第69話『犬鳴村の夜』
湿った風が、ぬめりを帯びて肌を撫でていく。
修達が辿り着いたその場所は、現実から切り離されたように静まり返っていた。
木々は不自然にねじれ、電柱は斜めに傾き、誰も住んでいないはずの古民家の戸が、微かに軋んでいる。
空は曇天。
だが、それ以上に重いのはこの空気だ。
まるで、目には見えない何かがずっとこちらを見下ろしているようだった。
「……ここが……犬鳴村……?」
結先輩が震えた声で呟く。
普段はどこか頼れる彼女の顔が、今は明らかに青ざめていた。
鳥居の奥には、朽ち果てた家々が並び、その窓という窓全てが暗闇に開かれた口のようにこちらを向いている。
「うぅ……しゅーくん、ここ……息、しづらい……」
愛菜はノクスを胸に抱えながら、何度も首を巡らせる。
ノクスはピクリとも動かず、目だけを細めていた。
「にゃう……(この村、生きてる)」
――生きている。
ノクスの言葉が、背筋を冷たく撫でた。
先生は後ろでごくりと唾を飲み込んでいた。
だがすぐに、小声で囁く。
「犬鳴村……ダムに沈んだはずの村だ。だが、こうして現れている。何かが、呼び寄せたんだ……」
修はその言葉を聞きながら、ふと呟く。
「……前にも言ったが、まるで屍村だな……」
言葉にした瞬間、村全体の温度が一段、下がった気がした。
村の奥から、ぽつり……ぽつり……と濡れた足音が響き始めた。
誰も歩いていないはずなのに、土を踏みしめる音だけが一定のリズムで続く。
軒先から、ゆっくりと顔が覗いた。
人間のようで、人間ではない。顔の中心にぽっかりと空いた黒い穴。
目でもなく口でもなく、ただ“空虚”だけがある。
「……来るぞ」
修が息を呑んだその瞬間、背後の鳥居が――音もなく消えていた。
振り返れば、そこには壁のように密集した木々と土の壁。
帰り道など、もうどこにもない。
「……閉じ込められた……」
結先輩が小さく呻く。
「誰も、出さないつもりなんだよ……ここから」
村の奥の闇の中。
無数の影が立ち上がる。
古びた着物を引きずりながら、首の曲がった者、目のない子ども、体のねじれた老婆――
それらが静かに、しかし確実にこちらへと歩みを進めていた。
「っ……人、じゃない……っ!」
愛菜がノクスに顔を埋める。
「にゃう……(ここは、“向こう側”だ)」
修は唇を噛んだ。
恐怖が喉元を這い上がってくる。
だが――それでも。
逃げてはいけない。
ここで目を逸らせば、“何か”に喰われる。
「ここが地獄でもいい。けど……真実を暴くのが俺の役目だろ」
修の目が、闇の奥の何かを射抜いた。
「……行くぞ」
次回予告
第70話『封じの家』
掟に背いた者は、家に囚われる。
壁の裏、床の下――まだ、生きている声がする。
そこに在るのは“村”ではなく、“呪い”そのもの。
次回、誰も帰れぬ扉が開く。
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