第一章 普通に生きるということ
学生が文化祭という一大イベントの後、すぐさま通常通りの生活に戻れるかどうかは個々によって違う。
勤勉な生徒なら翌日から勉学に励むだろう。しばらくはフワフワとした気分が抜けない生徒もいるだろう。文化祭をあまり満喫できなかった生徒や、元からちゃらんぽらんな生徒なら、平常運転に戻るのにもさほど苦労はあるまい。
弧道草月はといえば、伝説のたこ焼き師という異名は周囲にささやかな変化をもたらしはしたが、本人自身は以前と変わりなく過ごしていた。
平穏な日常。普段通りの生活。
それを義務のように享受する一週間が過ぎ、休日。義務を果たした権利のように、草月は見知らぬバス停で乗客に押されながらバスを降りる。
雲一つ無い空に太陽はほぼ昇りきり、この時期にしては少し汗ばむほどの気温。
「ここ、だよな?」
メモ用紙を手に疑心の声を漏らすその顔は、何というか、微妙だった。
同人誌即売会会場。
そんな案内が出ていた。
「……いやマテ。やっぱ間違ってるだろ?」
極小の希望をこめて、草月は手元のメモを再度見る。
自転車と電車とバスに乗り、中途半端に発展した田舎を出て都会のコンクリートジャングルをくぐり抜け、なんだかでかいドームまでやって来たと思ったら名前だけしか知らないイベントが開催されていた。
「えー……」
草月はコレ系のイベントに関する知識をあまり持っていない。
漠然と、素人が趣味で作った本を売る場所なのは知っている。オタクというカテゴリの人間の縄張りであることも知っている。だがそれ以上の知識はない。
「あー……」
バス亭の名前とメモの内容を見比べ、どうやら自分の居る場所はやはりメモの通りであり、そしてメモに従うならば同人誌即売会の案内の示す会場へ向かわなければならないと悟り、草月は嫌そうに呻いた。
自分の人生に関係ないと思っていた場所を前にして、躊躇わない人間などいないだろう。
未練がましく背後を見るが、バスはとっくに出発してしまった。バスを一緒に降りた人間は全員が同じ場所目当てだったのか、まるで団体ツアーのように同じ方向へと向かっている。
傍目から見て、わりと濃いメンツだった。
「うー……」
頭を抱えても、意味のない声しか漏れない。
「まあとりあえず、定番のラッキーアイテムとかラッキースポット的なことを教えますんでメモしておくといいですよ。竜脈とか霊穴とかっぽいとこピックアップ! 海歌ちゃんお墨付き! あ、ちゃんと決めた時間通りに行かないと効果無しだから注意ですよー」
占いで指定された場所はそれなりの遠出で、面倒だとは思った。だが行かない理由も無く、ほとんど休日の暇つぶし気分で出てきたわけだが……これであった。
「……あのガキ、冗談じゃねぇぞ? いや言うこと全部信じるって言ったのは俺だけどよ? だけれどよ?」
やけくそ気味に呟いて、草月は歩き出す。一介の高校生にとって、電車やバスなどの移動費は馬鹿にならない出費だ。ならば占いの是非も確かめずに引き返すのはもったいないという感覚が勝った。
人間は誰しも、損失は取り戻さなければならないと考えるものだ。
そうして皆、深みにはまっていく。
「や、お兄さんおひさです! 一週間ぶりですね元気してました? 海歌ちゃんは今日のこの日を楽しみにしてました!」
「……こんなことだろうと思った……思ってた……」
メモ帳に細かく指定された座標には海歌がいた。薄っぺらい本が積んである長机の向こう側に座っていることから、どう見ても売る方だった。
「いやー、時間ピッタリです。意外と生真面目ですね。ささ、こっち来て座ってください。ちょうどお昼休憩を取りたいトコでした。やっぱりご飯は落ち着いた場所でゆっくり食べるのが一番ですよねー」
「てめぇそりゃどういう了見だ! それか? まさかそのためだけにこんな場所まで呼びやがったのか?」
「えー、まさかそんなー。ちゃんとした占いですよー。ほら、当たるも八卦当たらぬも八卦。信じるかどうかはあなた次第!」
「うさんくさいを通り越して胸くそ悪いわ!」
「まーまー、そう怒らずに」
思わず声を荒げる草月だったが、海歌はニコニコ笑いながら受け流す。
「そもそも、占いなんてそんなものじゃないですか。もっともらしいことを言って、相手を信じさせて、あとはガラクタを高値で売りつけるものでしょう。お兄さん知ってたじゃないですか。知っててあそこに来たじゃないですか。ほとんどひやかしで。だったら騙されたからって怒るのは筋違いじゃないですか?」
そう図星をつかれれば、押し黙ってしまう草月である。悪い方は騙す方に違いないのだが、それを承知で虎穴に入ったのは自分である。親虎がいたとて文句を言うのは間違っている。
「じゃ、ここはよろしくお願いしますねー。ご飯食べたら戻ってきますんで!」
「っておい、待……」
草月が口を閉ざした隙に海歌はするりとその場を離れると、手を振って立ち去ってしまった。止める隙もない早業で、人や物で混雑した館内を器用にすり抜けていく。
引き留めようと上げかけた右手を額に当てて、草月は先ほどまで海歌が座っていたブースを見る。放置された椅子と机と、そして商品である本とお金の入った会計箱。何が入っているのか分からないがどう見ても私物の、ゴルフバッグを一回り小さくしたくらいの鞄。
「無防備すぎるだろ……帰ったらどうする」
体よく利用されているのが分かっていても、弧道草月という人間はこの状態を放っておける性質ではなかった。
売り物はたったの二点で、売値は机に張り紙されていた。在庫は机の下。会計箱の中のおつりは十分。領収書と袋は用意されてないので、きっと必要ない。
しょせんは素人の手売り形式。先週の文化祭と変わらない原始的なシステムで、難しいことは何一つない。これなら草月でも問題無くこなすことができた……が。
あのときと決定的に違うのは―――これは目を逸らしたい事柄ではあったが―――客足が鈍い。
店番を始めて三十分。積まれた薄っぺらい本は一冊も減っていなかった。
「俺のガラが悪いから……じゃねぇよな?」
文化祭の盛況は慌ただしさで身体が疲労したが、ここまで今度は暇だと心が不安になる。
草月は渋面になってつぶやくが、たまに本をパラパラと立ち読みしていく客もいるので、そこは問題ないはずだ。逆に言えば、中身を確認しても買わないのだから、それは品が悪いのではないか。
「…………」
じろり、と机の上を見る。そこには己の扱う商品があった。
少しだけ躊躇して、無言で手を伸ばす。宙で数秒迷ってから、旧刊と思われる方を手に取った。
表紙の絵柄は悪くない。いかにも少女が書いたと思える、少女漫画にありそうな細い線で描かれたキャラクターだ。草月はあまり漫画を読まないが、上手い下手で言うなら上手い方ではないかと思った。
とはいえ、問題は内容である。立ち読みしていった客が買わなかったのはそこが問題なのではないか。それを確認しようとして、もし本当にそうだったら海歌になんと言うべきかと躊躇し、別に正直に言ってやればいいかとページをめくる。
「ねえ」
そう、ぶしつけに声をかけられたのはその時だった。顔を上げると、ブースの前に男が立っていた。
「ああ、すまない。お買い上げですか?」
慣れない応対をしながら、草月はその男を観察する……というより、観察してしまう。
なんというか、場違いな男だった。
年齢は草月と同じくらいか。すらりとしたやせ形で手足が長い。少年の面影が残る顔はなかなかの美形で、金に染めた髪を丁寧にセットしていた。服装はファッション雑誌に載りそうな赤のインナーにダークブラウンのジャケット、下は黒のスラックスに飾り付きの革靴。両耳にピアスをし、左手に指輪が二つ。
こんな同人誌即売会ではなく、どこかライブハウスにでもいそうな風体である。コスプレというやつだろうかとも一瞬思ったが、服もアクセサリも値段が張りそうでとても手作りには見えない。
「何か珍しいものでも見えるのかな?」
「ああ。ここじゃなければ問題ないと思うが」
「だろうね」
問いに正直に答えた草月に、男は無表情に頷いた。場違いなのは自覚しているらしく、好んでこの場に来たわけでもなさそうだった。
息を一つ吐いてから、彼は不可解なものに向ける視線で、草月の姿を遠慮なく見回す。
「聞きたいんだけど、君って鷺宮のなに?」
「サギミヤ?」
問われても、草月には聞き覚えのない名前だった。
「……なるほど、ペンネームしか知らない系の知り合いね。この人だよ、この人」
トントン、と男は机の上の本を指先で叩く。正確には、表紙の右下を。
水無月ほのか。そこにはそう、名前が記されていた。
「……俺にはサギミヤなんて字には見えないが?」
「は?」
混乱しどこか助けを求めるように尋ねる草月に、男は困惑した顔で眺める。
「いや、そりゃそうでしょ。ペンネームだから本名じゃないのは当たり前じゃないか。鷺宮は本名の方だって」
「あ……ああ、ペンネーム。そういやあったなそんなの。漫画家とか小説家とかが使うアレか。じゃあこれは偽名なんだな」
「いやいや、しっかりしなよ。普通分かるよそんくらい。なに君? こんなとこにいてその程度も知らないってどういうこと?」
「いやあんた、俺がここに馴染むような人間に見えるか?」
問われて、金髪男は再度草月の姿を眺める。
「……全然見えないね」
「だろうな」
逆の立場でやったようなやりとりをし、初対面の二人は同じように脱力する。
「で、君はなんなのさ?」
「ああ、すまねぇ。俺は助っ人の売り子……みたいなもんだ。だが鷺宮というのは本気で知らない。ここには沖島ってやつに連れてこられたんだが」
「沖島か……あー、あれも来てるのか。なるほど」
どうやら海歌とは知り合いのようで、男はそれだけで得心がいったのか、草月に哀れみと同情の目を向ける。
「気の毒だったね。犬に噛まれたと思ってあきらめてやってよ」
「うっわ、やっぱりあの女いっつもあんな感じか。つーか知り合いならちゃんと躾しといてくれよ」
「無理だ。あれは僕の手には余る」
肩をすくめて首を横に振る金髪の少年は、格好にしては穏やかな性格らしい。彼は財布を取り出すと、硬貨を机に置いて新刊の方を手に取る。
「鷺宮たちには、僕がここに来たことは話さないでくれないか?」
「なんだよあんた、結局客じゃねぇか」
「知り合いの本がどんなゴミか興味あるだけだよ」
「ゴミ決めつけかよ」
「当然だよ。鷺宮はこんなものに情熱を傾けられない」
「あん?」
気になる言葉だったが、少年はそれについて解説する気はないようで、くるりと背を向ける。
「あいつらが戻る前に、そろそろ帰るよ。じゃあね」
そのまままっすぐ、出口の方へ彼は向かった。
少年が帰った後、草月は商品の旧刊の方を手に取った。ぱらぱらと読む。
先ほどの男の話。鷺宮という知らない人間と、面白いはずがない、というネガティブな確信。それは興味を引くには十分だった。
内容は小さな冒険の話。中学生くらいの少年少女が洞窟を見つけ、懐中電灯を手に探検する。心もとない光源を手に闇の中、滑りやすい足下や尖った岩、コウモリの群れなどの危険や恐怖を二人で乗り越え、最後は綺麗な地底湖を発見して喜ぶ。二人の未熟な恋心も微妙な距離感で書かれ、読後感が少し甘酸っぱい。
「なるほど、あいつじゃねぇな」
地味で無難。
それが最後まで読んで抱いた、草月の率直な感想だった。
何かを表現することは、己をさらすことに他ならない。だから作品は作品であるかぎり、多かれ少なかれ作成者の内面が顕れる。上手くなれば上手くなるほどに、真剣に作れば作るほどに、作品は作者を語るのだ。
この本は沖島海歌のイメージにそぐわない。あのおてんば娘ならデキの善し悪しはともかくとして、もっと突拍子のない何かを作るに違いない。
本を机に戻し、草月は視線を動かす。ブースから少しだけ離れた場所。少し前からそこに一人の少女が立っていた。
「あんたが鷺宮さん?」
「……っ!」
声をかけられた少女はビクリと身体を震わせる。
女子にしては背が高めの、地味な少女だった。
ゆったりと三つ編みにした長い髪。着古して色のあせた茶色のセーターと、厚手のロングスカート。肩には物がたくさん入りそうな大きめのバッグ。やぼったい眼鏡に大した手入れのされてない前髪がかかっていて、装飾品の類は一切つけてない。
草月が彼女をくだんの鷺宮だと思ったのは、彼女が売り物ではなく草月にのみ注目していたからだった。このブースの関係者であるなら、草月はひたすら不審者だろう。
「すまんね、自分のトコに知らないヤツがいて驚いたろ? 文句は沖島に言ってやってくれ」
「……海歌ちゃんの、お知り合いでしたか」
その声はか細く、周囲の雑音に溶けてしまいそうだった。
「そういうこと。飯食ってくるからって店番押しつけられてんだ。なあ、そろそろ帰っていいか?」
「あ、はい……」
やれやれ、と草月は立ち上がる。どうせ騙されたようなものである。本来の店主が戻ったのなら、店番を続ける必要はない。
「あの……」
しかし草月がブースから出ようとしたところで、少女が遠慮がちに声をかけた。視線を向けると、しばし言いにくそうに逡巡してから、意を決したように顔を上げる。
「……どうでしたか? わたしの漫画」
「つまらんな」
ほとんど条件反射のように、率直に。
「俺はそのあたり詳しくないから、大したアドバイスができるわけでもないが。……こう、グッとくるもんはなかった」
容赦なく追撃もした。
鷺宮という少女は面食らったように黙り、目をぱちくりさせる。
「……もっと、オブラートに包んでくれませんか?」
少しだけ、恨みがましい声。それが精一杯の抗議のつもりらしい。
「苦手なんだ」
悪びれもせず、草月は舌を出しておどける。
しかし、それは彼なりの誠意でもあった。どうせできない細やかな配慮はせず、聞かれたことには正直に答える。
下手な嘘は言わない。無駄にごまかしたりもしない。弧道草月はそういう人間だ。それで敵を作るなら仕方ないとさえ考えていた。
そんな彼の性分をしるよしもない少女は不満そうに息を吐き、机の上に目を向けた。
「新刊の方は読みました?」
「いいや、まだだが……」
「時間はありますか?」
その声は、挑戦するような、怯えるような、そんな色をしていた。
草月がいぶかしそうに目だけで反応すると、少女は机の上の新刊を取って差し出した。
読め、ということらしい。
「なるほど。そっちは自信があるのか」
「そういうわけじゃ、ありませんけど……」
「? じゃあなんでだ?」
少女は眼鏡の奥の瞼を伏せ、消え入りそうな声で答える。
「意見が……ほしいんです。普通の人の」
普通。
鷺宮という少女は、弧道草月をそうカテゴライズした。
たしかに、この祭りに参加している人間たちはある意味で特殊なのだろう。
仮に、あちらとこちら、と曖昧な線で引かれた意識的な区分けがあるのなら、草月はその線の外側にいるに違いない。草月は彼女らの同志ではない。それは事実だ。
しかし、それは単に円の内側にはいないという、それだけの話。
「……まあいいが、さっきも言ったように漫画には詳しくない。期待はしないでくれ」
断ってから、草月は新刊を受け取る。再度パイプ椅子に腰掛けた。パイプ椅子は一つのブースに二つあるので、少女はもう一つの椅子に座る。
「あ……一つ売れたんですね」
「ああ、新刊が一冊だけ売れたな」
誰が買ったのか、草月は口にしなかった。
「そっか……」
眼鏡の少女はちょっと嬉しそうにそうつぶやいて、草月の胸にチクリと痛みが走る。手の中の薄っぺらい本を開く。
買っていった人間は、これをゴミだと言い切っていた。
沖島海歌は食事を終えた後も、すぐにはブースに戻らなかった。というより、元々すぐに戻る気などなかった。
せっかく便利な人間に店番を押しつけたのだ。できる限りゆっくりしてから行くのが得であるに違いない。
会場の中でも人がまばらな場所を選び、適当な店を冷やかしながら歩く。その手にはなにも持っていない。なにも買っていないのだ。興味本位であちこち見はするが、売り出されている本は手に取ろうともしない。
「そもそもあたし、あんまりこういうの興味ないんですよねー」
もし草月が聞いたら、俺もだよ、と言ったに違いない。
「あ、でもアレはいいかも?」
手作りシルバーアクセサリーの店を見つけ、海歌は早速商品を検分し始める。
戻るには、もう少し時間がかかりそうだった。
「なんかさらに地味だな。絵が上手くなってる分、地味さが加速してるっつーか。引っかかりなくすらすら読めてなにも残らないっつーか」
「……だから、オブラートに包んでください」
「面白くはないな」
「泣きますよ……?」
少女が眼鏡の奥で本当に目を潤ませていたので、草月もさすがに言葉を考える。その時間を確保するために再度目を本へ落とす。
童話のような話だった。一夜の精霊がある少女を好きなり、ずっと一緒にいるために太陽を隠してしまう。だけども太陽をなくした世界は急速に生気を失い、朽ちるように死んでいく。結局、取り返しがつかなくなる前に一夜の精霊が少女へ別れを告げ、朝日とともに消える。
幻想と恋と別れ。なんとももの寂しい話だが、ストーリー自体は悪くないように思えた。
読みにくいほど絵が汚いわけでもない。むしろ周囲と比べても上手な方だ。
問題なのは全体的に地味で平坦で、盛り上がりに欠けるイメージ。
「まあ、プロってわけじゃないしな。こんなもんなんじゃないのか?」
「……同人作家でも、面白い人は本当に面白く描くんです」
「つってもまだ二冊目なんだろ。そんなんで傑作ができるわけあるかよ」
「それはそうですが……なにか、気づいたことってないですか?」
「そうだな……」
少女の声音は真剣そのもので、草月も仕方なく真剣に考える。とはいえ、普段から漫画を読む方ではないため、なかなか思いつかない。それでもかなり昔に見た有名な漫画を思い出して比較して、しばらく腕を組んで考える。
「もっと……ババーン、みたいな」
そうやって真剣に考え、できたのは頭の悪そうな擬音だけだった。
というか馬鹿丸出しだった。
「ババーン……ですか?」
少女も目をぱちくりさせていた。
「おう、ドドーン、でもいい。ゴゴゴゴゴ、とか、シャキーン、でもいい。なんかそういう感じのアレが足りない気がする」
抽象的で、言葉は全く足りない。草月自身もなにを言っているかよく分かってない。だが言わんとしたことは分かったようで、少女はなるほどとうなずく。
「あとは人物だが、なんか魂入ってない感じだよな」
それはさらりと言えて、言った後に草月は疑問に思った。その疑問の答えは用意されていた。
「なるほど……」
そして、それにあっさりと頷いた鷺宮という少女を見て、草月は納得した。納得してしまった。
机の上の本を見る。そういえば。思い返せば。周りをよく見れば。
「なあ、この二冊はあんたのオリジナルだよな?」
二冊とも前知識なんてない草月が普通に読めた。つたないところはあっても、一冊のうちで話が始まり、完結していた。
「え? あ……はい、そうです……」
「こういうとこの商品って、普通は元の作品があったりするんじゃないのか?」
「たしかにパロディが多いですけど……オリジナルもあります。この区画は全部そうです」
鷺宮はそう説明してから、少し残念そうに足下を見る。
「……まあ、パロディの方がお客さんにも人気なんですけどね」
「だから一冊売れただけで喜んでたのか」
会場は区画で分けられ種類別されているらしい。改めて見れば、このあたりは特に人が少ないように見えた。
元になる好きな原作があるわけではない。それは分かった。
だからこそ分からない。
盛り上がりに欠けつつ無難にまとまって、なおかつ結構な技術と完成度を誇るこの作品には、確かにそれが見えてこない。
「なあ、あんたは……」
鷺宮はこんなものに情熱を傾けられない。少年はそう言っていた。それが核心だったのなら、たしかに致命的だ。時間と、手間と、技術を費やしてなお情熱のない作品など、薄ら寒いにもほどがある。
珍しく、草月は躊躇した。
「これの、なにを書きたかったんだ?」
「え……?」
鷺宮は固まった。意外な問いだというように。
「しーちゃんただいま! お兄さんもおっつかれさまです!」
場の空気を吹き飛ばすような、元気あふれる声量。底抜けに明るい声の主は小柄な身体を弾ませるように駆けてくると、唖然とする二人の前に紙袋を置き、その中身を広げる。
出てきたのはいくつものシルバーアクセサリー。
「どーですかこれ、かっこよくありません?」
海歌が自慢げにいくつか取り上げて見せる。チェーン、馬、ハート、剣、弓矢などなど。手作りの一品物なのかどれも細かい所まで作り込んであり、たしかにセンスはいい。
話の腰を思いっきり折られた草月は、机の上のアクセサリーと海歌を見比べる。
「……おまえには似合わなそうだけどな」
「ひどくないですかそれ!」
「おまえが付けたら、かっこいいというよりほほ笑ましいな」
「子供扱いっ!」
「いや実際、どう思うよ鷺宮さん」
話を振られた鷺宮は少し考えた後、申し訳なさそうに目を伏せる。
「うん……あんまり似合うとは思えないかな……」
「しーちゃんまで!」
絶望したように頭を抱える海歌。それがおかしくて、草月はぬるく、鷺宮は控えめに笑う。
それを見て、海歌は眉をひそめた。
「……なんか仲良くなってる?」
「ああ、おまえとよりは仲が良いよ」
「この短い間でそんな仲にっ?」
「知り合いくらいになった」
「あたしが評価低いっぽい!」
むー、と口を尖らせて不満をあらわにする海歌。だがすぐに機嫌を直すと、アクセサリーの中から両の手に一つずつ握り込む。
「まあいいですよーだ。はい、しーちゃんにはこれ。お兄さんにはこれ。プレゼント!」
鷺宮に差し出された右手には、凝った装飾のなされた十字架。草月に差し出された左手には、柄糸まで精緻に造られた日本刀。ともに黒い布紐に通されており、シックなネックレスに仕立てられていた。
「くれるのか?」
「プレゼントですから当然です。どうです? お兄さんのイメージにぴったりでしょ?」
「飾りは好きじゃないんだがな」
言いつつも、まんざらでもなさそうに草月は受け取ったネックレスを手で弄ぶ。
「……わたしも」
一方の鷺宮はどうすれば良いのか分からなそうに、手の中の十字架を見下ろしていた。
「いやおまえはもう少し着飾れよ。とりあえずそれ首にかけとけ」
「そういうの……似合わないですし」
「若い女なんだから飾りの一つくらいつけても罰は当たらんぞ」
同年代のくせに年寄り臭いことを言って、草月はネックレスを首にかける。そして、やれやれと立ち上がった。時計を見ればもう十五時を回っている。
騙されてよく分からない場所に呼び出され、暇なだけの店番を押しつけられ、興味のないことに休日を浪費した。
「もう店番はいいだろ? そろそろ帰るわ」
それでも、振り返ってみれば。
人の役に立ち、時間をつぶせる居場所があった。知らない世界を覗き見て、知らなかった人間と出会い、慣れないことだってやった。ささやかだが報酬も受け取った。
「ありがとな。まあ終わってみりゃ、こういうのも悪くなかったよ」
いつぞやと同じような台詞だが、本心だった。
「だから、次は普通に呼べ。人手が要るなら手伝ってやるから」
よほどその申し出が意外だったのか、海歌は不思議そうに草月の顔を見上げる。小首をかしげ、あどけなく目をしばたかせる。
「まだ何も終わってませんよ?」
「……片付けまで手伝えってか?」
「それもありますけども」
「あるのかよ」
「男手重要ですし。というか、あたしの用事はまだ終わってないというか本題は始まってもいないというかですね」
んー、と顎に人差し指をあてて考えてから、海歌は再度口を開く。
「店番を頼むためにお兄さんを呼び出したわけじゃないですし」
「そうか、俺の握力を頭蓋骨で計りたいか」
「お兄さんが本気出したらスプラッタになりそうですからやめてください。そうじゃなくてですね、あたしの占いはこれからが本番なんですよ」
「これからまだ何かあるのか」
「あります」
断言する海歌を、草月はうさんくさそうにじと目で眺め、それからやれやれと大きく息を吐いて、背を向ける。
「腹が減った。飯食ってくるわ」
捨て台詞のように、そう言い残した。
防音処理のされた薄暗い空間。
ひしめく人々のざわめきと、準備の整ったステージ上の演奏者たち。
ドラムから入る。ホールが期待に満ちる。
ベースが合わせる。リズムが色づく。
ギターがかき鳴らされる。ヴォーカルが声を張り上げる。
体中を揺さぶるような大音量に、心を揺さぶる歌声に、満員の観客が一斉に沸いた。
「……さっきとは別の場違い感だな、これは」
一番後ろの壁際、入り口近く。大音響の中、草月は声を隣まで届ける気もなくつぶやく。
即売会が終了し片付けも終えてから、海歌はブースにあった大きい鞄を肩にかけ、行き先も告げず電車とバスで草月と鷺宮を連れ回した。たどり着いたのは街の外れ、古くて小さなライブハウス。海歌は最初からここへ来る予定だったのか、ライブの前売り券は三人分持っていた。
「あー、もういつの間にかこんな盛況になっちゃって! 前なんてお客さんガラガラだったのに時人の馬鹿!」
その海歌は前が見えなくてすっかり不機嫌に文句を言っていた。当然それは前で演奏する四人の実力と努力の成果であるし、自分たちがライブの途中で入った以上最後列なのは仕方がない。不満も苦情もまったくお門違いというやつである。これはもう単純に海歌の背が低いのが悪い。
「…………」
地味な服装に地味な眼鏡の地味な鷺宮はこんな場所には来たこともないのか、完全に固まっていた。彼女こそ完全に場違いだ。先ほどまでのテリトリーから一変、岩穴で天敵に囲まれた小動物のようで、未知な恐怖に捕らわれて身動きもできていない。
ロックンロールは岩穴で生まれたんだったか、と草月はどうでもいいことを思い出しつつ、ステージを見る。
メンバーは四人。ヴォーカルは女性で他は男性。若く、おそらく十代のグループに見えたが、全員がかなりの腕前だった。
ドラムは豪快で力強く、
ベースは楽しげに音を広げ、
技巧派のギターは正確に曲を紡ぐ。
それに乗せるヴォーカルの歌声は、歓喜に震えるような美しいソプラノ。
観客はリズムに合わせ足踏みし、歓声を上げ、腕を振って音楽に没頭する。
演奏と、熱狂。
「こいつも祭りか」
学生たちの雑多な色合いが見える文化祭とも、漫画好きたちが集合し作品を売買する即売会とも違う。ステージを中心に熱気が集中し、ホールごと一つになるような感覚。
身体を震わす音が、充満する熱気が、否応にも鼓動を早める。
「いい歌だ」
草月は壁に背を預けた。両脇の女子を意識から外し、曲に聴き入る。
もしかしたら。
ここで腕を振り上げ、足を踏みならし、周囲のように叫声をあげて熱中すれば……彼らと同じになれるのかもしれない。そんなことを考え、すぐに頭を振る。
草月はそこまで音楽に詳しくない。音楽という娯楽を彼らほどに楽しめない。この曲は良い歌だと思うし、それを聴いて身体の内側から込み上げてくるものもあるが、自己を忘れるような楽しみ方ができない。
「……いい歌だ」
そう、再度つぶやく。そんな何のひねりもない感想が精一杯。その程度でしかできない。
だから言った後、心に開いた穴に寒風が吹いた。
悔しくて、さみしくて、笑ってしまうような。
隣を見れば、いつのまにか海歌はどこかに消えていた。きっと無理矢理前に行ったのだろう。ここに連れてきたあのじゃじゃ馬娘は、今という時間を楽しむのが得意なのだろう。
反対側を見れば、鷺宮は先ほどまでと変わらず固まっていた。曲に集中しているのか視線はステージを向いているが、どちらかといえば歌の意味や演奏の秀逸さを読み取ろうとする眼差しだ。音を聞き漏らすまいとする生真面目で真剣な表情は、他の客たちの楽しみ方とは明らかにズレていた。
「すごいよな」
苦笑とともに、草月は鷺宮に話しかける。
きっと彼女もこの曲に心を揺さぶられている。感動している。
だけど、それを上手く表に出せない。周りを見ればやり方は分かる。分かっていても、できない。
……おそらく、共感だった。
ここにいる中で、自分たちだけが仲間はずれ。
「すごいです……」
呆然とステージを見たまま、うらやましそうに鷺宮は言った。彼女はずっとステージの上の一人を見ていた。
鷺宮のその視線の先にいる人物を、草月は知っていた。ここに入ってすぐに気づいていた。
「よお、ご機嫌だな」
ステージでギターを弾いているのは、鷺宮の同人誌を買っていったあの少年だった。
「やっほぅ時人! おひさし!」
「お久しぶり、鷺宮」
海歌を丸無視で挨拶する金髪の少年……時人は、あの熱気のただ中にいたにもかかわらず、汗一つかいていない。疲れも見せず、涼しい顔でギターケースを担いでいた。
「ちょ、なんで無視! あたしだよあたし、みんな大好き海歌ちゃん!」
「急に来て理不尽に呼び出して何言ってるんだ。物販抜けて来るの不安なんだぞ。うちのメンバーいい加減なやつばかりなんだから」
どうやら苦労人のようだった。
「CDとかTシャツとか売ってたあれか。行列できてたな。誰かの同人誌とは大違いだ」
草月が茶化すが、当の鷺宮は気を悪くした様子もなく頷く。
「はい、ほんとうにすごいです」
時人はそんな二人を見て、それから草月へとまっすぐ視線を向ける。
「君は誰さん?」
なるほど、と草月は心中でのみ頷いた。
「初めまして、名もない脇役Aだよ。あんたは?」
「ギターのTOKIHITO。よろしく脇役A」
適当な名乗りと、やはり適当な名乗り。即売会のことは口外していないと伝え、確認するだけのやりとり。
白々しいが、それで十分だったのだろう。時人は草月について全く興味を失い、海歌へと向き直る。
「で、用件は?」
「時人の成長を見たげようと思ってね」
海歌はにっこりと楽しそうに笑い、時人は渋面になる。
「鷺宮が?」
「ううん、そこのお兄さん」
海歌が示したのは、当然のことながら草月だった。時人を除けば、他に男は草月しかいない。
時人は訝しそうに眉を曇らせる。草月もまた、聞いてない話に口をへの字に曲げた。
「……どういうこった?」
草月が代表して聞くと、海歌はこの上なく楽しそうに笑む。
「時人も強いし努力してるから、ここで二人に喧嘩してもらおうと思って」
その言葉を受けて、草月は時人へと向き直る。
「なあTOKIよお、もう使ってない安いギターとか持ってないか? 今すげぇ音楽やってみたいんだが」
「残念だけど無いよワッキー。ベースなら使ってないのがあるから譲ってもいいけど?」
「無視するな男ども!」
「おっ、マジかよいいのか?」
「メンバーからペナルティで取り上げたけど、それでも馬鹿が治らなかったからもてあましてる。ワッキーがもらってくれるならありがたいくらいだ」
「ラッキィ。馬鹿に感謝! じゃあいつくれる? 今か? これからか? TOKIの家行くか?」
「すでにあだ名で呼び合うとか、仲良すぎじゃないですか初対面のくせに!」
実は初対面ではないし、会話も実は口止め料のビジネストークである。だがそんなこと、あの場に居合わせなかった女性陣には分かるはずもない。海歌は背伸びをして自分の存在をアピールし、男性陣はウザそうに顔を背ける。
「つか、そもそもなんで恨みもないヤツと喧嘩しないといけないんだよ。こっちは平和主義者で通ってるんだぞ」
「同意だね。それに僕は忙しいんだ。君の遊びに付き合う気は無いよ」
「なんでこんな意外な反応っ? 二人ともそっち系の人種なのに!」
そっち系、と海歌は草月と時人を一括りにした。草月からすれば失望すら感じる言葉である。
「ワッキーって格闘技でもやってるのかい?」
そう聞く時人の体つきはファッション雑誌に載りそうな風体で、全体的に線が細く色も白い。とてもじゃないが戦いに向いた身体つきには見えない。仕草や重心にも、染みついたものは見て取れない。
「まあなー、剣術を少々」
「ふーん。つよそうだね」
時人はそれだけで会話を終わらせた。そして、話題をあっさり変える。
「ところでこれからご飯とか食べに行くかい? この近くならおすすめの店くらいは紹介できるけど」
「お、いいな。もういい時間だしな」
「あんたらホントに仲いいですね!」
仲よさそうに歩き出す男子二人に海歌は地団駄を踏んで不満をあらわにするが、やがて意を決したように眼光鋭くすると、ぽけーっと成り行きを見守っていた鷺宮の手を引く。
「しーちゃん行くよ! あいつら絶対戦わせよう。このままじゃ終わらせないんだから」
「え……わたしも?」
時人が案内したのは、ライブハウスからそこまで離れていない、ただし少し奥まった場所に建つハンバーガー屋だった。
よくあるチェーン店ではなく個人経営の店で、西部劇の映画に出てきそうな外観。店に入るとスキンヘッドの強面なマスターがフライパンを豪快に振っていた。
出てきたハンバーガーは普通とはサイズが全然違った。
巨大。そんな言葉が似合う、肉と野菜をパンで挟んだ食べ物。
ただしただの食料ではない。分厚い肉は溢れるほど肉汁がしたたり、おおざっぱにちぎられた野菜は新鮮で、パンはまだ湯気がたつほど焼きたてだ。
「おおお、これはテンション上がるな! こういうの待ってたんだよ俺は!」
「合わせの練習の後はだいたいここかな。見た目は雑だけど、ソースやマスタードまで手作りしてて美味いんだ」
歓声を上げる草月と、馴染みの店を自慢する時人。気が合うのか、それとも社交性が高いだけか、二人ともすでに友人のようにくだけた調子だった。
対してテーブルの向かいに座る女子陣は……というか海歌は、不機嫌そうにジト目で二人をにらむ。
「大誤算。いきなりこんな仲良くなるなんて」
「……まあ、わたしから見ても無茶な話だとは思うよ?」
困り顔の鷺宮にも指摘され、海歌は考え込む。悩み顔のまま大きく口を開け、ハンバーガーをかじった。
「うむ、おいしい」
偉そうに頷き、口元についたソースをぬぐうと時人に声をかける。
「でも女の子を連れて来るお店じゃない。時人、相変わらず細かいことに気が回らないようね」
「……うちのヴォーカルが教えてくれたんだけどな、ここ」
首筋を人差し指で掻きながら、時人は店内を見回す。店の雰囲気は珍しくて小洒落てはいるが、確かにこの店は男性向けだ。出される品は量もカロリーも多い。女性に向かないとは言わないが、他にも選択肢はあっただろう。
「でもわたしは……こういうところは知らないから……楽しくていいかな」
同じように店内を見回した鷺宮は、言葉通り少し楽しそうだった。
「というか、少なくともおまえは気にしないだろ」
草月は口の中のものをコーラで流し込んでから茶化す。
「……これでもあたし、太らないよう日々の努力してるんですけど」
「仕事中に大口開けてチョコ喰ってたヤツが?」
「ぐ……と、というかそんなことより、時人に言っておきたいことがある」
話が悪い方に傾きかけたのを察知したのか、海歌は強引に話を変える。
「演奏、ずいぶん上手くなったじゃない」
言葉の内容とは裏腹に、声はずいぶん冷たかった。
「ありがとう。お世辞でもうれしいよ」
涼しげな、定型文の返事。それを受けた海歌は、声を低くして金髪の少年を睨む。
「もしかして、ギターにかまけてサボってないでしょうね?」
「ちゃんと君の言いつけ通りのメニューはやってるさ。最近はそれなりに手応えも感じてる」
「じゃあ、試しなさい。実験台がいるんだから」
実験台。そう、海歌は言った。
おそらく自分のことだと推測して、草月は美味そうにコーラを飲む。
「イヤだよ。やる理由が無いし、なにより無意味じゃないか。色んな意味でナンセンスだって、君が一番知ってるはずだけど?」
むう、と海歌は不満そうに口を尖らせる。どうやら無意味なことには同意らしい。
会話を横で聞きながら、草月はハンバーガーにかぶりつく。
もし、仮にの話。
いざ戦闘になった時武術の玄人が素人に負けるなんて、わりと頻繁に起こるものだ。
武器の有無から心の乱れ。体調や明暗。足場や天候。障害物。様々な状況が折り重なれば、武術家だって不覚くらいは取る。
ならば極論、相手を倒すのに習得するものは、武術でなくてもいい。人間は人間である限り脆いのだから、手品めいた何かで虚を突くだけでも、十分な効果が期待できる。
(仕込みか?)
当たりを付けて、草月は改めて時人を観察する。
格闘技をやっている体つきでは無いが、どこかにナイフを持っているとか、あるいは拳銃でも隠しているとかなら、体格は関係ない。
「お兄さん」
不機嫌さを隠さない海歌は、今度は草月へと顔を向ける。
「お兄さんは平和主義者なんですか?」
時人への挑発が空振りに終わったからか、話の矛先を草月に変えたようだった。
「おう。喧嘩は自分でしかけることはないな」
「仕掛けられたことはあるって言い方ですね」
「暴力は便利だぞ。場合によっちゃ、目の前の面倒が一気に解決する」
あっさりと答えた草月に、他の二人は呆れ顔をする。
海歌だけは無反応で、確認するように質問。
「必要な場面なら、暴力にためらいはないんですね?」
「ないな」
「では、理由があれば喧嘩は厭わないと?」
「そうなるかもな」
海歌の静かな質問に、食事を続けながらも淡々と答える。
「たとえば、何が理由になります?」
「たとえばおまえが斧とか持ったイカれてる殺人鬼に追いかけられてりゃ、俺はその間に割り込むだろな」
草月は空中に放り投げたポテトを口でキャッチして、ろくに噛まずに飲み込む。
「TOKIがでっかい怪物とか化け物と戦ってりゃ、当然俺は嬉々として助太刀するさ」
そんな場面を想像したのか、時人は口元を歪ませ微妙な顔をした。
「鷺宮さんが悪いヤツに誘拐とかされたら、俺は俺の全力の暴力を引っさげて助けに行く」
突然の突拍子もない話に、鷺宮は目をぱちくりとしばたかせる。
草月は心底残念そうに、海歌へと視線を向けた。
「けど、ここは現実なんだよ。そんな状況にはそうそう出くわさない」
道を四人で歩く。
駅までは少し遠く、間を持たせるように草月と時人はしゃべり続ける。内容は楽器の練習法やバンドの苦労話、ハンバーガーの味など。鷺宮は横で聞くが会話には参加せず。そんな三人より二歩分遅れる海歌は、大きな鞄を肩にかけ不機嫌そうについて行く。
駅で別れたら、この四人が再び集まることはもうないだろう。軽い会話を続けながら、草月は当たり前のようにそう感じた。
海歌とは学校で会うこともあるだろう。時人からベースを受け取る約束もしている。
だけど、それだけだ。鷺宮に至っては連絡先も交換していないし、もう一度集まろうという話も誰もしない。それをするには、この四人は個々の色がバラブラすぎる。
三人は元から互いに知り合いだから、何かあれば集まることはあるだろう。しかしそこに草月が加わることは、もう無いに違いない。
本日限りの希薄なつながり。出会いは適当で、別れは曖昧。
(……違うか)
会話相手の時人に気づかれないよう、少しだけ視線を伏せた。
……何よりも。
他の何よりも、草月からこれ以上、彼らに関わる気がない。
会えば挨拶する。呼ばれれば赴く。助けろと言われればできる限りのことはする。
だが、自分からは関わらない。
人付き合いが苦手なわけではない。むしろ人と話すことは得意な方だ。しかし弧道草月という人間は人と接するとき、必ず一歩引いて相対する癖がある。
その一歩分の距離が、超えられない境界線となる。
「……お兄さん」
深いため息とともに、それまで黙っていた海歌が口を開いた。
人気の無い場所だった。ろくに手入れされていない緑が生い茂る、大きな池のある広い公園の前だった。一個だけの街灯が道を照らしていた。
「なんだ?」
振り向いて草月は聞いた。海歌は不本意そうに諦めた顔をしていた。
「時人の腑抜けに期待したあたしが馬鹿でした」
「酷い言いざまだ」
真っ当な抗議を無視して、海歌は肩にさげた大きな鞄のジッパーを開くと、中を探る。
ずるり、と。
それを出した。
「でも、せっかくこんな物まで用意したんです。ちょうど広い場所もあります。振ってみてくれませんか?」
黒塗りの鞘に納められた刀。拵えと反りのある刀身からして太刀。刃長は六十センチより少し長いか。
「何を持ってきてるかと思えば、危険物かよ。そんなものどうやって手に入れた?」
今日一番の呆れ声で、草月は海歌を見る。鷺宮も時人も目を丸くしていた。当然だ。だって日本刀である。警察に見つかれば銃刀法違反であっさり犯罪で、そんなものを海歌は今日一日ずっと所持していた。……草月に振らせるためだけに。
草月は一度視線を公園内に向け、それから再度人気の無いことを確認し、海歌へと近寄る。
「見せもんじゃないんだがな。そもそも、むやみに見せて良いものでもない。敵に技を知られちまったら、立ち会いで不利になるだろ?」
言いながらも手を伸ばし、刀を受け取った。
思えば。
海歌は常人離れした洞察力を。
鷺宮は自作の漫画を。
時人はバンドの演奏を。
三人ともがそれぞれ披露した。
であるならば、草月も自分の何かを見せるべきだ。
どうせ、これっきりのつきあいになるのだろうし。
「だからまあ、ちょっとだけな。ついて来いよ」
鷺宮と時人も誘って、夜の公園に入る。
夜は静かで、風は柔らかく、木と水のにおいがしていた。
池の畔まで歩く。驚くほど人工の光源は無かったが、今日の月は半分よりも大きく、池に幻想的な光を反射させていた。
闇に慣れた目には十分な明かり。草月は三人を少し離れた場所で立ち止まらせると、足を肩幅に開いた。
「ねえワッキー、剣道は何段くらいなんだ?」
そこまで興味もなさそうに時人が聞いて、草月は微笑して答える。
「段位は持ってないな」
「……じゃあ、級?」
「そもそも俺のは剣道じゃない。剣術だ」
「それ、何が違うの?」
「目的と手段が違うかな」
左手に鞘を持ち、腰の辺りに添える。親指で鍔を押し上げ、無音で鯉口を切った。
スゥ、とほとんど音をたてず剣を抜く。ゆるやかに、しかし淀みなく、流れるように体躯が動く。月明かりが刀身に鈍く反射する。
その所作だけで、見物の三人は息をのんだ。
初見で草月の力を見抜いた海歌も、状況に流されるままついてきた鷺宮も、興味なさげにしていた時人ですらも。
たったそれだけで、弧道草月という男の片鱗を垣間見た。
「刃が無いが、模造刀ってわけじゃない。造りかけか?」
刀としての形は整えられていたが、その刀身には刃がなく、地金もそのままで鏡面にもなっていなかった。
「……まだ試作品です。さすがのあたしでも一度振ってる姿を見ないことには、お兄さんに合うものが分かりませんから」
我に返った海歌が応え、草月はそれに引っかかりを覚えた。訝しげに刀と少女を見比べ、茶化すように口を開く。
「おいおい。その言い方はおまえ、造ったのは自分だって聞こえるぞ」
「そうですよ。あたしがそれを鍛えました」
少女はあっさりと首肯した。あまりにあっさりとしていて、草月は唖然とする。
刀を鍛えるということ。それがどれほど厳しく、難しいのか。
海歌のような小柄な女の細腕で、それを成し遂げるのがどれだけ不可能であるか。
それくらいのこと、草月は知っていた……が。
「……重心。握り。反り」
一度柄を握り直すと、ゆっくりと丁寧に、地面に鞘を置いた。流れる動作で剣を正眼に構え、軽い踏み込みとともに振る。
疑念や困惑ごと斬って捨てる。
刀があれば、だいたいのことはどうでもよくなるのが常だった。
思考がシャープになって、視界が広がって、世界が色づき、空気すら掌握する感覚。
「良い仕事してやがる。刃なんざ無くても間違いなく上等だ」
にぃ、と笑って剣を褒めると、草月は周囲を見渡した。すぐにちょうど良いものを見つけ、歩み寄る。
「……何、してるんですか?」
海歌が正気を疑うような声を出す。
樹。
高さは草月の四倍。幹は草月の腰より太い。見える範囲で最も太く、堅そうな樹。
それを前に、草月は正眼に剣を構えた。
「予想してみろよ、占い師」
時人も、鷺宮も呆気にとられた顔で見ていた。占い師でなくとも、誰だって草月がやろうとしていることくらい分かる。そして、それがいかに常識離れしているかも。
「馬鹿ですか?」
冷たく海歌が聞いた。
「刃がついてても無理です。生きてる樹の堅さ舐めてるんですか? 折れます」
「手刀でビール瓶切る空手家だっている」
「木を切るのは斧の役目です。斧だってそんな木、何度も振らなきゃ倒せません」
海歌の苛ついた声。彼女の目はそれを不可能だと断じている。できるはずがないと計算を終わらせている。
「手刀だって瓶切るためのもんじゃねぇさ」
「試作品でも無駄に壊されるのは腹が立ちます」
「安心しろ。壊さん」
「だから―――」
風を斬る音がした。それ以外の何の音もしなかったように思えた。
光が薙いだような気がした。一瞬で消えた。
時が止まったかのように感じた。刀を振り抜いた草月が残心していた。
「よく見ろお前ら」
ず、と。木の幹がずれる。
刃こぼれ一つ無い刀を下げ、草月は倒れる樹を眺める。
己のやったことを……己がやってしまえることを、確かめるように。
「化け物ってやつが、ここに居るらしいぞ」
誰かに言われたことがあるのだろうか。誰に言われたのだろうか。
バキバキと枝が折れる音をたてながら木が倒れていく。
重く鈍い音が公園内に鳴り響き、一度だけ小さくバウンドして、ぐらりと揺れて樹は倒れきった。
草月は三人に振り向かなかった。
己の芸を見せるつもりでいた。そうでなければ不公平だと思った。
いざ見せてしまえば。後悔しか残らなかった。
自分は、普通とは違う。
違いすぎる。
刀を手にした今、草月は改めてそんな実感に支配されていた。
(……そうか)
ようやく悟って、草月は目を閉じる。
(今日、俺は楽しかったんだな)
騙されて、振り回されて、慣れないことをして。馬鹿にされたり馬鹿にしたり、へらへら笑ってしゃべって飯も食って。
隠して合わせて一歩引いて、ガラスの壁ごしに居させてもらっている感覚など一切なく。
今日の自分は普通の人間のようだったから。
酷く、惜しく感じた。
―――ほら、当たるも八卦当たらぬも八卦。信じるかどうかはあなた次第!―――
そんな、馬鹿のように明るい台詞が頭をよぎった時。
草月は後頭部を狙って飛んできた凶器を、身をよじってかわしていた。