第79話『血の城、声なき落城・前編』
その日、八王子の空は朝から不自然なほど霞んでいた。
濃い霧はまるで山の息づかいそのもののように、静かに、しかし確実に市街地へと降りてくる。
光すら鈍らせるそれは、ただの自然現象にしては異様すぎた。
「やだ、天気予報じゃ晴れだったのに……なんか重くない?」
助手席で頬杖をついていた愛菜が、フロントガラス越しに空を睨みながら呟く。
後部座席のノクスがぴくりと耳を動かし、小さく「にゃ(ヘビーにゃ)」と鳴いた。
運転席の浜野京介がサングラスを外して、だるそうに目を細めた。
「うーん……これは完全に“出てる”ねえ。気圧じゃなくて、気配の方」
「UFOの話じゃなくて、霊気の話してくれます?」
後ろで修が呆れ声を返すと、浜野は笑いながらハンドルを切った。
「似たようなもんだろ。どっちも電磁波には敏感だし」
「次元が違う話を同列にしないでください」
黒咲 結が、スマホを握ったままそっと口を開いた。
「……でも、私、何も感じないんだけど……逆に、それが不安で」
「見えない方が安全っすよ。見えてる俺が保証します」
そう言って修がノクスの耳をむにゅっとつまんだ。
「にゃお!!(やめろー!集中出来ないにゃ!)」
一瞬、笑いが車内に満ちた。
だがその空気は、駐車場が近づくにつれて自然と凍りついていく。
カーステレオから、突如ノイズ混じりの音声が漏れ始めた。
『……――ここに……声……助け……――』
「……今、何て?」
結が顔を上げるが、浜野は無言でラジオの電源を切った。
「電波、乗っ取られてるな。霊波って奴だ」
「こっから先、スマホもGPSも使えないかもね」
愛菜がリュックを締め直しながら言うと、霧が山の上からじわじわと流れ込んでくるのが見えた。
◆
登山道を進み始めると、周囲の音が消えていく。
鳥の声も、風の囁きも、葉のざわめきさえない。
まるで世界そのものが息をひそめて、彼らの到着を待っているかのようだった。
「……静かすぎて、逆に怖いかも」
結がつぶやいた直後――
カサッ
枯葉を踏むような音が、真横から聞こえた。
けれど誰も動いていない。
「今の、私じゃないよ?」
結が恐る恐る言うと、愛菜が立ち止まり、霧の中を睨んだ。
「……誰か、ついてきてますね」
ノクスの背中の毛が逆立ち、小さく唸る。
「にゃ……(見えないのが逆にヤバいにゃ……)」
「警戒強めて。愛菜、気配の濃度は?」
「まだ“断片”。でも奥に本体がいる」
修の指示で隊列を再編し、彼らは御主殿跡を目指して進んでいく。
◆
御主殿の滝付近。
水が岩肌をすべり落ちる音すら、霧に吸い込まれてぼんやりとしていた。
「誰かが……泣いてる?」
愛菜が足を止め、耳を澄ます。
しかし、音は聞こえない。
けれど――“泣いている”という感覚だけが、空気に染み込むように伝わってくる。
「共鳴型の残留思念……それも、集団じゃない。個人……いや……重なってる……?」
愛菜が眉をひそめる。
修も隣に立ち、同じ方向に目を向けた。
「何層かの記憶が上書きされてる……それも“生きてる”感じだ」
「にゃお……(何かが、今もこの場所に、縛られてるにゃ)」
ノクスがうずくまり、地面に爪を立てる。
「こりゃ……下手に進むと、霧ごと引きずり込まれるな」
浜野があくび混じりに呟く。
が、言葉とは裏腹に、足元の姿勢はすでに戦闘モードだった。
「先生、真面目に危ない時は危ないって言ってください」
結が小声で言うと、浜野は珍しく真顔になった。
「黒咲。俺でも“何も感じない”ってのは、むしろ異常なんだ」
「……」
結は言葉を失い、唇を結んだ。
その時、ふいに愛菜が口を開いた。
「“お城の中に入っちゃダメ”って、声がした」
「誰の?」
「分からない。でも、はっきり伝えてきた。“戻れ”って」
「逆に気になるな……って思うのは俺だけか?」
修が小さく笑いながら、石段の先に目を向けた。そこには、あるはずのない建物――
「……ある」
愛菜がぽつりと呟いた。
「なにが?」
「“あるはずのない建物”が、霧の中にある」
その瞬間、霧の中からわずかに浮かび上がる黒い影が見えた。
まるで数百年前のまま残された御主殿。
瓦も、柱も、灯籠も。
全てが、時を止めたように静かにそこに“在った”。
「幻影……にしちゃ、質がリアルすぎるな」
「ここだけ、歴史が止まってる……」
修と愛菜が同時に言った。
「にゃお……(霧の中に、何かが“立ってる”にゃ)」
ノクスがそう言った瞬間、霧が風に流れるように動き、その奥にひとつの人影が現れた。
白い甲冑を身にまとい、血塗れのまま立ち尽くす――かつての武将。
「……あれは」
修が呟くと同時に、男の霊がゆっくりと顔を上げた。
目は虚ろで、だが何かを訴えるように口を開きかけ――
ズンッ
地鳴りのような重低音が山全体に響いた。
「来るぞ!遮断出来ないタイプの“現象”だ!」
修が叫んだ瞬間、霧が一気に膨張し、全方位から包み込むように迫ってきた。
「退避!一度下に!」
浜野の声が飛ぶ中、四人と一匹は霧の中に呑まれ、視界が白に塗りつぶされた――。
次回予告
第80話『血の城、声なき落城・中編』
現実の地形がねじ曲がる。
御主殿跡で起きる“もうひとつの落城”。
霧の城に囚われた者達は、過去の亡霊と邂逅する――。
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