第98話『三十五の墓標――常山城跡にて(後編)ー静寂ー』
蝉の声が止み、夜が深く降りていた。
静まり返った宿の一室。
ふかふかの布団に横たわる修は、廊下の向こうから微かに聞こえてくる水音に耳を澄ませていた。
湯上がりの香り、そして、どこか心が落ち着くような人の気配。
「……雨城君、まだ起きてる?」
戸をそっと開けて入ってきたのは、薄いカーディガンを羽織った結だった。
「はい…先輩こそ、もう休んでいいのに」
修が身を起こすと、結は彼の隣にちょこんと座り、目を伏せた。
「……なんだか、怖かったの、さっきの事全部。でも、もっと……悲しかった」
小さな声だった。
彼女の手が震えているのに気づき、修はそっと手を重ねた。
「俺も……同じです。あれがただの映像じゃなくて、本当に生きて、戦って、死んでいった人達の記憶だと思うと、胸が苦しくて」
結は、彼の手を握り返した。
「……ねえ、修君」
名前を呼ばれたのは久しぶりだった。
柔らかい声に、心臓が跳ねた気がした。
「また、みんなで来よう。こうして、ちゃんと祈って、何かを知って、誰かの事を覚えていたい」
修は目を細め、うなずいた。
「うん。俺もそう思う。……幽霊なんてただ怖がられる存在じゃない。俺達に、何かを訴えようとしてる。生きていた事を、忘れないでって」
結の肩が、わずかに寄りかかってくる。
「……ねえ、もう少しだけ、ここにいてもいい?」
「ああ。……もちろん」
室内は、やわらかな静寂に包まれていた。
虫の声も、風の音も遠く、ただ心音だけが重なるように、微かに、穏やかに流れていた。
「雨城君って、凄いよね」
「え、何が?」
「……ちゃんと見てくれる。聞いてくれる。怖がってる私の事も、戦ってる霊の事も。そういう所……私、凄く好き」
心臓が一段と大きく跳ねた。
寝間着の下、熱が広がるのが分かる。
「そ、そう言われると……照れるな」
目をそらすと、結は小さく笑った。
「……ごめん、変な事言っちゃったね。今日は、なんだか心がやわらかくなってるみたい」
そう言って、結は修の肩にそっと頭を預けた。
言葉が出てこなかった。
けれど、何かを言わなくても、静かに共有されたこの夜の時間が、きっと彼女の心に少しでも灯を灯してくれている事を願った。
――コン。
突然、窓の外から何かがぶつかる音がした。
二人は同時に体をこわばらせた。
結は修の腕にしがみつく。
「……い、今のって」
「……風か、何かが……」
だが、修はすぐに違和感を覚えた。
窓には風除けの戸がきっちり閉じられている。
あれほどはっきりした音がするのは、おかしい。
結の表情に再び不安がよぎる。
「ちょっと、見てくる」
「だ、だめ、危ないよ……!」
「大丈夫。先輩はそこにいて」
修は静かに立ち上がり、窓の近くへと歩いた。
障子を開けると、ガラスの向こうに――
――誰かが、立っていた。
女の姿。白い着物。ぼんやりと光る瞳。
すぐに、それが“彼女”だと分かった。
鶴姫――かつて山を守り、討ち死にした女武者。
その残滓が、まだこの地に残っているのだ。
彼女は、静かに修を見つめていた。
そして――
ゆっくりと、首を下げた。
感謝のような、あるいは別れのような、そんな一礼だった。
「……ありがとう」
誰かの声が、耳元でかすかに響いた気がした。
次の瞬間、姿はふっと霧のように消えた。
修は深く息をついた。
「……終わったよ、先輩」
窓を閉じて振り返ると、結は心配そうな顔をしていたが、安堵の笑みを浮かべた。
「良かった……」
再び布団に戻り、二人は並んで座る。
「先輩」
「うん?」
「怖い時はさ、俺を呼んでくれればいい。何度でも、何度でも」
結は目を細めて、うなずいた。
「……ありがとう。修君がいてくれて、ほんとに良かった」
……そして、その時。
――ギシ。
廊下のきしむ音。
――ガサガサ。
障子の外から微かな物音。
修は眉をひそめ、そっと立ち上がると、障子を――バンッ!と開けた。
「――おい」
「ひっ!?」
そこには、耳をくっつけていた君鳥愛菜が盛大に尻もちをつき、ノクスが目を真ん丸にしていた。
そして、背後で不自然に壁に手を当てていた浜野先生。
「……なんだこの覗きトリオは」
「ちちち違うんだよ!? ボクは結先輩の様子が心配で! その、声とか、空気とか、色々とこう……!」
「にゃん(こいつらノリノリだったにゃ)」
「いやいや、俺はただ廊下を散歩していただけでな? な? 君鳥?」
「うそつけーッ!」
修の怒声に、三人共わたわたと逃げ出そうとするが、結がくすっと笑った。
「……ふふ。なんだか、救われた気がする」
「……俺も」
皆が集まった廊下。
くすぐったい空気の中、最後に笑ったのは修だった。
「まあ……なんだ。全員無事で、良かったよな」
「うんっ!」
そして夜は、ようやく穏やかに、幕を閉じるのだった。
第99話『丸山ダムの赤い吊り橋』
深い谷を渡る赤い吊り橋、旅足橋。
そこには、数えきれない悲しみと怨念が渦巻いている。
飛び降りた者の魂が彷徨い、自殺志願者を静かに誘う――。
今夜、俺たちはその恐怖の地に足を踏み入れる。
果たして、無事に帰ることはできるのか。
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