがひたすら重労働で、息は今にも膝をつきたいとあえいでいる。
最初は、ただ登るのが楽しかった。
終には、登ることしかできなくなった。
何も見えない、誰もいない険しい場所で、ねとりとした影を掻き分け進み続けるだけの、壊れた機械。
だが、たまに麓の方から楽しげな笑い声が聞こえてくると、振り返りたくなるのが人情だ。
「やあ帰宅部くん。今日はおヒマかね?」
「悪い。早く帰ってアニメ見たいんだ」
放課後。玄関口から外に出たところで馴染みの女子生徒に見つかった草月は、即答で誘いを断りスタスタと横を通り過ぎた。
「へ-、ちなみにタイトルは?」
そんなずさんな対応には馴れたものなのか、女子生徒は気を悪くした様子もなく横に並んで話を続ける。
「……む」
草月はその切り返しに言いよどみ、女子生徒……杏はわざとらしくため息をついた。
「すぐにバレる嘘つくんじゃないわよ。どうせ帰ってすぐ鍛錬でしょう? なら剣道部でやってもいっしょじゃない」
「バッカ、そっちじゃ集中できねーだろ。後輩の監督役ばっかさせやがって」
「アンタわりと面倒見いいからね。いいじゃないの来なさいよ。今度試合もあるし」
「いや出ねぇぞ俺それ。聞いてないし」
本当に初耳だったらしく、草月は口をへの字に曲げて隣を歩く少女を睨む。だが杏は涼しい顔で受け流した。
「アンタもう頭数に入ってるわよ。というか、人数足りなくてアンタいないと男子出られないわ」
「横暴すぎる……それいつだよ」
「一ヶ月後」
日にちを確認して、草月は仕方なしにため息をついた。この少年、実は押しに弱く流されやすい性質らしい。
「分かった、行けたら行ってやる。だから今日は勘弁しろ。気分が乗らん」
「気分が乗らないのいつもじゃない。試合は死んでも来なさい」
「さすがに死んでたら行けねぇ」
「ま、いいわ。なんにもなかったら来なさいよ」
試合の方が話の本題だったのだろう。杏はあっさりと引き下がり、それから何かを思い出したように、わざとらしく手をぽんと打った。
「そうだ。アニメと言えばアンタ、この前の休み同人誌即売会に行ったでしょ」
あるいは、こちらが本命だったのかもしれない。
「…………なんで知ってる?」
「クラスの子が見たらしいわ。はい、これ写メ」
杏は携帯電話を操作すると、私服姿の草月と、長い髪に眼鏡の少女のツーショットを画面に映す。
草月は開いた本の一カ所を指さし何か言っている。そこを眼鏡の少女がのぞき込んで聞いている。
どう見ても隠し撮りだった。
「……不覚だなおい」
「で、隣の子誰? ずいぶん親しそうだけど」
たしかにこうして見ればずいぶん距離が近い。眼鏡の少女が本を見るために顔を近づけているので、見ようによっては寄り添っているようにも見える。
ふ、と草月は思わず笑ってしまった。
こんな一場面があったのか、と。
「誰って言われてもな。鷺宮って言うんだが、別に親しいわけじゃない。知り合いの知り合いで、この日に初めて会った相手だ」
「そうなの?」
ゴシップを期待していたのか、聞き返す声はつまらなそうだった。
「てっきり、この子に会うために馴れない場所に出向いた恋する男子、の絵かと思ったわ。だってアンタ、そうとうなことがないと行かないでしょ、こんな場所?」
「まあ、それなりの理由があったんだ。つってもここはついでというか、集合場所みたいなもんだったけどな」
「はーあ、やっぱりね。アンタには似合わないと思ったわ。漫画も恋も」
「いやいやそんなことないぞ。恋はともかく、漫画は気が向けば読む。これだってこいつが描いた本の感想言ってるところで……」
「アンタが?」
「あん? そりゃ俺がだろ」
杏は渋面を作り少年を見上げ、無遠慮に観察する。
「……ちゃんと謝っておきなさいよね。どうっせ適当なことしか言ってないんだから。見る目なしのくせに偉そうなこと言ってる姿が目に浮かぶわ」
「ひっでぇなオイ!」
「アンタ、普通の人よりそういうの向いてないの分かってる? ちなみにどんなこと言ったのか教えてみなさいよ」
聞かれて、草月はそのときの会話を思い出す。
ゆっくりと眉間にしわを寄せ、視線を斜め下方向へと逃がした。
「……えっと、もっと……ババーン、とかにしたらいいとか」
かなり頭悪そうだった。
「死ねばいいのに」
一刀両断だった。
「あ、ああいや、全体的に地味だったからそうした方がいいって思ったんだよ。それに人物に魂が入ってないとか、的確な助言をだな」
「悪口言ってるだけじゃんそれ。大して漫画好きでもないくせに批評家ぶって、おまけに訳の分からないアドバイスもどきで混乱させるとか馬鹿なの? ちょっと本気でヒくんだけど」
「い、いやあれだ。そもそも向こうが、大して漫画を読まない普通の人の感想を聞きたいってだな……」
「普通の人って意味分かってる? 普通の人っていうのはもっとフラットでおおらかな価値観を持ってる人を言うの。読む漫画はバトル系だけで、しかもバトルしてないとこ読み飛ばす脳みそ戦闘狂は普通の人じゃないのよ? アンタがこんな地味子ちゃんの作品の何を理解したの?」
「うおおそういえばアイツの漫画メルヘンだった……! たぶんあれメルヘンって感じのヤツだった……」
「マジ? 多分だけどアンタそれ、メルヘンな漫画にファーストコンタクトよ。おめでとう新しい世界が広がったわね。切腹するなら介錯してあげる」
頭を抱える草月に、容赦のない杏。
いつのまにか二人は校門近くまでたどり着き、双方が申し合わせたように片手を軽くあげる。
「ちっくしょう、最悪な気分だ。……じゃーな、部活がんばれよ」
「はいはい、そっちも宿題くらいは真面目にやんなさいよ」
そんなやりとりをして、二人は別れる。
杏は部活棟の方へ。その後ろ姿を少しだけ見送って、草月は校門をくぐる。
「なかなか美人じゃないか。彼女かい?」
「いいや、腐れ縁の幼なじみだよ。なんなら紹介するか?」
校門の門柱に背中を預け、金髪の少年が待っていた。
時人は学校帰りなのか制服を着ていたが、若葉色のブレザーは近辺の高校のデザインのどれとも当てはまらない。もっともあの古いライブハウスの近場に住んでいるのなら、この辺りの学校でないのは当然だが。
しかし、ならばどうやってこの時間にこの場所に居るのだろうか。授業が終わる時間などどこも大して変わらないだろうに、帰宅部の草月を校門で待ち構えられるのはどういうカラクリだろうか。
まさか例のよく分からない技の一つかと草月がいぶかしんでいると、察した時人が説明する。
「早退してきたんだ」
「不良め」
呆れて非難された時人は肩をすくめる。
「僕は君が沖島と同じ学校ってことしか知らないんだ。会おうとしたら、帰るタイミングで待ち伏せするくらいしかないじゃないか」
「何しに来たんだよ。つーかなんで動ける? あれからまだ三日だぞ。一撃目はガチで入れたよな俺? ゾンビかお前」
「素質に恵まれてないと、耐久と治癒力の強化は自然に身につくんだよ。……というかあのとき、僕のこと本気に殺しに来てなかった? 身体鍛えてない相手に使う威力じゃなかったでしょあれ」
「馬鹿言え。二度目は宣言通り手加減したぞ」
「されてなかったら本気で死んでるよ」
金髪の少年は真顔で言って、それから地面に置いていた荷物をつかんで持ち上げる。ナイロンの鞄と、独特な形状をした合成皮のケース。
「約束のエレキベースだ。こっちは安物だけどアンプとチューナー」
それはあの日、あんなことになる前に、約束した品だった。
「……届けるために来たのか?」
「早めに渡した方が誠実だと思ってね」
「けが人が気を使うなよ」
ぼやきつつ、草月はケースと鞄を受け取る。学生鞄とあわせてだいぶん大荷物になったが、この程度の重量で弱音を吐くような鍛え方はしていない。
「……まあ、それはそれとして」
手ぶらになった時人は草月から目を背けるように、首を巡らせて学校へ視線を向ける。開校二十年ほどの校舎は、一見してどこにでもありそうな普通の学校だった。
「喉は渇いてないか? 来るときに喫茶店があったんだけど、よかったら奢るよ?」
地面に重なる落ち葉をカサリとゆらし、少し肌寒い秋の風が通る。
もう少ししたら冬がやってくるのだと予告するような、空虚な木枯らし。
学校が近いこともあってか、その喫茶店は若者を意識しているらしい。天窓から日の光が入る明るく開放的な内装に、量と値段を前面に押し出したメニュー。音楽も軽快な流行曲で、ターゲットの層を絞ったかいあってか、味は普通でもそれなりに流行っている。すでにちらほらと制服姿も見て取れた。
草月と時人の二人は窓から遠い奥のテーブルに腰を下ろした。注文を取りに来た店員には、二人ともコーヒーを頼む。
「んで、だ。ベースってどうやったら弾けるようになるんだ?」
他の客の邪魔にならないよう、大荷物をテーブルの下にずらしながら草月が聞く。その目は新しいおもちゃを前にワクワクする子供のようで、この場でケースから出すのを我慢しているように見えた。
「基本はギターと同じ。左手でネックを持って指で鳴らす弦を押さえる。それで右手で弾く。細かいことはやってる内に分かってくるけど、慣れないうちは指使いだけでかなり手こずるから、とにかく反復練習で手先に覚え込ませる。当然、最初は無理せず簡単な曲で練習。ねこふんじゃったでも何でもいいから完璧に弾けるようになること。それができるまでにやめなかったら、ワンステップ上がりなよ」
「できる前にやめるヤツって多いってか?」
「僕は所属していないけど、うちの学校の軽音楽部で楽器がまともにできるのは二人らしい。全員で十人だからちょうど二割だ」
「おい今って秋だぞ。一年だってそれなり練習してるだろ」
「五人が幽霊部員だからね」
「待て三割が謎だ」
「ぜひ謎を解いてくれ。僕の代わりに」
「その部活が特殊ってだけな可能性は?」
「あるよ。けど実際にそんな軽音部もあるってことさ。おかげで何かあると助っ人を頼まれる」
どうやらこの世ならざる力を持っていても、日常生活の悩みは尽きないらしい。草月は生ぬるい笑みを浮かべ、対面に座る少年へと同情の視線を向ける。
「苦労してるなお前も」
助っ人であるなら、草月だって剣道部に頼まれたりはする。実際にもう予定もある。が、剣道は目の前の相手と試合すればいいだけだ。極論、当日会場に行けば問題ない。
その点、音楽は他のメンバーに合わせないといけないのが違うはずだ。知らない曲なら覚えなければならないし、練習も数回は合同で行う必要がある。時人のあのライブハウスの演奏を思えば、遊び気分のレベルには辟易するだろう。
「まあ、そんな話をしたいんじゃないだ」
あまり気が乗らない話題なのか、時人はあっさりと話題の方向を変える。
そして両肘をテーブルにつき、口元を隠すように手を組み、じろりと草月の顔をのぞき込んだ。
……きっと、耐えられなかったのだろう。長く他愛のない世間話を続けられるほど、二人の間にあるものはぬるくない。
「あの後、結局どうなった?」
確かめるまでもなく、それは三日前のあの夜の話。
「特に何もなかった」
草月はどこか煮え切らない表情で、結論から答える。
「お前を気絶させたあと、事後処理しますから今日のところはお引き取りください、って鷺宮に言われてな。なんかヤバイ力使ってたしいろいろあんだろうなーって納得して、刀返して帰って寝た」
「なんだ……日取りくらいは決めてると思ったんだけど」
少し意外そうな時人に、草月は疑いの目を向ける。
「……つかそもそも、どうして俺とあの眼鏡女を戦わせようとする?」
それは根幹の疑問で、当然の質問。
「それはまあ、鷺宮が僕よりずっと強いからだよ」
恥じる様子もなく、時人はそう口にした。
「僕らが英雄の子孫という話はしたな?」
「ああ、聞いた気がするな」
「簡単に言うと、僕らがああいう力を使えるのは……ああいや。ここは正しく、操れるのは、と言い直しておこうか。まあとにかく」
微妙な言い回しだったが、草月が真意を測る間もなく時人は先を続ける。
「僕らがああいう力を操れるのは、その英雄の血を引いてるからだ。そして力の強弱も血筋によってかなり左右される。これは才能や努力で補えない領域で、あえていうなら素質って言葉になる。たとえばだけど背の低い人より背の高い人の方が、バスケやバレーは有利だろ? それと同じで、僕らにとって血の濃さってのははっきりと強さを分ける。持って生まれた器のようなものなんだ」
「……なるほど。何となくだが分かるな」
話を理解し、草月は頷く。それは感覚的なものや技術的なものではなく、身体的な特徴……いうならば骨格の違いに近いのだろう。であるのならば、遺伝によって違いが出てくるのも頷ける。農耕馬とサラブレッドのように、生まれ持ったどうしようもない違いは確かに存在する。
「まあその血統もいろいろ入り乱れて複雑なことになってるんだけどね。僕は単純に血の薄い分家、沖島は混ぜ物入りの変質って具合に」
「混ぜ物?」
「血筋は一系統だけじゃないし、英雄の血統だけが力を操れるわけでもない。それなりに種類があって、得意分野も違うのさ」
「沖島はハイブリッドってことか」
「しかも、わざわざ特化するよう婚姻を結ぶ徹底ぶりだ。そうとう特殊だよ。元々が分家の末席だから操れる力は大きくないけど、方向性はある意味一番たちが悪い」
「いやお前ら全員特殊だからな?」
「それはおっしゃるとおり。……ちなみに少し脱線するけど、ついでだから言っておこう。沖島の力は鍛冶屋のそれだ」
「鍛冶屋? 占い師じゃなくてか?」
最初に会ったときの印象が強いのか、意外そうに草月は聞き返す。
「鍛冶屋だよ。アナライズとエンチャントに長けたブラックスミス。解析の魔眼でデータを集め、その相手に最も適した武器を提供するのがお仕事だ。僕の鎖も沖島印だし、君が使った刀だって沖島の試作品だ。よくできてただろ?」
刀。あの試作品と言っていた刃のない刀は、確かに海歌自身が造ったと言っていた。草月は自分の右手を見て、感触を思い返すように記憶の柄を握る。
―――思えばあの刀はあまりにもすんなりと、草月の手に馴染んでいた。最初に剣を振ったとき、刃などなくとも成木を斬れる確信したのは、違和感の一つもなく身体の一部にできたからではないか。
「まあ、だからこそ君に興味を持ったんだろうけどね。君の刀を造るのはいい気分転換なんだろう」
「刀造りが気分転換扱いかよ……」
「実際、沖島の眼と腕はすごいよ。力の完成度で言えば僕なんか比じゃない。正直申し訳ないけど、沖島に君の戦い方を見せたのは失敗だった。ずいぶんと解析されてるだろうし、きっと対策も立ててくる」
初見で弧道草月のことを見透かした、沖島海歌という少女。彼女の力は未来を知る予見ではなく、現在をつまびらかにする観察だった。
「だけどその魔眼も穴がある」
時人は確信を持った声音で、そう口にした。
「……穴?」
聞き返す草月に、時人は皮肉っぽく笑って見せた。
「使い手が沖島だってことだよ」
それだけ言ってから、時人はわずかに目配せし口を閉ざす。草月も察して黙った。
ちょうど、店員が二人分のコーヒーを運んでくるところだった。
「どっもー! 新聞部の突撃取材に来ました! 先輩ちょっとお時間いただいてよろしいでしょうか?」
来客と言われ、防具の面をとって格技場の出入り口までやってきた杏は、やたら元気のいい一年の女子にそう絡まれた。
「新聞部の取材? へぇ、珍しい。まあいいけど、何が聞きたいの?」
杏は格技場の外に出て、扉を閉めながらさっぱりした笑顔で応対する。剣道部と柔道部の入り乱れる大声が、扉一枚でかなり遮蔽される。これであまり声を張らなくても会話できるだろう。
「ありがとうございます! あのですね、今度大会があるみたいじゃないですか。この辺りの剣道部では一番強い学校も出るって話ですけど、そこについて意気込みをお聞きしたいと思いまして。……ぶっちゃけ、勝つ策はありますか?」
秋の風が緩やかに通り過ぎ、汗で蒸れた杏の頬から熱を奪う。
「勝つ策はないわね。でも、全力でぶつかってくるつもりよ」
「負けを前提にやるんですか?」
「……もちろん、勝つつもりよ。真剣に。でも、うちは弱小だからねー。正直苦しいかな。ただ、勝てるかどうかは分からないってのが試合でしょう?」
「そうですね。大会と言っても近場の数校だけのモノですし、互いを高め合う交流は貴重な機会ですからね!」
そう同意する少女はどこか台本を持っているような、そんな雰囲気があった。口角を緩やかに上げ笑顔のていを保ちつつ、杏は不快感を醸し出す。
「でも剣道部には助っ人が居るって噂を聞きました! その方はどうでしょう?」
しかし杏の様子に気づいていないのか、一年女子は元気に取材を続けようとする。そうされては杏も苦笑を漏らすしかなかった。
「あら、助っ人? 確かに人数が足りないから呼んでるけど、それは関係ないわ。だって数合わせだもの」
「数合わせですか? でも、弧道先輩は大将でしょう?」
海歌はニコニコと口元だけで笑み……その眼は見透かすように杏を射貫く。その顔で、杏は趣旨を理解した。
「なんか、鬼のように強い助っ人がいるって話を聞いたんですよね」
「ははーん、なるほど。そして、新聞部の記事はその超強い助っ人君にライトを当てたいわけだ?」
「ですです。はたして謎の剣道部の助っ人は何者なのか! なぜ強く、どこまで強いのか!」
「新聞部の部長に聞きなさい。知ってるから」
そこで初めて、杏は営業用の顔を崩した。―――他人を騙して情報をかすめ取ろうとする不届き者に、いつまでも甘い顔をするほど杏はお人好しではない。
小馬鹿にするような、軽蔑するような目を少女に向ける。
「ま、部外者に書いてないネタを教えるとは思わないけど。ちなみに、私はあなたには教える気はないわ。だってあなたの人を見下した態度、ちょっとカンにさわるから」
「…………」
絶句する海歌。そんな後輩から杏は興味をなくしたかのように視線を外すと、背中を向けた。
もう話は終わりだと、格技場の扉に手をかける。
「……どうして?」
口をついて出た問いに、剣道部の部長は振り向いて答えた。
「新聞部に一年はいないのよ。新入部員が入らなかった、って嘆いてたもの」
あまりの屈辱に、海歌の顔が歪む。
最初から、杏には海歌の嘘がバレていた。分かっていて、話を合わせていただけだった。
下調べもせずに新聞部を名乗った浅慮を馬鹿にされていた。
遊ばれていただけだった。
「まあ、どうしても知りたかったら本人に聞くのが手っ取り早いんじゃない? 別に自分から言いふらしたりはしないけど、あいつ聞かれたら答えちゃうのよ。……よせばいいのに」
それだけ言い残して、杏は格技場の中へと入っていった。その最後のぼやきには隠しもしない苛立ちがにじんでいたが、海歌はそんな感情の機微に気づかなかった。
騙そうとした相手に遊ばれ、お情けでヒントまで渡される。
海歌はただ歯を食いしばる。
「貴族意識ぃ?」
その言葉自体がうさんくさい、とでも言うように草月は疑わしげな声を上げる。
「別に、僕らの間じゃ珍しくない感情なんだけどね」
そう前置きして、時人はブラックのコーヒーを一口すする。味がお気に召さなかったからだろうか、少しだけ渋い顔をした。
「貴族ってのはもともと、戦争で武勲を立てた人の家系だろう? 僕らは偉大な英雄の子孫だし、その証である特別な力も持ってる。自分たちは一般市民の普通の人より高貴なんだ、特別に選ばれた者たちなんだ、って思ってしまうことは別に不思議でも何でもない」
「お……おう、マジな話か」
そういう感覚がそもそも理解できないのか、草月の頷きは若干引き気味だった。
「これはあいつの家系の影響にも寄るけど、特に沖島はそれが強いんだ。酷い話、あいつは一般人に何の興味もない。同じ人間として見ているかどうかも怪しい」
「……いや、そりゃ」
「本気だよ。僕がバンドやってるのだっていい顔しないんだ。筋金入りさ。それに君、お兄さんとか呼ばれていただろ。あいつはいつもそんな感じで、一般人を適当に呼ぶんだ。たぶん、名前を覚える気がないんだと思う」
言われて、草月はうなる。
たしかに海歌は草月の名を一度も呼んでいない。四人が集まったあの日、鷺宮にも時人にも、草月の紹介をすることはなかった。
その理由が覚えられていなかった、という単純なものである可能性を、草月は否定できない。
そもそも―――半年も同じ学舎にいながら、草月という特異を見つけられなかった不覚を恥じた時、海歌はなんと言っただろうか。
どれほどいろんなものに興味がなかったか、と言ったのではなかったか。
彼女にとって学校での普通の日常が、己の特異性を隠すために仕方なく付き合っている下々の営みに過ぎないのならば、そこになんの興味も持てないのは当然だ。
「だから、沖島は君の強さを見抜けなかった。ここまで言えば分からないか?」
草月は砂糖とミルクを入れたコーヒーに口を付ける間だけ、考える。
「そもそも普通の人間が強いという、そんな発想がまずなかった。ただの人間がどこまで強くなれるかなんて興味もなかった。あいつは俺をナメていた」
弧道草月を見た沖島海歌は、他の一般人とはかけ離れたデータを目にしたに違いない。
だが、その異常がどれほどなのかが、彼女には分からなかった。それを測量するには、彼女は普通の人間の観察を怠りすぎていたのだ。
「惜しい。八十点だね」
答案を見る教師にでもなった気分なのか、少し楽しそうに時人は採点する。
「何が足りない?」
「英雄の血統に対する過信」
「あー……」
点数に不服そうだった草月だが、答え合わせをして納得した。
時人の鎖は決して弱い武器ではなかった。戦ったのが草月でなければ、使い手に触れることすら困難だろう。
……だが、あれは最強でも万能でもない。弱点もあれば苦手な局面もある、ただの強力な武器なのだ。さらに言えば驚異の度合いはもちろん、使い手の技量も関係してくる。
しかしそんな当然の不安要素を、海歌は本当の意味で理解できないのだろう。鍛冶屋に特化し実際に戦場へ出ない彼女は、危うさの計算はできても、実感とすることができない。
だから、勘違いする。長所だけを喜び、弱点を軽く見る。
だから、見誤る。特別な力が使えないことを理由に、鍛え抜かれた戦力を侮る。
沖島海歌は自分たちを過大評価していて、それ以外のすべてを過小評価している。
「……ガチ節穴じゃねぇか。性格が向いてねぇよ。せっかくのいい目が宝の持ち腐れだ」
「今まではそれでも良かったんだよ。僕らだけに使う分にはなんの問題もない。……でも君相手には問題があったわけだ。あれは一般人を計るのに慣れてない。細かい計測も、できることの予測もできない。大まかに予想する程度だ。君の強さの底は計れてないと思っていいよ」
時人は他人ごとのように言って、コーヒーを飲む。やはり少し渋い顔をしてから、静かにカップを置いた。
「ここのは安もんだから苦みがえぐい。ブラックなら缶コーヒーのがマシかもな」
「……それ知ってて君もコーヒー頼んでるのか?」
「ここのはミルクが上物だ。入れれば許容範囲内の味になるぞ」
「先に言ってくれないかなそういうことは」
コーヒーカップを置き、時人は勧められるままミルクを注ぐ。軽くかき混ぜてから一口飲むと、ふむ、と頷いた。
「沖島の話は分かった。しかし貴族意識って言うが、お前と鷺宮はそんなもんないだろ」
話が一段落したのを感じたのか、草月は違う方面へと話題を変換する。
「ああ、そうだった。元は鷺宮の話だった」
名前を聞いて思い出したのか、時人も脱線した話の軸を戻す。
「まあ、意識は人それぞれさ。たとえば僕は母親が普通の人だし、あんまり貴族的な感覚はないよ。単純に血が薄いと意識も薄れるわけだ。まあその点、鷺宮は特別なんだけど……えっと」
言いよどみ、時人は残ったコーヒーを飲み干す。ミルクは入れてあるのに、飲み下す表情は苦々しい。
「鷺宮は英雄の直系なんだ。わかりやすく言うと、最強なんだけどさ」
秋の風が吹き抜けていく。
枯れた葉が舞い、公園の池に落ちて小さな波紋を作る。
ふらりと引き寄せられるように歩いてきた制服姿の少女は、三日前に自分が立っていた場所で立ち止まる。
もうこの場所の処置は終わっている。昨日も、一昨日も立ち寄り確認は終わらせている。
そもそも物体を操る力はあまり拡散しないし、少年の技量も完成度は高い。ずいぶんと行使はしたが、周囲への影響力は少ないだろう。こうしてわざわざ見回らなくとも、たいした異常が顕れるとは考えにくい。
だから。
その少女がここに足を運ぶのは、そんな事後処理的な理由ではないのだ。
少女は立ち尽くす。
あの剣の軌跡を、あの止まることのない前進を、相手を吹き飛ばした一撃を。
焦がれるように思い描きながら。
秋の季節に色づく公園の風景。今という一瞬にだけ産まれる美しい光景を目にしながら、少女の心は三日前の夜にあった。
「―――……で?」
話の流れからある程度予想していたのか、草月はつまらなさそうだった。
「英雄直系って言ってみりゃ貴族じゃなくて王族だよな? つまりお前らのお姫様である鷺宮が、なんでお前ら標準装備の貴族意識を持ってない?」
「少しは驚いてくれると嬉しいんだけど」
期待した反応と違ったのか、やりにくそうに時人はぼやく。とはいえ草月からしてみれば、どうにもピンとこないのだ。
血の濃さで強さがある程度決まるのは、草月も理解した。鷺宮の血が一等品であることも分かった。
だがそれは、いったいどれほどのものなのか。草月にはいまいち推測できない。具体的に知っているのが時人の鎖と海歌の眼だけなので、それも仕方がないのかもしれないが。
「まあ、たぶん君と一緒の理由だと思うよ」
「……はぁ?」
理解不能の返しに、草月は時人をにらみ付ける。金髪の少年は涼しい顔で、その目を見返した。
「君は自分の強さに何の価値も見出していない」
確信の声で、鎖使いの少年はそう指摘する。
「……いや、そんなことはねぇよ」
「じゃあ価値がないのは、強い自分の方か」
ぎり、と歯が軋む音。
店内のざわめきが遠のく。このテーブルの温度だけ、一気に低くなったようだ。
「はっ、分かったようなこと……」
「周囲がレベル低いとさ、つまんないだろ」
ごまかすように笑い飛ばした草月を許さず、口にするのも憂鬱そうに、時人はその心情を解いていく。
海歌の魔眼とは違う、土足で内面に踏み入る心の分析。
「負ける気のしない勝負なんか、何回かすれば飽きるものだよ。必ず勝てる勝負なんて勝負じゃない。他の追随を許さない力は、孤独しかもたらさない」
すらすらと述べていく声には、惨めさと悔しさがにじみ出る。草月も気づく―――おそらく、これは草月の話ではない。
この少年はずっとあの少女を見てきた。ずっと、彼女に負け続けてきた。
そして気づいてしまったのだろう。
「孤高ならまだいい。けど、君らはただ孤独だ。君らは誰にも必要とされない。君らが極めようとしている力はとっくに時代遅れで、この世界に取り残されてる。せいぜい骨董品のようにありがたく保管されるだけで、物置に放置されたがらくたと変わらない。そんなものに、君たちは何の価値も見出せない」
隠して合わせて一歩引いて、ガラスの壁ごしに居させてもらっている感覚。
己は他とは違ってしまっているのだと、寂しさに嘆く鬼の心。
「それでも、君らはその価値のないモノを求め続ける」
「…………」
「血反吐を吐いて、削った分だけ人間をやめて、ひたすらに上だけを目指して……なあ、聞くから答えてくれ。なんで君らはそうなんだ?」
時人には心底分からないのだろう。そして、ついにあの少女には聞けなかったのだろう。
ゆっくりと、草月は瞼を閉じる。脳裏に少女の姿を思い出す。
……もし、彼女が時人の言うとおりの人間ならば。もし、彼女が草月と同じであるならば。
答えは酷く……残酷なほどにシンプルで、だから覆せない。
「たまたまだ」
吐き出すように。認めるように。とっくに諦めたことのように。
「お前だって、たまたま楽器やってるんだろ」
それが全部だと言うように、草月はコーヒーを飲み干す。
きっかけなんてきっと些細なことだ。
楽器を演奏できない八割と、楽器を演奏できる二割の違いと同じ。
続くか、続かないか。
落ちるか、落ちないか。
パズルのピースがぴったりとはまるように、個人の何かがたまたまそれに合うかどうか。
合理的な理由などなくとも、ただ己がやりたいと思うのなら……時代に合わなくとも、他人に評価されなくとも、理解すらされなくとも、そんなことは関係ないと、そんなふうに思える何かがあることは、幸せではあるのだろう。
「……たまたま、か」
客のまばらな電車の中で、金髪の少年は独りごちる。
座席の端にだらりと腰を下ろした姿に、生気は感じられない。顔は青白く、息は荒く、額には脂汗がにじんでいる。
「ああ、くそ……」
三日前の傷は未だ癒えていない。痛みを堪え、少年は片手で目元を覆った。ずりずりと身体が沈み、座席から落ちそうなだらしない格好で天井を仰ぐ。
鈍行の振動が響く。強がりたい相手から離れれば、時人は未だ満身創痍だった。
身も、心も。
「ゴミみたいなプライドだ」
敗北はしたが、せめて弱っているところは見せたくない。そんな、無意味な矜恃に囚われた。
それは、敗者としての精一杯の抵抗であったのかもしれない。……だが、それで守れた誇りはあまりにもちっぽけで、そんなものを大切に抱えることは酷く惨めだ。
「貴族意識か」
それは海歌の話をするとき、少年が口にした言葉。
貴族意識、選民思想、自分たちは特別なのだという思い上がり。
よくも「あんまり貴族的な感覚はない」などと言えたものだ。―――仕掛けたとき、負けることなんて考えてもいなかったくせに。
普通の人間に、負けるなんて想像もしなかったくせに。
素質は並以下。しかし血反吐を吐く努力で他に引けを取らない技を手に入れた。鷺宮には及ばずとも、それは確かな誇りとして胸にあった。
鷺宮には及ばないが、誇りに思うことができていた。
だって素質が違う。最初から天と地ほど違う。かなわないのは当たり前。背中が遠く見えないのは、生まれたときから決まった当然の成り行き。
―――だが、あの男の背中も見えなかった。
弧道草月に仕掛けたのは憐れみだ。そして彼は彼女の代わりだった。
お前程度の隣には立ってやれるぞと、上から目線で、彼女相手にはできなかったことをやろうとした。
そいつは繰者ですらなかった。
なのにこいつなら、彼女に切迫できるかもとすら思った。それが狂おしいほどに胸をざわつかせた。
彼なら、彼女の孤独を癒やせるかもと―――。
「はは……そっか、そういうこと」
不意に胸の中のもやもやが晴れたような気がして、時人は笑う。
結局のところ、矢須部時人は諦めていた。あの少女の背中を追うことを。
勝てないものだと割り切って、その孤独を知り憐れみながら、隣に立つことはできないと膝を折っていた。
横に並べないのは仕方がない。背中に追いつけないのもまだいい。伸ばした手が届かなくても許せる。
だけど、矢須部時人は背を向けた。素質が足りないと。血が薄いと。血統が、違うと。
血のせいにして、諦めていた。
なのに弧道草月は、繰者ですらない。
「そうか……負けたんだ」
そう口にして、ふいに涙した。
一度涙が出たら、もう止まらなかった。
他人のことばかり考えて、その事実を忘れていたのか。少年は今初めて、それを実感したのかもしれない。
「僕は……」
震えた声は嗚咽混じりで。
「僕は、偽物だった」
必死で目を背け続けてきたものを、みとめてしまった。
何よりも自分を許せなかった。
気づかぬうちに曲がっていた間抜けさが。必死で目をそらしていた卑しさが。とうに膝を折っていながらすがりついていた、ちゃちな誇りが。
ここまで自己嫌悪に苛まれながら、再び立ち上がれない惰弱な心が。
力比べではなく、もっと他のどうしようもない部分で負けたのだと、分かってしまって。
「ああ、ちくしょう」
他に何をすることもできず、ただ悪態をつく。
「今日の本題、伝えるの忘れてた……何で忘れたし……」