幸せの権利
「チキンなんて久しぶりに食べました。真広くんポテトどうぞ」
クンタッキーの店内でチキンを頬張る。さすがクリスマスシーズン、会社帰りのサラリーマンやOL、カップルで店内はごった返している。
雪乃に差し出されたポテトをありがたく頂戴しながら、ドリンクをもっとさっぱり系にすればよかったな、と後悔する。暖房が効いている心地よい室温と、カップの周りを濡らす水滴。
「っていうかなんで真広くんロイヤルミルクティーのアイスなんですか」
「気分で決めたんだけどミスったなって思ってる」
雪乃はウーロン茶をすすりながら言う。
「明日はイブですよ。毎年めっちゃくちゃ忙しいので覚悟してください」
クリスマスに花を贈るなんてロマンチックですね。感情の全くこもっていない声。
「友達はみんなカレシと過ごすらしいです」
ため息を吐きながら今にも死にそうな声を出す。残念ながら雪乃は独り身らしい。
「雪乃は誰かに誘われてないの?」
真広の問いに雪乃は笑った。
「全く」
友達は皆カレシと過ごす、私はバイトです。中学生働かせちゃいけないんですよ。ぶつぶつと小言を言う。
「真広くんはカノジョと過ごさないんですか」
「まさか」
「ですよねー」
完全に悪意のこもった対応である。普通に傷つくからヤメロ。
「雪降りませんかね。天気予報だとクリスマスまでずっと晴れですけど」
雪乃はガラスの向こう側、イルミネーションでかすんでしまった冬空を見上げる。きっと都会のネオンとクリスマスイルミネーションがなければ、綺麗に星が広がっていたことだろう。雲ひとつない、冬の寒空だ。
「まぁ天気予報も外すかもしれないし。今日だって雨とか言ってなかったっけ」
「そうですよね。地域によってはみぞれ、とか」
空には、近年消滅すると騒がれているオリオン座が輝いている。
「ホワイトクリスマスって、素敵じゃないですか?」
「もし雪降ったら電車止まるから俺バイトいけないわ。忙しい日にゴメンナサイ」
雪乃はむぅ、とうなった。
「もうちょっとノってくれていいじゃないですか。一年に一度しかないんですよ?」
ずず、ウーロン茶を飲み干してもなお氷水をすすろうとする雪乃に、甘ったるいロイヤルミルクティーをそっと差し出す。
「でも毎年あるだろ」
雪乃は目を見開いたあと、小さく笑った。
「なんか大人ですね、真広くん」
雪乃の携帯が鳴り響く。今流行のジャニーズ系の男性5人組ユニットのヒット曲だ。雪乃は慣れた手つきで携帯を開く。ピンク色の折りたたみ式薄型ガラケー。
「お父さんからメールです。『大事な話があるから、真広くんを連れて、お父さんの分のチキンを買って、帰ってきなさい』」
チキンを買う列を眺めながら、雪乃は苦笑いを浮かべる。うーん、と唸って、携帯をバッグにしまった。
「帰りましょう、チキンは諦めてもらいますね」
あまりにも早い、しかし賢明な判断である。
*
「ただいまぁ」
「おじゃまします」
雪乃はローファーを脱ぎ捨てて、とんとんと軽快に階段を上っていく。真広もあとに続いた。
「おかえりなさい」
奥さんの声が出迎える。いつも食事をご馳走になっている部屋に入り、荷物を下ろす。雪乃のカバンからはみ出しているチョコパイは、ケーキの列にもチキンの列にも並ばないで帰ってきたことへの謝罪のつもりである。
4つの椅子に、店長と奥さんが並び、その向かい側に雪乃と真広が隣り合って座る。いつもの食事のときのような明るい雰囲気ではなく、重苦しい空気に包まれていた。
張り詰めた空気。なかなか喋りださない店長に、雪乃も不安そうな表情になる。
時計の針が動くリズムが響く。
「…真広くん」
真広は顔を上げた。
「君はどうして高校に行っていないんだ?」
雪乃が弾かれたように身体を硬直させた。店長を見つめ、お父さん、と強く呼ぶ。
「両親が死んで、近しい親戚も知りません。経済的な余裕がない上、特に将来の目標もないので、勉強をするより他にやるべきことがあると思ったからです」
もちろん、真広と同年代の人たちが学校に通うことを、羨ましく思ったことがなかったわけではない。しかし真広は、受け入れてしまっていた。家族がいないとはどういうことなのか。経済的、精神的な支えがないということが、何を意味するのか。
雪乃は悲しそうな表情をした。
「真広くん、君はとても頭がいい。そして若い。未来がある。成長した自分のために、教養を蓄えることは決して悪いことじゃない」
店長は真っ直ぐ真広を見て言った。
「お金がないのなら、ウチが出す。だから真広くん、」
言われた言葉の意味を理解するのに、そう時間はかからなかった。
「家族にならないか」
*
『母さん、』
呼ぶ声は空しく響いて、ひとりきりの部屋に吸い込まれた。
『苦しかったよな』
優しく、強い人だった。明るく子供達を第一に考えてくれて、近所の子どもたちに羨ましがられるような母親。
『ごめんな』
謝って済むことではないことは分かっているし、それ以上に、真広を叱って、その後笑って許してくれる人はいないのだ。それでも言わずにはいられなかった。
母親や幼い弟達を置いて逃げた自分の弱さと、たったひとりだけ生き残ってしまった罪。
助けてあげたかった。
*
一人で生きていこうと思った。一人で生きていくんだと思った。
*
雪乃は目を見開いたまま、真広を凝視した。奥さんは真剣な瞳を向ける。
「店長、俺は――」
真広は震える声で言う。感情が高ぶると声が震えるのは昔から同じだった。兄弟喧嘩のときも、幼い弟にいつも馬鹿にされていた。母親は、お父さんに似たのね、と笑っていた。
「俺は、そこまで出来た人間ではありません」
膝の上に乗せた手を握る。
「賢いといっても、所詮中卒です。しかも卒業してから時間が空いています。高校で勉強するとして、それが実になるとは思えません」
店長は黙って真広の言い分を聞いていた。
「それに、いつもお世話になっているのに、これ以上迷惑をかけるわけにはいきません」
確かに温かかった。同じテーブルを4人で囲んだとき、本当に家族になったみたいだった。嬉しかった。心地よかった。だけど、
「皆死んだのに、俺だけ幸せにはなれません」
父を、母を、弟を、忘れて俺だけ進むわけにはいかない。
真広の決意は固かった。それを信条に、たった一人で生きてきた。