第78話『願いの果てに』
霧が晴れたトンネルは、音を取り戻した。
風の音。
遠くの踏切。
木々が揺れるさざめき。
外の世界の気配が、ひとつずつ戻ってくる。
だがその中で、ひとつだけ“こちら側”に取り残された存在があった。
トンネルの中央に、修だけが視える男の霊が立っていた。
「……近くにいる」
修が小さく呟いた。
愛菜と結には、その姿は見えない。
けれど愛菜は、何かがそこに在る事を察していた。
「……たけしさんだね?」
修は頷いた。
男の霊は近くでぼんやりとした輪郭を持ち、スーツ姿のまま、ただ佇んでいた。
だが、その目には感情があった。
言葉にならない想いが、そこにあった。
修は一歩、前に出た。
「……奥さんが、あなたを探してた。『帰ってこないの?』って、何度も言ってたよ」
男の霊が、わずかに目を伏せた。
『……あの晩、怒鳴って家を出た』
言葉ではない。
だが、修の意識に直接届くような“声”が聞こえた。
まるで胸の奥に重くのしかかるような、悔いと痛みのこもった響きだった。
『仕事がきつくて、心がささくれ立って……彼女が悪い訳じゃなかったのに……』
記憶の断片が、修の視界に浮かび上がる。
夜の台所、冷めた食卓、怒号。
そして、男が乱暴にドアを閉める音。
『車に乗って、そのまま……でも、霧で前が見えなかった。……ブレーキが遅れて……』
事故の瞬間が、白い残像のように空間に焼きつく。
『電話、鳴ってた。彼女からだった。でも、俺は……出られなかった』
その言葉に、修の胸も苦しくなった。
声にしなかった言葉。
届かなかった最後の想い。
この霊は、その断片をずっと、霧の中に閉じ込めていたのだ。
「愛菜。そっちから、今の気配がどう見える?」
修が背後に声をかける。
愛菜は目を細め、空気の揺れに集中した。
「……うん。男の人の気配。さっきの女の人と同じくらい濃い……けど、すごく後悔してる。胸の奥にずっと、重たいのがある感じ」
「先輩。今、この空間、音がちゃんと届いてるか確認して」
「……うん、たぶん。さっきより響く。声が消えない」
結は視えないものの、“普通”を知る者として異常との違いを察知する役割を担っていた。
修は静かに息を吐き、懐から一枚の《封断符》を取り出した。
微かに焦げた痕跡がある、それは前回の結界で半壊したものの残りだった。
「ここから先は、俺一人でやる。……言葉を、取り戻す儀式だ」
修が地面に膝をつくと、ノクスが彼の隣に寄り添った。
「ニャ(よし、支えるぞ)」
その一言で、愛菜はノクスが“本気”に入った事を悟る。
いつもの軽口は消えていた。
修は目を閉じ、指で霊符に紋様を描き直し始める。
「——《真語断ち》、解除式をここに起動する。音なき想いよ、声となれ。記憶の殻を破り、言葉を超えろ」
男の霊の輪郭が揺れた。
空間に微細な震動が走り、空気そのものが言葉を伝える媒体に変わっていく。
「言え。あなたの言葉で。……奥さんに、何を伝えたい?」
しばしの沈黙のあと、男の霊が唇を動かした。
『……ごめん。帰りたかった。だけど、戻れなかった。……ずっと、それが言えなくて……』
その声は、今度は誰の心にも響いていた。
気づけば、愛菜も、そして結も、その想いを“音”として感じ取っていた。
ノクスがトンネルの奥へ向かって一声、鋭く鳴いた。
「ニャオッ!(来るぞ!)」
白い霧の中から、女性の霊がふたたび現れる。
その姿ははっきりとした輪郭を持っていた。
それが“視えた”のは修だけだったが、他の三人も確かに、彼女の存在を感じていた。
彼女は歩み寄り、微笑んだ。そして一言……。
『……おかえり』
男の霊の目から、ぽたりと涙のようなものがこぼれる。
彼もまた、微笑み返す。
『ただいま』
たったそれだけの言葉が、この場に残された“わだかまり”を解いた。
その瞬間、霧がふわりと舞い上がるように空へ昇り、ふたりの霊はそっと消えていった。
まるで、時間の断層が一つ、優しく閉じられたかのように。
◆
帰り道。夜明け前の空の下、三人と一匹は歩いていた。
「ねぇ……最後、ほんとに、成仏出来たんだよね?」
結が不安そうに尋ねる。
修は頷いた。
「ああ。声が届いたからな。ちゃんと、届いた」
「ふたりとも、きっともう……あっちで一緒だよね」
愛菜がそっと空を見上げる。
その横で、ノクスが尻尾をゆっくり揺らしていた。
「ニャ(霧が晴れたのは、心の霧も同じって事さ)」
「なに?今、良い事言った?」
「ニャ(まあな。録音しといてもいいぞ)」
三人の間に、ようやく静かな笑いが戻る。
◆
その頃、別の場所。校舎の屋上で、ひとりの影が立っていた。
浜野は夜の空を見上げ、ひとつだけ呟いた。
「“真語断ち”……また使ったか。だが、まだ不完全だな、雨城」
その手には、一冊の黒いノートが握られていた。
そこに、一つの文章が書き足される。
ーー千駄ヶ谷、霊的交信、成功。
いつもとは違う雰囲気を放ち、目も虚ろ。
まるで何者かに操作されているかのようーー
夜が明けるまで、まだ少しだけ時間がある。
次回予告
第79話『血の城、声なき落城・前編』
霧に沈む八王子城跡。
誰もいないはずの山で、足音だけが追ってくる。
聞こえるはずの声が消え、
聞こえないはずの叫びが響く――。
次回、『血の城、声なき落城・前編』
その静けさは、何かが潜んでいる証。
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