第82話『大垂水峠、霧に咲く声』
大垂水峠――八王子と相模原の境に位置する、古の峠道。
舗装された現在の道路とは別に、旧道は苔むし、木々に覆われ、地元の者すら立ち入らなくなって久しい。
だが、その旧道の奥に、ある“声が咲く場所”があると聞いて、俺達は足を踏み入れた。
「この霧……おかしくない?」
「また、霧?もっと何かないのかね、瘴気が漂っている……とかさ!」
愛菜が眉をひそめながら、足元を見つめた。
靴のつま先が見えないほど、白い霧が地面を這っている。
俺は一歩踏み出し、湿った空気を吸い込んだ。
「ただ……こいつは、朝霧でもないし……温度差の霧でもない。成分が違う」
「しゅーくん、成分って……」
「いや、なんかこう、霊的な“濃度”の話な」
俺はポケットから塩の袋を取り出し、掌にひとつまみを取って口に含んだ。
塩の味はあったが、どこか鉄っぽい――嫌な味が舌に残る。
「ここは“出る”場所なんだね……」
結先輩が言った。
彼女は例によって何も感じてはいないはずだが、それでもこの空気の異様さは伝わっているのだろう。
彼女の隣に立つ守護霊の母親が、何かを言いたげに俺を見ていた。
「……誰か、呼んでるな。奥だ」
それは峠道の途中にぽっかり空いた、古い祠のような場所だった。
祠の屋根は崩れ、木柱も風化していたが、中央には誰かの手によって供えられた花がひと束。
だが、その花はすでに枯れ、黒く変色していた。
――カサッ。
音に振り向くと、霧の中に誰かが立っていた。
女……いや、少女のような小さな影。
だがその姿は途中で“切れて”いた。下半身がないのだ。
「見えるか、愛菜?」
「ううん……でも、すごく寒くて、ゾワゾワする……」
「なるほど。じゃあ、完全に“こっち側”だな」
俺は祠に近づき、声をかける。
「おーい、そこのお嬢さん。あんた、ここで何してんの?」
少女の霊は微動だにせず、ただ口を開いていた。
言葉はない。
音もない。
ただその口だけが、ゆっくりと何かを“囁いて”いる。
俺はその形を読み取った。
「さがして」
「探してるのか?何を?」
少女は手を差し出してきた。指差した先――それは祠の裏、岩場の隙間だった。
俺は慎重に回り込み、そこを覗き込む。
「……手紙、だな」
湿った土の中から、封筒に入った古い手紙が出てきた。
封は破れかけていたが、中の文字はまだ読める。
『おかあさんへ』
小学生の文字。中身を読んで、俺は理解した。
「この子、母親の霊を探してたんだ……」
祠の横に、もうひとつ影が立っていた。
気づかなかったのは、それが霧に溶けるように存在していたからだ。
「こんなにも近くにいたのに気づけなかったんだな……」
先ほどまでいなかったその“母親の霊”が、娘の霊に気づいた瞬間、二人は手を伸ばし合うようにして――
静かに霧の中へと消えていった。
「……あ、消えた」
愛菜が呟いた。
「再会出来たんだね」
結先輩も、どこか微笑んでいた。
俺は残った手紙を持って、そっと祠に戻した。
「声は……咲いたな」
そして気づく。
霧が、すっと晴れていた。
帰り道、浜野先生が車を停めて俺達を拾ってくれた。
「ったく、霧の中に突っ込むなって言っただろ。帰ったらレポート五千字だ」
「えぇえ……」
「いいじゃん愛菜、作文スキル見せるチャンスだよ」
「ボク、字が小さいから損してる気がする!」
車内に笑い声が戻ってきた。
けれど、その祠の奥からは――
まだ誰かの囁きが、風に乗って届いていた。
次回予告
第83話『旧甲州街道、あの声をなぞって』
ひとつの声が消え、また新たな声が道をさまよう。 誰かを呼ぶその声は、今も「おかえり」と囁き続けていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
評価(★★★★★)やブックマークで応援していただけると嬉しいです。
続きの執筆の原動力になります!




