第76話『千駄ヶ谷トンネルの残響』
夜の都心は、まるで息を潜めたように静まり返っていた。
深夜二時。
街灯の柔らかな光すらも、どこか頼りなげに揺れている。
千駄ヶ谷トンネル。
その上に広がるのは、無数の墓石が連なる青山霊園だ。
風もなく、空気はひんやりと肌を刺すようだった。
「ここ、噂通り結構ヤバいらしいよ」
君鳥愛菜は腕を組み、薄暗いトンネルの入口をじっと見上げている。
隣でノクスは丸まったまま、いつもより警戒しているようだった。
「実際、このトンネルで録音したら、誰もいないはずなのに“声”が入ったって投稿もあるみたいよ」
結がスマホを操作しながら説明した。
彼女はいつも通り落ち着いていて、少しばかり興味深そうな表情を浮かべている。
「へぇ〜、でも私はここの音の響き、好きなんだよね。静かで……なんだか落ち着く」
白いワンピースの裾を夜風が優しく揺らす。
ひよりはトンネルの入口近くで小さくスキップして音の反響を確かめていた。
「よくそんな事言えるな……ここ、霊の目撃例が多い場所だってのに」
修は録音機器のセットに集中しながら苦笑した。
懐中電灯の光がコンクリートの壁にぼんやり滲んでいる。
「まあ、録れても録れなくても、素材としては十分だろ」
空気は冷たく湿っていた。
トンネル内からは微かな風が流れているようで、まるでこの場所が呼吸しているかのようだった。
「じゃあ、録音スタートしましょうか」
結が機材のスイッチを入れると、微かなホワイトノイズが辺りに広がった。
静寂の中に潜む何かを捉えようとするように。
一行はトンネルの中へ足を踏み入れた。
壁面のひび割れから染み出すような湿気が、胸の奥にざわめきを起こす。
「しゅーくん、何か感じる?」
愛菜が振り返り、小さな声で尋ねた。
「……あー、まぁ。背後に視線を感じるような気はするな」
修は懐中電灯の光を少し振り返しながら、眉をひそめた。
「俺達だけじゃないな……音声入ってるかな?」
結が言葉を重ねる。
「え……?録音開始からまだ10分も経ってないよ?声は入っていないはずだけど……」
トンネルの奥から、かすかな囁き声と、遠くで響くような足音が混ざって聞こえた。
「録音機器、ちゃんと動いてる?」
修が手元の録音機器の再生ボタンを押す。
「……おっと、声が入ってる……何かの囁きか?」
静かな中に混じった不気味な声に、ひよりの背筋がぞくりとした。
「ここに誰かいるの?」
ひよりが恐る恐る訊ねる。
「いないはずだ。だが……」
トンネルの奥で、切なげな声がこぼれた。
苦悶のような、怨嗟の響きを帯びていた。
「……これは、怨霊の声かもしれない」
結の言葉に、一同の空気が一気に引き締まる。
「もっと奥へ進む?」
愛菜が問いかけた。
「無理は禁物だが、調査は続ける」
修は懐中電灯を強く握り直し、歩みを進めた。
闇は深くなり、壁のひび割れからは古びた血のような赤い染みが見えた。
そこから、より冷たい空気が吹き込んでくる。
「冷気が強くなったよ!」
ひよりの声が震えた。
突然、足音が無数に鳴り響いた。
まるで沢山の靴底が地面を叩くように。
「止まれ!」
修が叫び、振り返ると、暗闇の中にぼんやりと人影が浮かんだ。
「誰だ?」
その影はゆっくりと女性の姿に変わり、表情は歪んでいた。
「助けて……ここから出して……」
怨嗟に満ちた声は切迫していた。
「どうしよう?」
ひよりが言葉を潜めた。
「声をかける……多分、霊だ」
修は呼吸を整え、低く声をかける。
「ここで何があった? 話せるなら聞く」
女性の霊は驚いた表情の後、かすかに言葉を紡いだ。
「夫がここで死んだの……誰にも知られずに……ずっと探してるの」
重苦しい空気が流れる。
「詳しく話してほしい」
修が優しく促す。
「夫は事故に遭い、ここで命を落とした。私は彼の魂を見つけたくて」
幽霊は消えゆきながらも、手を伸ばした。
「約束する。彼の魂を探し、成仏させる」
修は固く頷いた。
女性の霊は消え、トンネルに静寂が戻った。
「録音を止めよう」
一同は安堵の息をついた。
「帰ろうか」
千駄ヶ谷トンネルの夜は、静かに、しかし確かに“声”を残していた。
次回予告
第77話『霧に消えた声』
調査の記録には、確かな“声”が残されていた。
しかし、現場では謎の霧が発生し、一行は不可解な現象に巻き込まれる。
“千駄ヶ谷トンネルの残響”は、まだ終わっていない。
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