百合
『両親は死にました。ずっと前のことですけど。母親と2歳と5歳の弟が一緒に焼け死にました。その半年くらい前に父親が死んでいたので、家族で生き残ったのは俺だけです。夜中目が覚めたら、家が燃えていたんです。俺は急いで外に出ました。俺が寝ていた部屋は一番玄関に近くて、少しだけ煙は吸ったけど、火傷とかも特になく助かりました。
焼ける家を見ながら俺は泣くことしかできなかった。泣いて膝をついていたら、近所に住んでる男の人が、家から離れろ、そう言って俺を燃えている家から引き剥がしました。俺は暴れました。外に家族の姿が見えない。燃える家から誰かが出てくる気配もない。引きずられるみたいに家から遠ざけられました。
そのすぐ後に家が崩れました。燃える天井がさっきまで俺がいた場所を飲み込んで、火の粉が飛びました。一歩遅かったら、俺は燃える瓦礫の下敷きになっていた。ギリギリで助かったんです。
火が消えたあと、瓦礫の中から人の形をした黒いものが見つかりました。細い女の人と、その腕の中から小さな子供が2人。焼けて崩れた壁の下から見つかりました。
それが俺の家族の最期です』
*
真広くん、と優しい声が聞こえた。身体の下には温かい布団の感触。百合の香りが鼻腔をくすぐり、あたたかな光が眼瞼の外側に見える。真広はその温度に身体を預けていた。意識は布団の中、身体も布団の中である。
柔らかい布に身体を包まれている安心感と、意識を手放していられる心地よさ。春眠暁を覚えず、とはまさにこのことである。まぁ春だろうが冬だろうが、スムーズに暁を覚えたことなどほとんどないのだが。
その心地よい時間は突如終わりを告げた。
「真広くん」
遠慮がちに、しかしはっきりとした声が真広の耳に届く。その声の主が分からない。おぼつかない意識の中で必死に声を辿る。
その声と人物が一致した瞬間、真広は勢いよく上体を起こした。
「あ、やっと起きましたね。おはようございます、真広くん」
にっこりと笑っているのは綾瀬雪乃である。バイト先の花屋の娘。なぜ、こいつが部屋に。
「昨日あのあと真広くん寝ちゃったんですよ。よっぽど疲れていたんですね」
「昨日って…」
はっきりとしない意識のまま、必死で昨日のことを思い出す。
夜は綾瀬家でご飯をご馳走になる、というのが習慣になっていた。初めて夕ご飯を食べさせてもらったとき、真広の日ごろの食生活の惨状を明かしてしまったからである。一日一食は自炊、といっても買い置きしてある『カトウのごはん』をレンチンして、適当に買ってきた惣菜もレンチンして、安売りしている何らかの野菜を刻んでレンチンしたものと一緒に食べる。他二食はコンビニか近所のラーメン屋で済ましている、と話したら、店長と奥さんが真っ青な顔で真広の肩を掴んだ。
「食べ盛りなのに可哀想に!今度から遠慮せずにご飯を食べに来ていいのよ!」
最初は気分が乗らなかったが、久しぶりに食べる手作りの食事はやはりおいしかった。コンビニ飯も嫌いではないのだが、手作りの温もりには勝てない。奥さんは料理が得意らしく、毎日張り切って食事を振舞ってくれていた。
そして問題の昨日、何があったのか。――いくら頭を抱えても、全く思い出せなかった。
「真広くん、酔っ払ったお父さんにお酒を一杯飲まされたんですよ」
その言葉の意味を理解するのにさほど時間はかからなかった。つまり真広は、たった一杯の酒で記憶がなくなるほど酔っ払い、寝落ちした。たった一杯の酒で。
「マジかよ…」
酒への耐性の無さに我ながら引いた。
「真広くんは酔っ払うと饒舌になるんですね、あんなに喋る真広くんは初めて見たと思います。」
「嘘、俺なんか余計なこと言ったか?」
「いや、余計かどうかは分からないですけど、ご家族の話とか」
「…どこまで?」
明るい団欒に暗い話を持ち込んでしまったことに、少なからず焦りを感じる。
「ご両親と幼い弟さん達が火事で亡くなった、ということを聞きました」
雪乃は目を伏せて言った。真広はため息をつく。
「…ごめん」
「謝ることじゃありません」
弱々しく笑う雪乃。気を遣わせてしまった。
*
『本日、平化26年12月22日、全国のお天気です。…』
胡蝶蘭の鉢植えのコーナーに置いてある、ラジオから聞こえてくるキャスターの声。今日は関東は雨、上空の寒気の影響でみぞれが降る地域もあるので、交通機関の乱れが予想されます。
「今日もバリバリ働こう真広くん!」
店長が真広の背中を勢いよく叩く。その勢いに負けて数歩足を前に出してしまう。
『フラワーショップあやせ』と書かれたライムグリーンのエプロンをつけ、雪乃も店に立っていた。休みなら働け、と言われた雪乃は真っ白なカサブランカを指で撫でる。
「明日模試だから勉強しなきゃいけないのに…」
小さい声で不満を漏らす。進学校は大変だ、まるで他人事のように店長は笑う。
店の裏口にトラックが停まる音がした。真広はすかさず裏口へ向かう。
「あ、多分菊の切花だ。あんまり重くないから俺がやるよ。真広くんと雪乃はそこの鉢植えを陳列して」
店長と奥さんは裏口に行ってしまい、真広と雪乃だけが残された。腰の悪い店長の代わりに、力仕事は真広の仕事だ。
床に並べられた観葉植物の鉢植え。名前は分からないが、南国系の割と大きめな木である。クリスマス色に飾り付けられた街には不似合いだ。
「重そう…」
雪乃はため息のを吐き出すように言う。
雪乃は、軟弱だ。走るのもそこまで速くない。しかしそれ以上に、力のなさが異常だった。2リットルのペットボトルのキャップが開けられないなんてザラである。この間握力を聞いたら「12キロです」と真顔で答えられた。ちなみに中学2年生女子の握力平均は26キロだという。
「俺が持つからいいよ」
「申し訳ないです」
雪乃はうなだれる。自分が花屋で働くほどの体力が無いことを自覚しているのだろう。申し訳なさそうに、レジ付近にあるラッピング用の紙の整理にかかる。
「あの、真広くん。聞いていいですか」
雪乃は少し遠慮がちに真広を見た。
「ご両親のこと」
ひどく申し訳なさそうな瞳に、思わず笑ってしまいそうになる。聞くのは駄目だ、デリカシーがない、でも気になる。そんな思いがひしひしと伝わってくる。
「いいよ」
雪乃はゆっくりたずねる。
「ご両親が亡くなってから、真広くんはどうやって生きてきたんですか」
「…しばらくは親戚の家に預けられてたけど、それ以降は一人」
「…」
「昔のことだし、もうかなり吹っ切れてるから大丈夫だよ」
真広が微笑むと、雪乃も申し訳無さそうに笑った。
ラジカセから聞こえるFM。クリスマスソングが流れ始める。店の中央には大きな観葉植物が色とりどりのライトで飾られている。店長が娘のように愛情をこめて育てている、シマトネリコという大型の木(非売品)だ。
12月25日まであと3日。
「…あとでクンタッキー行きませんか、チキンが食べたいです」
「奇遇だな、俺もそう思ってた」
残念ながら一緒に過ごす人がいない悲しき若者は、当日もきっと花屋で贈り物の花束をラッピングする業務に就くのだ。