第77話『霧に消えた声』
次の日の深夜。
千駄ヶ谷トンネルの入り口に立った瞬間、昨日とは違う空気が広がる。
深夜にもかかわらず気温は高く、湿度もある。
それなのに、トンネル内部には不自然なまでに白く、冷たい霧が漂っていた。
愛菜は眉をひそめ、慎重に足を踏み入れる。
「……これ、普通の霧じゃないよ。ノクス、警戒して」
「ニャ!(りょ!)」
ノクスが猫の姿のまま足音も立てずに霧へと進み、空間の歪みを探るように鼻をひくつかせた。
彼の警戒は、愛菜の言葉を裏付けるようにピンと張り詰めていた。
「変だな……霧というより、結界の匂いがする、昨日と全然違うな……」
修は腰を落とし、地面に指を這わせる。
濡れているわけでもないコンクリートから、微細な振動が指先に伝わってきた。
「空気が……揺れてる。誰かが、あるいは“何か”がここを隠してる」
その隣で、結が小さく頷く。
「音が……吸われてる。聞こえない訳じゃない、でも響かないの。まるで、声そのものが飲み込まれてくみたい」
結が、そっと手を叩いてみせる。
乾いた音が一瞬鳴ったように感じたが、すぐに霧に呑まれて、何もなかったかのように消えてしまった。
「……これは霊的遮断。物理的な音じゃ抗えない」
修がポケットから紙垂を取り出し、慎重に地面に置く。
その瞬間、紙垂が微かに浮かび、風もないのにふわりと震えた。
「結界が内部に広がってる。この先、何かがあるな」
愛菜が首を傾げる。
「でも……何の為に?」
答えはなかった。
ただ、霧の中から誰かの視線のようなものが這ってきている。
それも、一人や二人ではない。
冷たい何かが、背筋を撫でる。
「進もう。けど絶対に、隊列は崩すな」
修が先頭、愛菜とノクスが中間、結が最後尾を守る形で、霧の奥へと踏み出す。
◆
トンネルの中は、どこまでも静かだった。
車の通行音も、外の風の音も聞こえない。
ただ、霧が耳の中にまで入り込んできそうな、押し黙った沈黙が支配していた。
「……ここが、今までで一番妙な場所だね」
結が立ち止まり、霧の奥を見つめる。
その瞳が、ごく僅かに揺れた。
「視えた?」
愛菜が問いかける。
「ああ。……女の人が、立ってた。手を伸ばして、誰かを呼んでたような……でも、声がない」
「叫んでるのに、音が出てないって事?」
「そう。まるでここは――音そのものが“封じられてる”みたいだ……」
修が小さく息を吐き、再び紙垂を空中に掲げた。
霧が紙垂を避けるように渦を巻く。
「この霧、ただの結界じゃない。霊的記録……“過去の再投影”かもしれない」
「過去の再投影……?」
結が呟く。
その瞬間、霧の中から微かな声が届いた。
『……た……け……し……』
「今の、聞こえた?」
愛菜が反応し、全員が足を止めた。
その声はとても小さく、途切れがちだった。
けれど、はっきりとした“名前”が混じっていた。
「たけし……?」
結が眉を寄せる。
「そういえば、昨日録音した時、女性の声で『あの人、帰ってこないの』って……」
「……多分、彼女の“想い”がこの場所に残ってる」
修が歩みを進めると、視界が突然揺れた。
◆
――目の前に、事故車両が浮かび上がる。
ひしゃげたバンパー、血の滲んだフロントガラス。
運転席の男性が、ぐったりとハンドルにもたれている。
「……これって……」
「見えてるの、私だけじゃない?」
結が小声で言うと、他の二人も頷いた。
「霧の中に、記憶が投影されてる。ここで本当に事故があったんだ」
その時、女性の影が男に駆け寄り、泣きながら何かを叫んでいる。
けれど、音は届かない。声はすべて、霧の中に呑まれていく。
「想いが……伝わってない」
愛菜が、ぽつりと呟いた。
「声が届かなかった。それが“この霧”の正体かも」
修が頷く。
「声=言葉が断ち切られたまま、想いだけが彷徨ってる。結界は“言霊”を閉じ込める為のものだったんだ」
「つまり――ここに残されたのは、“会えなかった二人の想念”」
結が胸を押さえる。
その瞬間、トンネルの奥から、新たな影が姿を現した。
男の霊――。
だが、その姿はぼんやりと歪み、霧と同化するように揺れていた。
「いた……!」
愛菜が声を上げたと同時に、周囲の霧がざわめいた。
目に見えない声が、押し寄せてくるような感覚。
「まずい、霧が反応してる……!」
修が結界の中心に向かって走り出す。
「ノクス!」
「ニャア!(合図して!)」
ノクスが霧の中に飛び込み、地面に円陣を描き始めた。
同時に、修がポケットから《言語封断符》を取り出す。
「“真語断ち”を起動する。少しでも言葉を取り戻せば、彼らは繋がれるはずだ」
「雨城君、危ないよ! 霧が強くなってる!」
結が叫んだが、その声すら霧に遮られていく。
◆
男の霊の輪郭が定まろうとしていた時、遠くで、女の霊が霧の中から姿を現し、男の霊を見ていた。
『――俺は、ダメだ……俺は……俺が悪いんだ……』
男の霊はトンネルの闇の中に消えていった。
それと同時に結界が音もなく、崩れ落ちる。
◆
結界が無くなったからか、トンネルにはもう霧はなかった。
空気の重さも無くなってはいるが、彼を救えなかった……。
「届かなかった……」
結が静かに呟く。
「うん、あと少し……いや、彼には何かがある……」
修はトンネルの奥を見ながら呟いた。
次回予告
第78話『願いの果てに』
霧の結界が解けた今、最後に現れた男性の霊が語る“真実”。
夫婦の別れに隠された、事故の本当の理由とは――?
そして修達は、言霊を結ぶ儀式《真語断ち》の極限に挑む。
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