鬼熊と竹蔵
少々流血表現が含まれております。ご注意下さい。
西の山々に日が落ちつつある夕暮れ。規模は小さいながら、肥沃な農地を持つ千代川村では、定期的に行われる寄り合いの為に、名主の家で村人達が集まっていた。議題は鬼熊の対処。さてどうするか、と村人は皆難しい表情をこさえて顔を突き合わせていた。
随分前から西の村はずれにある岩鬼山に大きな熊が住み着いていた。その事は村人も承知していたし、熊の方でも山奥の辺り、千代川上流付近を行動範囲と定めてそれ以上出てくる様な事は無かったので、村人らと遭遇、襲われるといった事態には至らなかった。
岩鬼山は山菜が豊富な為村人らも頻繁に入っていた。生活には欠かせない山でもあったので、熊がいると知ったところで山菜取りを止めるまでには至らず、また縄張りにさえ立ち入らなければ危険は無さそうであるので殊更熊の事を意識する村人などいなかった。 それがこの一月程前、山に入った村人の一人が熊と出くわした。山菜を取りに山坂を登っている最中、見上げると、八間程先の杉木立ちの中から熊が姿を表したのだ。
驚いて村へ逃げ帰ったその村人は、熊と出くわした件を皆に伝えた。縄張りから熊が出てきたとなると、今後岩鬼山に入るのは難しい。大半の者は不味い事になった、と口にしたが、その一方では、単にその村人が間違って縄張りの中へ入ってしまったのではないか、と捉える向きもあった。
そんなこんなを村人達は話あったのだが、岩鬼山の山菜は重要だ、との意見が増して、熊の出没には気を付ける、という形に話は落ち着いた。
それが暫くして今度は山の麓で熊が目撃されたのだ。しかも今回は村人一人が襲われた。常彦という村人で、熊の一撃を受けて胸から腹にかけて大きな傷を付けられたのだ。山に入ったのは常彦の他に二人いたため抱えられて何とか逃げ帰る事が出来たものの、村人らはこの事態に大きな衝撃を受け、数日前から熊対策の寄り合いを始めたのだった。
「皆どうするべ?」
「何ぞあん熊を退治する方法はないものか」
「このままではいずれ死人が出よるぞ」
「やはり山に入るのは諦めないかんのかのう」
話し合いは熊を何とか退治して、安全を確保したい、という筋にそって行われるのだが、そもそもそれは村人らの単なる願いであって、全く具体性を帯て来ない。単に熊の呼称として
「鬼熊」
と付けられたのが唯一進展した点であって、肝心の熊対策に至っては、何とかせねば、という以外一向に話は進まないのである。
ひとつにはやはり岩鬼山の山菜取りを中止する事へ抵抗を感じている村人が大半を占めていたからでもあったが、他方では鬼熊退治の具体案を口にした暁には、実行責任が自分の身にかかって来るというのを恐れていたからでもあった。 村人達は誰かが口火を切るのを互いに待っているのだ。
しかも、その誰かというのが部屋の隅で話し合いを聞く、年若い村人に矛先が向いているのを、なかば意識し、なかば素知らぬ振りを装って感じていた。そうして暗黙なる了解の元、わしらではどうにもならんのう、誰ぞ良い知恵は無いものかのう、などといってチラリチラリと視線を走らせ、暗にけしかけていたのだった。
部屋の隅でいる年若い男。竹蔵というこの村人は、実はこの千代川村の産まれでは無い。一年程前にふらりとやって来た流れ物である。この村にやって来た当初は、村人らに警戒されていたものの、やがて住み着いて山菜取りや畑仕事をし、会合などにも顔を出している内村人らともよしみを通じ、村に溶けこんでいったのだった。
ところが鬼熊対策の寄り合いが始まってからは、毎度この調子である。所詮よそ者はよそ者。竹蔵は内心で残念に思った。
それにしてもこの陰険なやり口は何だというのか。退治して欲しいならハッキリそう言えばいい。そう心の内でひとくさり愚痴た竹蔵だが、口には出さなかった。言えば村人らの奸計に乗せられた形の様で釈然としないからであった。
寄り合いはそうして今日も進展をみせないまま解散となった。日はもう既に暮れている。名主の家を出た村人らの頭上には、星の瞬きがポツポツと現れだしていた。村人らが各々の家路へと散っていく。
竹蔵は帰路の途中で思案していた。
どうにもこの状況はいささか心地良くない。このまま村人らから無言の圧力を受けていれば、普段の生活にも影響を及ぼしかねない。そうなれば一年かけてこの村に溶け込んだ労も水泡に帰してしまう。更に言えば竹蔵自身、山菜採りが出来なくなるのは痛手であった。その鬼熊とやらを何とかしないとこの先如何にも暮らしにくい。
しかし、だからといって、鬼熊退治を名乗り出るのは酌に障る。ではどうするか。答えはひとつしか無いではないか。
竹蔵は家に帰りつくや早速準備に取り掛かった。誰にも告げず、鬼熊を仕留めてやるのだ。
行灯や火鉢を部屋の隅へどかし、床板に敷いてある筵を捲った。そうして十字の印が刻み込まれてある羽目板を外し、床下に隠してあった木箱を取り出した。蓋を開け、中にしまわれてある物を確認する。忍び刀と脇差し、共に刺突に優れた直刀である。棒手裏剣は平板型と丸棒型合わせて計十六本。鉄甲鉤は今回左手にのみ使用するつもりだ。
次いで竹蔵は二種類の忍び装束の内、濃い緑色に染めてある方を取り出した。山中での行動には黒装束よりも適しているからだ。頭巾から脚半、背負い袋まで濃緑一色である。更に苦無二本、最後に火薬の入った小袋を取り出した竹蔵は、木箱を元に戻し、床板を羽目直して筵を敷いた。そうして今度は釜戸脇にある棚から同じ大きさの素焼きの鍋を二つと麻縄、鉄釘を持って来た。鍋を合わせて合わせ目の適当な箇所に苦無で穴を穿つ。その穴から火薬と鉄釘を詰めて火口を取り付け、十文字に縄で縛った。簡易ながら焙烙火矢としてある程度の殺傷力はあるだろう。
一年ぶりに日の目をみる忍び用の諸道具一式を床に展げ目の前にした竹蔵。彼はこの千代川村に斥候として潜入していた忍者であった。
千代川村は彼の主君と敵対する国の領地だ。
小競り合いを繰り返していたが、そろそろ本腰を入れて攻めにかかろうとの考えに至った竹蔵の主君は、行軍の進路を定めた。千代川村はその進攻路上にあり、敵軍はこの村で防備を固める恐れがある、と予測した主君は、千代川村へ忍びの者を潜入させる事にした。先んじて潜入、村人と同化し、来る日には敵陣の偵察、霍乱の任を帯た大役であるが、その役に主君の信任厚い竹蔵が選ばれたのである。
竹蔵は忍び装束を纏いながら、千代川村に潜入する前日、主君から賜った言葉を反芻した。
「お主の戦働き、全うせいよ」
竹蔵はこの言葉を胸に秘め、この地に来たのであった。
それにしても一年かけて村人と馴染み、来るべき合戦に備えていたというのに妙な事になったものだ。まさかこの様な事態になるとは予想だにしなかった。早く鬼熊などという障害を取り除き、普段の日常を取り戻さねばなるまい。
竹蔵は支度を終えて家を出ると、夜の帳が降りた千代川村の野道田道を、岩鬼山に向かってひた走った。
重傷を負った常彦を連れ帰った村人ら二人からの話によれば、鬼熊の体格はそこいらの熊よりもゆうに二回り程は大柄であるという。その体格からして秘めたる威力も相当なものだろう。常彦という村人も、命を落とさなかっただけ幸いといえる。だが所詮、獣に過ぎぬ。岩鬼山に入った竹蔵は、夜目を利かせて山道の奥へ奥へと登って行った。
鬼熊の縄張りは、千代川上流辺という。だが、常彦がやられたのは山の麓だ。縄張りに入る入らないは関係なく用心せねばならないだろう。
やがて竹蔵の走る山道は、千代川に沿う形で右へ左へうねり出した。そろそろ千代川上流辺に差し掛かる頃である。長い間人の往来が途絶えている様子で、生い茂る雑草も丈が長く、道のなかばを覆い隠している。
突然竹蔵は足を止めた。獣の臭いを嗅ぎとったからだ。竹蔵は襟首に仕込んであった棒手裏剣三本を抜き取ると、臭いを辿って再び走り出した。
川辺の岩場が目立つ程まで登って来た時、竹蔵はついに鬼熊を視認した。闇夜の河原で鬼熊はどうやら取った魚を貪り食っている様子だ。音も無く川辺の木立ちに身を隠した竹蔵は、左の指に挟んでいた手裏剣の一本を持ち変えて構える。対岸の河原でいる鬼熊までの距離、約八間程は射程内である。竹蔵は狙いすまし、上段から直打法で投げ打った。真一文字に飛翔した鉄棒芯は、見事左目に突き立った。
血飛沫が上がると共に轟音ともとれる咆哮をあげて仰け反る鬼熊。続け様二打三打と竹蔵が投げ打つと、鬼熊の左肩、左首筋に突き刺さる。手裏剣が突き立つ度に飛散する鬼熊の血が、河原の砂利を赤く染める。
雄叫びをあげて苦悶する鬼熊を見て仕留め得た手応えを感じた竹蔵は、頭巾で覆われた表情を弛ませる。
しかし、鬼熊は倒れない。そればかりか、手裏剣の飛来した出処に向き直り、鋭い視線を走らせた。
鬼熊と目が合った。刹那竹蔵に向かって憎悪の咆哮を轟かせる。
手裏剣くらいじゃ小揺るぎもせんな、と竹蔵が冷や汗をかくと、鬼熊が対岸から川に巨体を投げ入れた。己を傷付けた憎っくき相手に一撃食らわせねば気が済まぬ、と言わんばかりに、竹蔵目がけて川を渡ろうとしている。この場では不利だ、と判断した竹蔵は、身を翻して木立ちの中へ入っていった。
並び立つブナの木のうち、枝ぶりのいい一本に目星を付けた竹蔵は、走りよるや刀の下緒を解いた。
そうして刀をブナの木に立掛け、下緒の端を口に加えると一旦身を放す。勢いをつけて走り込んだ竹蔵は、勢いのまま刀の角鍔に片足をかけて、えいっ、とばかりにブナの木の枝に飛び乗った。直ぐ様下緒をたぐって刀を引き上げる。その刀を腰に差し戻し、次いで背負い袋を外すと中から焙烙火矢を取り出した。お手製ながら、鉄釘を弾子として混ぜている。それ相当の破壊力を望める筈である。
鬼熊の咆哮が近付いて来た。竹蔵の臭いを辿って来たに違いない。
竹蔵は腰の布袋から取り出した燧で打ち出した火を焙烙の火口に移した。火のはぜる音が出ると共に煙が立つ。
鬼熊が木立ちの中に入って来た。視認出来る距離まで近付いて来た時、竹蔵は火花散る焙烙を鬼熊目がけて投げこんだ。
鬼熊の足元に落下する寸前、火薬爆発が起こった。耳をつんざく轟音が鳴り響く。炸裂の威力で土くれが舞い、鉄釘が飛び散る。竹蔵のブナの木にも、数本突き刺さった。
してやった、との手応えが竹蔵にあった。我ながら、予想を越えた爆発だったのだ。
しかし硝煙が辺りを包み、鬼熊の巨体は欠片も見えぬ。死体となったのを見届けねば、安心出来ん。
尚用心を解かない竹蔵。目を凝らして硝煙の先を見通そうしたその刹那、再び咆哮が轟いて硝煙の向こうから鬼熊の巨体が飛び出して来た。
竹蔵がそれと気付いた時には既に遅い。山の様な体格を利した鬼熊のぶちかましが、竹蔵のブナの木を直撃した。人の胴程の太さもあるブナの木だったが、ヘシ折れんばかりに大きく傾いで竹蔵は足を滑らせた。
空中に放り出された竹蔵だったが、間一髪身を捻って片膝の姿勢で着地した。しかし向きが悪かった。敵の攻撃を背後に受ける形で着地してしまったのだ。
しまった、と気付いた竹蔵は、咄嗟に身を反転させた。直ぐ目前に突き出された鬼熊の前足。猛烈なひと突きが竹蔵を襲った。
竹蔵の体が吹き飛ばされた。恐ろしい一撃である。幸いにも木の幹との激突を免れた竹蔵の体は、仰向けのまま山肌に打ち付けられた。
一瞬呼吸が止まる。次いで落雷にでも打たれた様な痛みが体中を突き抜ける。 死ぬかと思った竹蔵だが、鬼熊の一撃を食らう寸前、手甲鉤をはめた左甲で受けていた。幾分衝撃を和らげる事が出来たので助かったのだ。
咳込みつつ立ち上がる竹蔵。その彼を喉を鳴らして睨みつける鬼熊。一人と一頭が木立ちの隙間を通して対峙する。
どうやら鬼熊は敵の手傷の程を観察している様子である。そうと知って竹蔵は今更ながらに戦慄を覚えた。この熊はただでかいだけの獣ではない。戦いというのも知っている、と。
竹蔵は改めて目を凝らして闇の向こうの鬼熊を見た。左目には手裏剣が突き刺さっており、左肩と首筋にも同様に手裏剣が突き立っている。右脇腹は焼けただれ、体の所々に鉄釘が刺さっている。まさに満身創痍である。
しかし鬼熊は尚気力、体力ともに衰えをみせない。唸り声を発して竹蔵を見据える眼光は、敵を威圧する力に満ち溢れている。 竹蔵は右の鉄甲に仕込んであった棒手裏剣を一本引き抜くと、姿勢を落として腰の刀に手をかけ、鯉口を切った。そうして刀をゆっくり抜いた。もはや飛び道具は役に立たぬ。直接刀を突き入れるまでだ。竹蔵は腹を括った。
微風がそよいで山の木々を軽く撫で、枝葉のざわつく音が連鎖する。鬼熊の喉を鳴らす唸り声と竹蔵の荒い息遣いが掻き消される。虫の鳴き声が聞こえないのは、一人と一頭が演ずる死闘を、固唾を飲んで見守っているからかも知れない。
微風がやんだ。周辺の空気が凍てついた一瞬、竹蔵が駆けた。隙のみせない鬼熊が動こうとしないなら、自分から仕掛けるまでである。ただ、無謀な猪突を慣行するつもりなどない。潰れて視界の利かない鬼熊の左側面に周り込むつもりで駆けたのだ。
半円を描く様に鬼熊の左側へ走る竹蔵。突然、鬼熊が立ち上がった。こざかしい蝿を払う為に視界に納めておこう、といった風であったが、立ち上がった鬼熊の雄大な体格は、天をも覆い隠さんばかりであった。そうして敵を威嚇する意味もあるのだろう。
だが、竹蔵は慄然とするどころか好機と捉えた。でかい胴ががら空きだ、とばかりに鬼熊目がけて走り込んだ。
打ち払おうとして前足を振り上げる鬼熊。その前足を狙って手裏剣を投げ込んだ。鬼熊の一撃は手裏剣が足裏に突き刺さった事によってとめられた。同時に鬼熊の懐へ大きく踏み込み、刀を突き入れた。 手応えがあった。竹蔵渾身の突きは、鬼熊の腹を深々と刺していた。鬼熊が苦悶の雄叫びをあげた。瞬時に身を翻した竹蔵は勝利を確信した。
しかしそれが油断であった。鬼熊から飛び退った刹那、前足の一撃が竹蔵を吹き飛ばした。
飛ばされた竹蔵の体は強かに木の幹に打ちすえられた。激しい衝撃に息がつまる竹蔵。次いで激痛が脳天を貫いて苦悶する。
どうやら助骨が数本折れた様だ。咳込みながらそう思った竹蔵は、それでも、鬼熊が次の攻撃を仕掛けてくる、といった危機感から、くらくらする頭と響く痛みを堪えて何とか立ち上がろうとする。しかし力が入らない。意識が朦朧とする。背後では鬼熊の気配が感じとれる。
このままでは甚だ危ない、と思いながらも、薄れゆく意識を繋ぎとめておく気力は、もはや竹蔵には無かった。
竹蔵は主君の居城の広間にて平服していた。たった今、主君から主命を授かったのだ。
幼少の頃から良しみある同年代の我が殿。方や忍として生き、方や統治する者として生きてきた二人。長年育まれてきた主従の絆は今尚揺るがぬ。
命令を申し渡した竹蔵の主君は言葉を続けた。
武名を上げる事すら叶わん任務であり、それも敵陣に単身乗り込むとあって、身の危険は他の任務と比する事など出来ん程である。
「本来なら他の者にやらせたい。しかしな……」
「殿」
竹蔵は声をかける事で主君の言葉を遮った。
「拙者にはわかっております故、何も心配せずお任せくださいますよう」
「そうだな、竹蔵。どの道お主に任せるしか余には出来ん。お主の戦働き、全うせいよ」
「有り難きお言葉、必ずや主命果たしてご覧にいれまする」
竹蔵は我にかえった。どうやら城内での事を夢見ていたらしい、と気付いた時、鬼熊の事を思い出して直ぐ様上半身を起こした。途端に激しい痛みが彼を襲う。顔をしかめつつも、竹蔵は辺りを見回した。鬼熊の姿が見当たらない。
確か、鬼熊の腹に刀を突き込んだ。自身も打ち払われたが、本来なら致命傷となっておかしくない程の手傷を与えた筈。しかし死んだとは思えなかった。
何とか立ち上がり、苦痛にさいなまされ、足がもつれながらも鬼熊がいた地点まで歩いて行った。見ると血痕が木立ちの奥へ続いている。
逃げたのか。
しかし、逃げる事が出来る程体力が残っているなら、何故、自身にとどめを刺さなかったのか。死んだと思ったのだろうか。あるいは戦意を失ったのだろうか。
鬼熊の逃げ去った木立ちの向こうに目を向けながら、竹蔵は思考を巡らせていた。
数日後、何とか下山した竹蔵は、傷を癒すべく家で養生していた。
鬼熊との死闘は夜中のうちに行われ、下山後も村人達に気付かれる事無く家に帰りつく事が出来た。数日間、寄り合いにも出ず、畑にも出てくる様子のない竹蔵を不審に思い、数人連れだった村人が竹蔵の元を訪ねて来た。布団にて寝そべっている竹蔵を見た村人達は、なまくらしているだけだったのか、と呆れ顔で帰って行った。
次の日には早くも噂が広がっていた。
あん竹蔵って奴はやはり生粋の百姓じゃねえ。単なる怠け者だ。そういった評判だったが、外へ出る事が出来る様になって以後も、竹蔵は真実を語るなどといった事はしなかった。村人の為でなく、竹蔵の為でもない。我が国の為、我が殿の為であり、村人としての名誉回復をしないという事は忍としての名誉を賜る事に繋がるからであった。
やがて、何度目かの寄り合いのおり、最近鬼熊を全く見掛けん、また縄張りの奥へと引っ込んだのかのう、といった話が飛び交った。とりあえず、まだ断定出来ん、暫く様子をみようではないか、という事になったが、その暫くたっても姿を見せる様子は一向に無い。村人らは次第に警戒心を解き、更に数日たった頃には安心した風に岩木山へ出入りする事になる。
鬼熊は死んだのだろうか。怪我も癒え、山菜取りに出れる事が出来る様になった竹蔵は、岩木山へ入る度にあの時の死闘が蘇って来て何時も鬼熊の生死に思いを馳る。何度自問したところで答えの出よう筈がないが、考えずにいられない竹蔵であった。
鬼熊のいなくなった日常を満喫する村人も、鬼熊の生死を問う竹蔵の自問も、全てを包みこむ千代川村。そんな彼等の平和な日常は尚暫く続くのであった。
やがて来る大戦まで。
了
別サイトにて投稿した小説をリニューアルした物です。リニューアル改良出来ていればいいのですな。