純潔のミレニアム
揺れる馬車の中で、紙の擦れる音だけがやけに大きく響いていた。
「渓谷に現れたドラゴン退治」
簡素な文字で書かれた依頼書を、ミリィは何度も、何度も読み返している。
指先がわずかに震えていた。
外では、馬の蹄の音が一定のリズムで地面を叩き、乾いた風が布を鳴らしている。
馬車の周囲を、十騎ほどの冒険者たちが囲うように進んでいた。
その様子を、向かいに座る少年――オセロットが、不機嫌そうに眺めていた。
しばらく黙っていたが、やがて耐えきれずに口を開く。
「ミリィ様〜なんでそんな依頼受けたんすか?」
その声に、ミリィの肩がびくりと揺れた。
慌てて依頼書を顔の前に持ち上げ、そのまま視線だけをおずおずとオセロットへ向ける。
「だ、だって…名指しの依頼で断れなくって…ごめんなさい」
「俺に謝んないでいいけど…こんなの剣聖の仕事じゃないでしょー?」
オセロットは足を組み、つまらなそうに天井を見上げる。
外に視線をやれば、馬上の冒険者たちがこちらをちらちらと見ているのがわかった。
好奇と、疑いと、そして少しの軽視。
「……ドラゴン、ですよ……?」
ミリィが小さく言う。
「だからっすよ。余計におかしいでしょ。普通、こんなの名指しで頼むかって話で――」
そこでオセロットは一度言葉を切り、わざとらしく外に顎をしゃくった。
「――しかも護衛付き。しかもあの人数」
馬車の周囲を固める十騎の影。
誰もが一癖ありそうな顔をしている。
「どう考えても、“ついでに様子見とけ”ってやつでしょ」
ミリィは何も言い返せないまま、依頼書をぎゅっと握りしめた。
紙がわずかに歪む。
「……で、どうすんすか」
オセロットが視線だけで問う。
「戦うんすか?ちゃんと」
ミリィは一瞬、言葉を詰まらせた。
喉が小さく鳴る。
それでも――
「……や、やります……っ」
かすれる声だった。
けれど、逃げる響きではなかった。
オセロットはそれを聞いて、ふっと小さく息を吐く。
「……はいはい。知ってますよ、それ」
そして背もたれに体を預ける。
不機嫌そうな顔はそのままだが、どこか諦めたような色が混じっていた。
外では、風の音が少しだけ強くなる。
前方には、黒く切り立った渓谷の影が、ゆっくりと近づいていた。
渓谷の影が、ゆっくりと大きくなっていく。
馬車は揺れを増し、車輪が石を噛むたびに小さく軋んだ。
その中で、ミリィは変わらず依頼書を握りしめたまま、小さく座っている。
白いブレザーに似た上着の裾が揺れ、短い白いマントが肩口でわずかに震えていた。
細い体つきは頼りなく見えるほど華奢で、けれどその曲線は少女らしい柔らかさを隠しきれていない。
金色の髪はふわりと空気を含み、右側でひとまとめに結ばれている。
揺れるたびに、その毛先が肩に触れて、また離れた。
伏せがちな顔の奥、澄んだ空色の瞳は、どこか不安げに揺れている。
首元には細い鎖。
そこに通された指輪が、胸元で小さく触れ合い、かすかな音を立てていた。
ミリィは無意識にそれへ指先を伸ばしかけ――
けれど触れる前に、そっと手を止める。
代わりに、依頼書を握る力だけがわずかに強くなった。
向かいに座るオセロットは、その様子を横目でちらりと見てから、つまらなそうに視線を逸らした。
黒髪に黒目。
日に焼けた褐色の肌は、旅慣れた者の色をしている。
年の割に手足は長く、軽く座っているだけでもどこかしなやかな印象を与えた。
白いシャツに黒いパンツという簡素な格好だが、その上に羽織ったベストには無数のポケットが縫い付けられている。
腰には同じくポーチだらけのベルト。
中に何が入っているのか、外からでは見当もつかない。
ふとした拍子に、ベストの内側に仕込まれたナイフの柄が一瞬だけ覗く。
オセロットはそれを気にする様子もなく、肘をついて頬杖をついた。
視線を外へ向ける。
布の隙間から見えるのは、馬車を囲むように進む冒険者たちの姿だった。
5騎の馬。鎧や武装もばらばらで、統一感はない。
ときおりこちらへ向けられる視線は、好奇と、疑いと、そしてわずかな軽視。
それが、はっきりとわかる。
オセロットは小さく鼻で笑う。
「……感じ悪」
ぼそりと呟いて、再び背もたれに体を預けた。
その隣で、ミリィは何も言わず、ただ依頼書を見つめ続けている。
御者席からは、低い声で交わされる会話と、手綱を引く音がかすかに届いてくる。
馬車の中には、二人分の呼吸だけ。
揺れと、紙の擦れる音と、外から聞こえる蹄のリズム。
それだけが、静かに重なっていた。
前方には、黒く切り立った渓谷が、ゆっくりと口を開けて待っている。
前方には、黒く切り立った渓谷が、ゆっくりと口を開けて待っている。
ミリィはしばらく依頼書を見つめていたが、やがて小さく息をつくと、紙を丁寧に折りたたみ始めた。
震えていた指先が、今は少しだけ落ち着いている。
「仕方ないよ…私は剣聖になって2年…特に大きな実績も残してないから…剣聖とはいえ、私の資質を問う声は多いから…今回の依頼もきっと、ギルドを通して私の実力を見たい…のかなー…なんて」
その言葉に、オセロットの眉が露骨に寄る。
一瞬の沈黙のあと、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「だからって、やり方が汚ねぇんすよ!実力が見たいなら、正々堂々と王国や貴族連盟が依頼すればいいのに!こんな場末のギルドを通して依頼するなんて…ミリィ様、舐められてるんすよ!?」
狭い車内で勢いよく身を乗り出す。
馬車が大きく揺れ、その体がぐらりと傾いた。
ミリィが慌てて手を伸ばしかける。
「オセ…仕方ないよ。実績ないのは、本当のことなんだし…」
「実績がないのはしょうがないでしょ!魔王核もなくなって、平和になったこの時代に、そうそう剣聖が活躍できる機会なんてないってのに!」
声を荒げたまま、さらに一歩踏み出そうとする。
「オセ〜いいから…馬車の中で立たないで〜転けたら大変ですよ」
その一言で、ぴたりと動きが止まった。
数秒の間。
オセロットは不満げに唇を尖らせたまま、ゆっくりと腰を下ろす。
「……はいはい」
ぶっきらぼうに返しながらも、きちんと座り直すあたり、言うことは聞いている。
腕を組み、視線だけを外へと投げた。
「……でも気に食わないっすね」
小さく吐き捨てる。
布の隙間から覗く外では、馬上の冒険者たちが変わらず周囲を囲んでいる。
こちらを気にする者もいれば、露骨に無視する者もいる。
そのどちらもが、同じ温度を持っていた。
値踏み。
オセロットの指が、無意識にベストの縁を叩く。
「……見せてやればいいんすよ」
低く、静かな声だった。
「ミリィ様が、どれだけヤバいか」
ミリィはその言葉に、小さく目を瞬かせる。
それから、困ったように微笑んだ。
「……やばくは、ないと思うけど……」
か細い声だったが、否定の響きは弱かった。
馬車は揺れながら、渓谷の入口へと近づいていく。
風の音が、少しだけ冷たく変わった。
風の音が、少しだけ冷たく変わった。
渓谷の入口はもう目前まで迫っている。
そのとき、御者席の方から声が飛んできた。
「剣聖様ーそろそろ着きますよ。準備してください」
間を置かず、もう一つの声。
乾いた、棘のある女の声だった。
「着いたらすぐ始めますから、遅れないでください」
ミリィの肩がびくりと跳ねる。
慌てて姿勢を正し、背筋をぴんと伸ばした。
「ハ、ハイ!いつでも出れるようにしておきます!」
声は少し上擦っていたが、それでも必死に張っている。
その様子を見て、オセロットの眉がわずかに動く。
外から、小さく――だがはっきりと聞こえる音がした。
「……チッ」
舌打ち。
御者席の女のものだった。
一瞬、空気が冷える。
オセロットの視線がすっと細くなる。
さっきまでの軽さが消え、静かに外へと向けられた。
「……は?」
小さく、低い声が漏れる。
だがミリィは気づいていない。
依頼書を丁寧に畳み終え、胸元へと仕舞いながら、落ち着こうとするように小さく息を整えている。
「……だ、大丈夫……ちゃんと……やらなきゃ……」
自分に言い聞かせるような、かすかな声。
オセロットはそれを聞いて、ゆっくりと視線を戻す。
そして、ひとつだけ短く息を吐いた。
「……まあ、いいっす」
そう呟いて、背もたれに体を預ける。
だがその目は、もう外から逸れていなかった。
馬車は大きく揺れ、やがて速度を落とし始める。
蹄の音が減り、代わりに風の唸るような音が強くなった。
渓谷の奥から、何かがこちらを見ているような気配が、静かに滲み出していた。
馬車が大きく揺れたあと、ゆっくりと停止した。
蹄の音が止み、代わりに渓谷を抜ける風の音だけが残る。
御者席から、低い男の声がかかった。
「剣聖様、着きました。お早く」
ミリィの背がぴんと伸びる。
「は、はい!」
勢いよく立ち上がり、そのまま急いで出口へ向かう。
だが――
「ふぎっ」
鈍い音とともに、額を入り口の縁にぶつけた。
小さな体がびくりと跳ねる。
「……い、いた……」
額を押さえたまま、涙目でうずくまる。
ほんの一瞬の沈黙。
外にいた何人かの視線が、こちらに向いた。
オセロットのこめかみに、ぴくりと筋が浮かぶ。
「……何やってんすか」
呆れた声だったが、すぐに立ち上がり、さりげなくミリィの前に立つようにして外へ視線を向ける。
「ほら、頭下げて。次ぶつけたらほんとにアホっすよ」
そう言いながら、自分の手で軽く縁を押さえる。
ミリィはこくこくと小さく頷き、今度はしっかりと身をかがめて馬車を降りた。
白いブーツが地面に触れる。
乾いた土と、小石の感触。
目の前には、切り立った岩壁が左右に広がる渓谷の入口。
風が強く、マントの端がばたばたと揺れた。
少し遅れて、オセロットも軽く跳び降りる。
着地と同時に、ちらりと御者台へ視線を向ける。
何も言わない。
だが、その目は明確に“覚えている”色をしていた。
そしてすぐに視線を戻し、ミリィの隣へ並ぶ。
周囲では、五騎の冒険者たちがそれぞれ馬を止め、こちらへと集まりつつあった。
値踏みするような視線が、改めて向けられる。
渓谷の奥からは、低く唸るような風の音。
その奥に――何かがいる。
空気が、わずかに重くなっていた。




